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2.西方浄土からやってきた方波見観音

 いまから590年も昔――。

 永享えいきょう3(1431)年、室町時代のことである。後花園天皇ごはなぞのてんのうを戴き、幕府の征夷大将軍は足利あしかが 義教よしのりであったころだ。この六代将軍は政治基盤の弱かった室町幕府の権威強化に尽くした人物だった。


 遠くフランスでは、国民的ヒロインであり、カトリック教会における聖人ジャンヌ・ダルクが異端裁判にかかり、火炙りの刑が処された時代。火刑は最後の審判よる『死後の復活』を信仰の軸にするキリスト教にとって、復活のための肉体を奪ってしまう極めて重い処刑法であった。




 当時、海岸沿いの集落、方波見かたばみの高台に、あずま 忠重ただしげという侍が住んでいた。

 忠重は戦においては勇猛果敢な武将であり、数々の武勲を立てていた。同時に、ふだんは熱心に観音信仰を説く好人物として知られていた。

 方波見の住民だけでなく浜沿いの村人たちからも、『観音さまを拝む東殿』と気軽に呼ばれ、たいへん慕われていたのだ。


 ある夜のことだった。

 夢枕に光輝く人が立った。艶やかな衣装をまとった美しい女人にょにんで、金色こんじきに後光を放っていた。


 忠重はまぶしくて直視することさえできない。

 頭上を仰げば、なんと空は紫雲しうんに彩られているではないか。どこからともなく桃色の花が降っていた。世にも霊妙な光景であった。


 女人はしきりに手招きし、「東よ。東 忠重よ。眼をますのじゃ」と、高原の鳥がさえずるような声で語りかけてくる。

 ふしぎと2日目の晩にも、同じ観音さまの夢を見た。


「東よ。東 忠重よ、私を導くがいい」


 声がすれど、いっかな光を放射する女人に手は届かない。まるで夏場の逃げ水のようだ。


「観音菩薩の夢を二晩続けて見たとなると、偶然とは思えぬ。瑞雲ずいうんを背にする神仏のそれは吉兆。――まさしく吉夢きちむにちがいない。仏は私になにかを知らせようとしているのだ」


 忠重は縁側で正座し、腕組みしたまま唸った。

 そこでふたたび寝床に入るとき、今度も会えるよう、神棚に願をかけてから眼をつむった。

 するとどうだ。

 3日目の夜も、観音さまが光をまといながら現れた。

 驚く忠重をよそに、観音菩薩は次のようにお告げになった。


「いい心がけだ、東。おまえほどの立派な侍はおらん。民草のため悪人を成敗し、貧しい者や困っている人々を助けているのは、前から見ておった。西方浄土より私直々、おまえの家に参ろう。そしておまえと、家族を守ってやる。私を大切に祀る清い心があるのなら、いますぐ浜におり、私を迎えるのじゃ。まもなく浜に着く。受け止めるがよい」


 言い終えると、観音さまは姿を消してしまった。

 あわてて忠重は飛び起きた。

 さっそく水垢離みずごりをして身体を清めたうえ、新しいかみしもに袖を通し、はかまを身につけた。

 まだ太陽が姿を見せぬなか、寒風吹きすさぶ浜へと向かった。


 方波見ケ浜(かたばみがはま)は渚が茫漠と広がり、その向こうは一片の岩礁すらない大海原だった。

 忠重は浜に立って、はるか彼方の水平線を見つめていた。

 しだいに雲がもくもくと湧いた。そして渦巻き、嵐のさなかの濁流のように流れていった。やがて濃い紫雲へと変じた。


 空と海が交わる線上で、雲間を割って陽の光が差した。 

 まばゆい無数の光線が放射状に散ったのだった。

 あまりのまぶしさに眼を細めた。

 しかしながら忠重は見逃さなかった。燦然たる輝きの向こうで、そびえるばかりの巨大ななにかが、しなやかに両腕を広げ、笑ったのを。


「受け止めるがいい、東よ!」


 巨大な顔が、まるで口笛を吹くように唇をつぼめるのと、ふっ!と息が吐き出された。

 とたんに大地が揺れ、海が逆巻くほどの突風が吹き抜けた。

 どうにか倒れずにすんだ。


 すると、沖から光の矢が一直線に忠重めがけ飛んできた。

 避けるつもりはなかった。思わず両手をさし出すと、軽い衝撃があった。

 腕のなかに、なにかがおさまっていた。


 見ると、なんと金ぴかの観音像をつかまえているではないか。

 忠重の喜びようといったらなかった。観音さまを抱きかかえて家に戻った。

 それからというもの、この像を屋敷に祀り、一家のみならず、村人の守り仏とした。

 霊験あらたかな観音像であった。参れば、病気や災害から守ってくれるとして庶民の間に広まり、近隣の村をはじめ、旅の途中の巡礼者までもが東家を訪ねるようになった。


 観音像が海からやってきてから、340年ほど経った江戸時代中期。

 7代目、あずま 忠興ただおきの代になると、お参りする人々であふれ返るようになった。

 信者の団体の集まりであるこうがいくつもできあがったほどで、屋敷内がごった返すようになった。

 せっかく遠方から参詣にしてくれた客には申し訳ない。

 それで信者からお布施を募り、丘の上にお堂を建てることにした。


 それ以来、毎年2月初めのうまの日を『初午はつうま』と言い、大きな祭りを行う習わしになった。

 祭りには近隣の村や町からも大勢詰めかけるようになった。お堂の前や坂道は、やってきた人と出店で埋め尽くされるほどだった。いまでも巡礼坂という地名が残っている。


 それからさらに時代は近年のこと。

 お盆前の8月10日を『方波見観音さまの日』といい、縁日とした。その吉日は先祖の霊を慰め、供養のためにお堂の手前の境内で盆踊りをするのが恒例となった。

 海の彼方からもたらされた観音さまは、いまでも小さなお堂のなかで海を見ながら、方波見の人々を守っているという。

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[良い点] 忠重の、観音さまを迎える様がまさに武士! 格好いいです。その表現を書けるの、いいですね。 水垢離して、裃を新しいのに替える。っか~。すぐに来いっていってるのに、さればお迎えするには身を清め…
[一言] 家紋武範様の「夢幻企画」から拝読させていただきました。 実体験に基づくお話、興味深く読ませていただきました。
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