第二章 第八話
2016年は、この後特筆すべき出来事がない。しかし、楠木正興大統領の体調はやや芳しくなかったようで、5月以降2ヶ月に一回のペースで検査を受けるようになった。酒も一切口にしなくなったが(煙草は一貫して吸ったことが無かった)、それでも激務の状態を緩めようとしなかったため、側近たちから心配され続けた。
「この正念場で、わしが引き下がるわけにはいかない」
この頃の正興の口癖である。相当、気負いしていたことが分かる。
万が一にも引き続き備えた。2016年12月、後継者指名を受けている正朝が党政治局員に昇進し、党組織運動部長に就任した。同時に沙織も中央委員に昇進し、党教育・青年運動部長代理に転じた。大統領の二人の子の急速な昇進は、大統領の健康不安説をより印象付けるものとなった。
2017年1月の新年式典では、大統領の横に正朝の姿があった。そして一中央委員の沙織も、二人がいる最前列の端の方に着座していた。中央委員レベルの場合、基本的に前から二列目より後ろに座るが、序列が高い場合は、沙織のように最前列に位置する場合があった。この時の党内序列は、正朝が第5位、沙織が15位だった。
式典の後、沙織は父に話しかけた。
「お父さん、今回も何故私にあんな要職を…?」
「知りたいか?」
「そりゃあ、まぁ…」
「早く、この国を背負ってもらいたいからだ」
「い、いや、後継者は正朝お兄ちゃんの方でしょ?」
「正朝一人では、色々苦労するだろ?」
「それも、正純伯父さんとか、遠藤さんとかが支えてくれるんじゃ…?」
「まぁな」
「それに、お兄ちゃんは、私のこと嫌っているし…」
「それも知っている」
「下手に私が昇進しちゃうと、もしかしたら…」
「これ以上言うな、沙織」
何かを恐れているようにも見える沙織の表情に対し、正興は冷徹に言った。
「良いか、今正朝の性格に、不安を抱いている幹部が沢山いる。わしが居なくなった後、もし、正朝への恐怖が最高潮に達した時、彼らはどうすると思う?」
「ま、まさか、反乱?」
「そうだ。そんなことになったら、楠木家の立場はどうなる。もし、正朝以外に、めぼしい幹部が楠木家に居なかったら、楠木家以外の幹部がトップに就くことになるだろう。果たして、上手く行くかどうか」
「それは…」
「わしが言うのもなんだが、無理だろうな。爺さんと父さんと俺が、既に『楠木王朝』の体制を作ってしまったからな。王朝無くして、南南興無し。王朝が崩れたら、北南興に呑み込まれるか、中国の言いなりになるか、はたまたアメリカが侵攻してくるかになるだろう。どちらにしろ、南南興の独立は消え失せる」
「…」
「だからこそ、沙織には苦労をしてもらう。沙織には『出世』してもらわなければ、何かあった時に、この国を引き継いでもらわないといけないからね」
「そ、そんな、私には…」
「まぁ、十中八九ないとは思うがね。なんだかんだ、正純が口うるさく言ってくれて、遠藤もそつなく色んな調整をしてくれるだろうからな」
「でもさ、お父さん」
「なんだ?」
「こう言っちゃ悪いけど、流石にお父さん、まだまだ元気でやっていくよね?」
「まぁ、大丈夫だと思うけどな。ちょっと働きすぎとは言われている」
「ほらやっぱり。お父さんも、早寝早起きしてよね。何かあってからでは遅いよ」
「分かった分かった」
一方の正朝、沙織の超スピード昇進について大変苛立っていた。あのような、日本かぶれの『軟弱な』妹を、何故皆可愛がるのか。確かに『デキる』ところがあるのは認めるが、彼女が出世することで、自分の立場が更に危うくなるかもしれない。そう思うと、正朝は気が気でなかった。
そしてその焦りが、次第に行動に出るようになってしった。些細なミスで部下を謹慎させる、妊娠中の妻につらく当たってしまう、他の幹部との口論が増える、その他諸々の問題行動が見受けられるようになった。
そして、恐れていた事態は、突然起こった。2017年6月、楠木正興大統領は、執務室で心臓発作に倒れたのである。




