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南興の赤星  作者: KKKI
序章
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序章 戦前編

序章では、説明が続きます

(2021年6月6日、旧1話と旧2話を合わせて、『戦前編』としました)

 南興島。日本列島から1800㎞南方にある、おおよそ南北362㎞、東西258㎞に広がる島である。元々、ポリネシア系先住民族チャモロ人が、この広大で温暖な大地に数十万定住していた。

 1521年、スペインの冒険者マゼランが、この島を『グランデ』と名付けた。1565年から植民地支配がはじまり、チャモロ人への圧制が敷かれた。島内中部の南寄りにサン・フェルナンド市を建設し、そこを統治拠点とした。

 1595年、豊臣秀次の切腹事件の余波で逃れてきた数百の武士団が、グランデ島に流れ着いた。その長であった木村常陸介重玆は、現地スペイン人総督と渡り合いながら、家臣たちとチャモロ人は次第に融合していった。更に、関ヶ原の戦い後、宇喜多秀家が八丈島に流されていたが、それを知った常陸介が、秀家をグランデに迎え、日本人集団の酋長に推戴した。更に大坂の陣後、豊臣軍で戦っていた明石全登(元宇喜多家家老)、長曾我部盛親(元土佐国主)とその家臣団数千人が命からがら落ち延び、秀家の手引きでグランデ島へ落ち延びた。その後三十年で、武士から庶民まで、計十万人もの人々が、グランデ島へ移住した。

 1665年、スペイン総督が、グランデ島全土に、刀狩令を発布した。日本の豊臣秀吉が行った刀狩令と異なったのは、グランデの刀狩令は武士を含む全ての住民を対象としたものであったところだ。当然、武士達はこれに猛反発、木村重成(重玆の子・72歳)、宇喜多秀正(秀家の孫・17歳)、長曾我部高親(盛親の曾孫、30歳代)を中心に蜂起した。世に言う第一次ヤマトチャモロ戦争である。この時、反乱軍上層部は、この南の島で新たに国を興すことを祈念し、島を『南興島』と名付けた。日本人とチャモロ人と、その混血で構成された精強な軍事集団に、スペイン植民地軍は苦戦、半年間の闘争の末、両者の間で和睦がなされ、刀狩令は事実上取り消された。これより、日本人とチャモロ人は更に融合し、総督府より彼らは『ヤマトチャモロ人』と呼ばれるようになり、彼ら自身もそう自称するようになった。

 しかし暫くして、新たなスペイン総督が積極的なキリスト教布教政策を始めると、ヤマトチャモロ人社会で亀裂が走った。キリスト教容認派の宇喜多秀正と、反対派の長曾我部高親との間で小競り合いが発生した。当初、容認側が軍事的に劣勢だったが、スペイン植民地軍がこれに加勢すると風向きが変わった。そして1669年、イサベル川の戦いで、宇喜多・スペイン連合軍9000人と長曾我部・木村軍7800人が激突、この南国の島で大砲・火縄銃を用いた十時間に及ぶ激戦の末、容認側が勝利、同年12月、長曾我部家の本拠地:岡豊おこうが制圧され、長曾我部家は滅亡した。これ以降、宇喜多家はヤマトチャモロ人の酋長として、植民地政府による統治に協力した。


 19世紀末期になると、世界の民族独立運動の波は南興にも及び、ヤマトチャモロ人による独立運動も高まりを見せた。そして1896年、第一次フィリピン独立革命でスペイン軍が忙殺されている時に乗じて、南興国独立宣言を行った(元首:宇喜多秀萃ひでむれ)。この十年程前から、独立運動家達は秘密裏に、明治維新から二十年足らずの日本政府との連絡を密にしていた。日本人の血を引き、言語上でも方言程度の差しかないヤマトチャモロ人の独立運動に対し、日本政府はなけなしの金銭をはたいて積極的に援助を行った。独立宣言がなされると、直ぐに日本軍は南興島に向かい、独立運動の軍事的支援を行った。結局、フィリピン独立革命鎮圧(二年後に再発するが)で疲弊したスペイン政府は、グランデ島独立を承認した。この時、グランデ島から正式に、南興島への改称がなされ、サン・フェルナンドも、興城と改称された。そして、同年11月23日、南興国住民投票により、南興国丸ごとの日本への編入を決議した。これに伴い、日本政府は12月8日、海軍を南興島に派遣、同地の併合を宣言し、南興庁を設置した。その後、第一次大戦後、日本は、パラオやミクロネシアなどの旧ドイツ領の南洋諸島の植民地を獲得することとなったが、この時南興庁は、南洋庁に改称し、その諸島を編入している。

