昨夜、花は綺麗に咲き誇る
僕が三年間追い求めた人は、昨夜、花を綺麗に咲かせた。
目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響く。小鳥のさえずりが聞こえる。母が叫ぶ。
「飛永、早く起きなさい。ごはん冷めるわよー」
母が呼ぶ声で反射的に口から返答の声が出る。
「はーい」
ベッドから飛び起き、用意していたワイシャツに着替える。ワイシャツは、まだ片手で数えられる回数くらいしか着ていないからか、思ったよりボタンをしめるのに苦戦してしまった。制服のズボンを履き、ベルトを締める。ブレザーに腕を通し、ボタンをしめていく。家族で食事を食べるテーブルは一階にある。階段を勢いよく駆け下り、母の前に顔を出す。
「おはよう。降りてくるのが遅かったせいでごはんと味噌汁冷めちゃったわよ」
母は、僕が着替えに苦戦していたことを知らないらしい。苦戦した事実を母に伝えると、
「なんでワイシャツを着るのにそんなに時間がかかるのよ。まぁいいわ。三年間着続けるんだから、いずれは慣れて早く着替えられるようになるでしょ」
と返してきた。確かにそうだ。これから三年間、ほぼ毎日この制服を着ることになるのだから。慣れてもらわなくちゃ困る。いただきます。と小さな声でいって、朝食を食べ始める。やはり、味噌汁は少し冷めてしまっていたようだが、ごはんはまだ少し暖かかった。この日は朝食をいつもよりやや急いで食べた。なんていったって今日は中学校の入学式だからだ。朝食を摂り終わった後、行ってきます、と母に伝え、今読み途中の本と、筆箱以外何も入っていない空のカバンを持って家を出た。
家から学校までは徒歩で約二十分。少し退屈なので、本を読みながら歩くことにした。小学生の頃から、読書がとても好きだった。本を読むのではなく、小学校を卒業した時に買ってもらったスマートフォンで、SNSを見ながら登校しようかとも思ったが、中学校では特殊な事情がないと、スマートフォンや携帯電話の持ち込みが禁止されているらしく、その案は僕の心の中で静かに没になった。今、読んでいる本は、冲方丁作の、天地明察という題名のものだ。江戸時代前期に活躍した、天文学者の生涯を描いた本である。小学六年の夏、自由研究のためと思って買ったのだが、結局読まずに放っておいてしまっていたのだ。家を出てから数分後、歩きながら本を読んでいると、後ろの方から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「おはよう、飛永。何の本読んでいるの?」
「麗香、おはよう。これは、冲方丁という人が書いた、天地明察って本だよ。江戸時代に活躍した天文学者の話なんだ」
今、話しかけてきた彼女は、烏葉麗香。幼馴染だ。保育園から同じで、母親どうしも仲がいい。いわゆる、ママ友というやつだ。彼女とは家が近く、小学校低学年の時位までは、よく一緒に遊んだものだ。年を取るにつれ、男女の壁ができてお互いを異性としてとらえるようになった。今では、あまり話すこともなくなってしまっていた。しかし、たまにはこうして話すのも良いことだと思い、中学に行くまで一緒に話すことにした。
「麗香のブレザー姿、似合ってるよ。いかにも中学生って感じだね」
「そんなことはないよ。着替えるのが遅いってお母さんに怒られちゃったもん」
「実は、僕も同じようなことがあったんだよね」
どうやら麗香も僕と同じようなことで親に怒られてしまったらしい。
「そうなんだ。真面目な飛永にもそんなことがあるんだね」
「ははは……」
「飛永は性格かわらないねー。そんなんじゃ中学で友達できないよ」
麗香の皮肉じみた言葉が僕を襲った。
「麗香はだれとでもフレンドリーに話せていいよね。そんな麗香の性格が羨ましいよ」
「私だって、苦手な人はいっぱいいるよー。小学校の池島先生とかー松田先生とかー。数えたらきりがないけどね」
