6.夢のお告げに関する報告とでっちあげ
たしかに夢が契機となって偉大な発明がなされたり、芸術作品が創作されるケースは無数に存在する。
たとえばアルベルト・アインシュタインは学生時代、校舎の裏にある丘でうたた寝していたとき、自身が光の速さで光を追いかけている夢を見た。それをヒントに相対性理論を生み出したと言われている。
『ジキル博士とハイド氏』を書いたイギリスの作家ロバート・L・スチーブンソンも、夢によって多くの作品を作り出したことで有名だ。
ジョゼッペ・タルティーニのバイオリン曲『悪魔のトリル』の作られた経緯も奇異すぎる。夢の中で悪魔が奏でた音楽に感銘し、眼が醒めたあと譜面に写して完成させたものだ。
ビートルズの楽曲『Yesterday』だってそうだ。ポール・マッカートニーが睡眠中、浮かんだメロディーをもとに作られたエピソードは人口に膾炙している。
ポールは、「あまりにも自然にメロディーが浮かんできたから、別のアーティストの曲ではないかと疑った。いろいろ人に聴かせてみたが、誰も知らないというので、ようやく自分のオリジナルの作だってことがわかった」と安堵したという。
夢を信じ、時に利用して歴史を切り拓いた偉人たちもたくさんいる。
親鸞が浄土真宗を開いたのも、吉田松陰が松下村塾で志士を輩出したのも然り。日露戦争の日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊を倒したのも、じつは東郷平八郎連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の次席参謀・秋山真之が見た夢のおかげなのである。
豊臣秀吉でさえ、「私の母は、胎内に日輪(太陽)が入る夢を見て、自分を妊娠した」と吹聴し、まるで父親が日輪であるかのような権威付けをした。
江戸幕府の三代将軍・徳川家光は、祖父の家康を敬愛していた。夢の中でたびたび家康と会い、さまざまな教訓を与えられたとされている。家光は家康の姿を絵師に描かせ、教わった政策をじっさいに実行した。ある意味、夢で受けたお告げをもとに幕政を行ったといっても過言ではないのだ。
吉夢・凶夢と言えば、平清盛の出世と凋落については『平家物語』に次の逸話がある。
37歳のとき、仁平4(1154)年のことである。2月13日の夜半に、「口をあけ、口あけ」と、天から声がする夢を見た。
驚きながら口を開けたところ、
「これは武士の精というもの。武士の大将をする者は天より精を授くるものである」
という声がしたと思ったら、鳥の子のような冷たいものが口へ入り込んできた。このふしぎな夢のあと、清盛は心も猛くなり、平氏の快進撃が始まる。
夢を見てから2年後、天皇家と摂関家を二分する保元の乱が起こり、後白河天皇方についた清盛は勝利をおさめ、以後、後白河の軍事力として急速に勢力を伸ばしている。
そして仁安2(1167)年、武士としてはじめて太政大臣に就いた。清盛、50歳のときのことである。まさに夢のお告げが開花したのだった。
月日は流れ、治承5(1181)年、清盛は死の床につく。
同年2月27日、清盛は烈しい頭痛に襲われ、高熱を発した。
「あた、あた(熱い熱い)」と、譫言をくり返した。
比叡山から千手井の水を汲んできて浴槽に満たすも、それに清盛の身体を浸すと冷水が烈しく沸き立ったほどだった。筧の水を清盛にかけてみても、焼けた石や鉄のように水が跳ねる。かくも清盛は業の炎で炙られていたのか。
『平家物語』によれば、熱に苦しむ清盛を看病していた正室の二位尼(平時子)が不吉な夢を見たという。
それはこんな凶夢であった。
――門から燃えあがる車が入ってきた。前後に立っている者たちは、牛や馬のような異形の顔だった。なんのつもりか、車の前には『無』と書かれた鉄の札が掲げられていた。
二位尼が、火焔の車はどこから来たか尋ねると、
「閻魔の庁から、清盛殿をお迎えにあがった」との返事。
「して、その札はなにを意味するのか」と、さらに尋ねると、
「清盛殿は、東大寺の廬舎那大仏を焼き討ちした罪により、無間地獄に落ちることが閻魔の庁で決まった。これから『間』の字を付け加えるのだ」
と牛頭馬頭たちが答えた。
二位尼は自身の悲鳴で夢から醒めた。
それを境に清盛は、さらに病状が悪化。悶え苦しみ、跳ねまわり、気絶をくり返した。
閏2月4日に息を引き取った。享年64であった。無間地獄は八つある地獄のうち、もっとも恐ろしい地獄の最下層のことである。
◆◆◆◆◆
そんな歴史上の事例がある一方で、東 忠重さんの場合はちがった――。
「夢に導かれて、観音さまが勝手にやってくるもんか。なんで観音さまが、これっぽっちも取り柄のなかった先祖を褒めて、選んでくれたっていうとだ」と、東さんは不貞腐れた口調で吐き捨てた。「嘘っぱちさ。ぜんぶ嘘だったんだ。先祖がでっちあげた。この観音像だってそうだ。単に自分でこしらえたものだ。それをいかにも神がかりの夢のお告げがあったと言いふらし、作った像を見せびらかしてありがたがった。――いかにも、この東家が優れているかのような演出をしたってわけだ。代々の東はそれを知りながら、みんなを騙して生きてきた」
「東さん、これってオフレコですよね?」
「もう、うんざりなんだ」と、彼は酒臭い息を吐いて毒づいた。「それを知りながら、おれはご利益なんてちっともありゃしないのに、供物や花を欠かさず供え、毎日祀ってきた。見栄っ張りなご先祖のせいで、子孫が迷惑してきた。地元の人はそんなこととは知らず、さもありたがってお参りに来てくれる。そのたびにおれは心苦しい思いになる。申し訳なさでいっぱいだ。このことは東にとって代々墓場まで持っていく秘密だったが、もう我慢ならねえ。なんでこんな嘘っぱちのために、苦しまなきゃならねえ。なにが夢のお告げだ。くそったれめ!」
東さんはうつむき、お堂の暗がりのなかで悔しさをにじませた。
なぜご先祖はそこまでして、でっちあげる必要があったのか?