 南興の日本編入後、宇喜多秀家以来二百八十五年間、南興ヤマトチャモロ人の酋長を務めてきた宇喜多家は東京に移住、当主であった秀萃は、大日本帝国の華族たる公爵に叙された。この宇喜多公爵家を筆頭に、その分家である浮田(半平)子爵家、宇喜多家家臣であった明石男爵家などと合わせ、『南興華族』と称されることとなった。これまで培った資金を元に、南興島内のインフラ整備支援の他、本土でも慈善活動等を行い、名声を挙げた。


 そして遂には戦前において、貴族院議長であった近衛文麿公爵が首相に転任すると、宇喜多秀一公爵がその後任となった。日本人と比較的近縁とはいえ、外国系の華族が国家の要職、しかも三権の長に抜擢されるのは空前絶後であり、他の本土系華族からの反発もあったが、父譲りの調整力を、時の昭和天皇に評価された形となった。しかし、比較的親米的であったため、ドイツ・イタリアに接近する近衛文麿首相と折り合いが悪く、その牽制役として機能したが、1940年9月、日独伊三国軍事同盟締結に反対し、自ら辞職した。

 しかし、米国からの圧力が強まると、次第に開戦止む無しの立場を取るようになった。先祖である宇喜多秀家は、秀吉の遺言に度々違反する徳川家康を警戒して、西軍の首脳に加わったが、秀一も『国を生かすために、自らも切り取らざるを得ない状態で、大国の圧力に屈しジリ貧になるよりはマシ』と考えたと、戦後彼は語っている。とはいえそれでも対米英開戦には不本意であり、形勢が悪化すると、東條内閣に圧力を加え始め、1944年10月に副首相格無任所大臣として入閣、更に1945年5月、枢密院議長であった鈴木貫太郎が首相に転任すると、その後任に就いた。以降鈴木首相=宇喜多枢相の二人三脚で戦争終結の最前線に立った。終戦後、一時期開戦派にいたことが災いし、A級戦犯に指名されたが、その後の倒閣運動や終戦工作で活躍したことが評価され、不起訴となっている。以降、後述の理由もあり、南興に戻らず日本で余生を送り、現在もその子孫は東京に住んでいる。


 南興島に話を戻すと、1924年に私立カトリック系のサン・フェルナンド大学が、1931年、大阪帝国大学と共に、興城帝国大学が、それぞれ設立された。外地とはいえ、日本人に近く、豊かな地であった為、教育・インフラの面で優遇されていたのは確かであった。その一方、地理的にこの島は主要軍事拠点でもあった。北部の岡豊に海軍警備府が設置され、海軍根拠地隊が駐屯した。太平洋戦争時には、この島から多くの食糧が前線に送られた。しかし劣勢になってくると、この島は絶対国防圏に指定され、南興方面軍が組織された。その司令官には、山下奉文陸軍中将が任じられ、その方面軍司令部は、宇喜多家の元居城である南興高松城に置かれた。この城は、山城であり、防御に最適であると判断され、大砲・高射砲が据え付けられ、急ごしらえの現代要塞と化した。しかし、1944年6月20日の南興沖海戦に完敗し、同年11月27日にパラオ・ペリリュー島が陥落すると、ついに米軍は南興島上陸を決断した。この時、ダグラス・マッカーサー元帥は、フィリピンにかつて駐留していたことから、フィリピン攻略を先行すべきと主張したが、他の多くの軍幹部は食料が充実している南興島を奪取するのが先決であると主張した為、彼の意見は退けられた。また、ペリリュー陥落直後に、宇喜多公は、南興島の戦意高揚のため、職を辞し、南興島入りすることを望んだが、天皇直々に拒否されている。

 1944年12月1日から始まった南興島の戦いは熾烈を極め、軍属・現地住民含め、約八十万人が死傷する、悲惨なものとなった。1945年3月8日に、南洋庁主都の興城が陥落、4月12日には南興高松城が陥落した。そして5月2日、岡豊警備府が占領され、山下司令官と警備府司令長官の南雲忠一中将は自決し、組織的抵抗が終結、同14日に米軍による南興島全域占領宣言が出された。これに伴い、東條英機内閣は総辞職し、鈴木貫太郎内閣がこれに代わった。

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