彼が懺悔するかのように告白した内容をまとめるとこうだ――初代東 忠重は、家系の優秀性、神秘性を演出すべく、夢のお告げがあったと吹聴したうえ、手作りの観音像を使って信者を増やし、ひと儲けしようと思いついたらしい。案外コンプレックスの裏返しで、そんなアイデアをひねり出した面もあるのかもしれない。
じっさい、昔はたくさんのお布施が舞い込んだという。
それもいまとなっては過去の遺物である。少子高齢化と過疎化が進み、熱心な信者も激減。皮肉にも現在の東家はすっかり落ちぶれ、後継ぎすら行方知らずだ。
のちに調べてみたところ、こういった夢のお告げによって仏像を得たという話は、意外にも全国に散見される。
もちろんすべてがインチキではなかろうが、東さんのケースのように捏造された伝説も少なくないのではないかと、僕は思うのだった。
戸口に立ち、背伸びして海の方に眼をやった。
丘の上に建立されたお堂からの眺望は格別で、冬の日差しを受けて、青い太平洋がきらきらと細かい光を輝かせていた。
了
※参考文献
『「夢のお告げ」が変えた日本史』河合 敦 KAWADE夢文庫
『現代民話考Ⅳ 夢の知らせ・火の玉・ぬけ出した魂』松谷 みよ子 立風書房
★★★あとがき★★★
昨年9月に親父が死んだ。享年77歳。
四十九日を迎えていないころ、遺骨を納骨するため、墓さえ掘っていない時期だった(地元では墓掘りも息子たちの仕事です。今回で3度目)。
実家の母が奇妙な夢を見たという。聞くとこんな内容。
夢か現かはっきりとしない状態で寝室でベッドに横になっていた。すると、生前親父が闘病していた部屋を隔てる襖がカラリと開き、誰かがのぞき込んでくるんだと。
半ばシルエットと化して、誰だかは判別つかない。母はなんとなく気配で、亡くなったはずの親父が姿を見せたんだと直感的に思ったそうだ。
表情まではわからない。ただ、作業ズボンを履いた下半身が水浸しだったそうな。
パッと起きると、襖の方を見た。
もちろん襖は閉ざされている。思わず襖を開け、「あんた、そこにいるの!」と叫んだそうだ。
部屋には飾り棚があり、骨壺の入った化粧箱と遺影があるだけで、なんの変化もなかったが。
その後、もういちど親父の夢を見た。
今度は生前、元気だったころの姿で現れ、「風呂に入らせてくれ」と頼むんだと。それでひとっ風呂浴びて、さっぱりした様子なんだとか。
それで思い出したのだが、僕の家系では人が亡くなった直後、水にまつわる夢を見ると叔母たちが言ったものだった。
祖母が74で心臓の病気で亡くなったとき、霊感の強かった末の叔母さん(元旦那がやくざで、離婚する直前、出刃包丁を手にして実家に押しかけてきた)がこんな夢を見た。
家の下の坂をくだった先に、田んぼがある。その田んぼは他所さまの土地なのだが、なぜか祖母が水田で腰を曲げて田植えをしている光景なのだと。
叔母は思わず、「Aさんの田んぼで、なんで田植えしてるの!」と問いかけると、手拭いを頭に巻いた祖母は顔をあげ、ニッコリ微笑んだという。なおも田植えを続けるんだとか。
本作は地元で伝えられている昔話を、かなり脚色したつもりです。東 忠重さんのモデルとなったNさんとの赤裸々なやりとりも、本当の話。許可なく、ばらしちゃいました。前々からこのネタをもとに、短編を書いてみたかったのです。
作中でもあるように、昔話自体は県のホームページにも出てくるほど、地元ではポピュラーなそれです。
特定されるとマズいので、どこのホームページかあえて言及しません。探さないで^^;