池島先生と松田先生は、僕らが小学生の時にお世話になった先生だ。池島先生は、教育主任の先生、松田先生は僕らが六年生の時の担任の先生だ。池島先生は他人との距離の取り方の悪さに定評がある先生で、フレンドリーすぎる感じが嫌いな人が多かったようだ。松田先生は、生徒がしてしまった悪いことに対して、しつこくそのことを言及してくるような先生だった。無論、生徒が反省した素振りを見せなかったということも原因としてあると思うのだが。―こんな具合で話していると、小学生の頃の思い出が、記憶の中から鮮明によみがえり、麗香とこうして話すことが楽しく感じた。
「そういえば、小学校の卒業式の時、麗香泣いてたよね?卒業式になく女子は普通だと思うけど、麗香に限って卒業式で泣いていたのは意外だったなー」
「私に限って以外?失礼にもほどがあるよ。ほんっと、飛永は素で人を不愉快にできる才能の持ち主だよね。」
「……ごめん」
「いいよ。もう慣れた。あそこで私が泣いていたのは、小学校の出来事をいろいろ振り返ったら、切なくなっちゃったんだ」
普段気が強くて、強情な麗香も、雰囲気や、時と場所によっては涙を流してしまうこともあるようだ。
「そういう飛永だって、三年生の時に、クラスでいじめられて、泣いていたじゃない。あそこで私が助けなければ、いまでもいじめられていたのかもよ?」
「う……」
麗香は、狡猾である。三年生の時、いじめられていたのは、事実だし、麗香に止めてもらって、助かったというのも事実である。が、女子にいじめから助けてもらったという過去を記憶からよみがえらせて、僕の心に致命傷を与えるには十分すぎたようだ。
「ま、まぁでも、今はそのおかげでいじめてきていた前川とも仲良くなれたんだし、いいんじゃないかなぁ……」
「ふふ、冗談だよ。飛永は根は強くて真面目だもん。あそこで私が助けなくても、自分でなんとかしてたわよ」
麗香が冗談めかしてくれたおかげで、なんとか心に直接的な傷はこなかったようだ。こうして話していると、いつの間にか学校へついていた。家から小学校までの距離の二倍近い距離を歩いているはずだったが、麗香と話していたおかげか、すぐ着いたような気がした。校門の前で中学の先生が挨拶をしている。
「おはようございまーす。クラス割を発表するので、職員室前までお願いしまーす」
どうやら、クラス割を職員室前で発表するようだ。
「麗香、じゃあまた後でね」
「うん」
新しくできる友達に、女子と一緒に歩いている姿をあまり見られたくなかったからか、小走りで昇降口まできてしまった。上履きを履き、職員室前まで行く。新しい校舎だが、誘導の先生がいてくれたおかげで、迷わずに職員室前までいけた。名前を探す。3組の欄に『烏瓜麗香』と、麗香の名前があった。その下を見ると『三条飛永』と僕の名前がある。どうやら麗香とは同じクラスのようだ。張り出された紙に書いてある教室へ、新たな生活に夢と希望を持ちながら、僕は足を踏み出した。
教室に行くと、生徒は皆座って静かに先生が来るのを待っていた。初日だからといって、こんなにも静かに待っている必要はないのに……と僕は思う。周りを見渡すと、同じ小学校だった生徒も数人いた。こちらを見て、手を振ってきたので、僕も振り返す。教室にまだ麗香の姿はなかった。席につき、麗香との会話のために、読むのを中断した小説を開く。天地明察、題名は難しいが、内容は中学生にもわかりやすく、読んでいて楽しい。元々僕が小説をよむのが好きなこともあってか、3日あれば読み終えてしまいそうだ。読み始めようとしたとき、前の席の生徒がいきなりこちらを向いて話しかけてきた。
「よぉ、三条。春休みは何して過ごしてた?」
「あれ、前川も同じクラスなのか」
椅子に座りながら後ろを向いて話しかけてきたこの生徒は、前川翔太。小学校三年生の春、僕がいじめられていた張本人である。麗香のおかげで、今は仲が良く、小学校高学年くらいの時は、よく一緒に遊んでいたこともあったくらいだ。
「僕は家で読書かゲームしてたよ。そういう前川は何してたの?」
「俺は、北海道にある親の実家に行ってたぜ。長い間行ってたから、ほとんど遊べなかったけどな。まぁ、うまいもん腹いっぱい食えたから満足したよ」
「北海道かぁ、いくら丼たべたいな」
「俺はいくらとサーモンの親子丼に、カニ、ウニ、いっぱい食べたからもう一年くらいは北海道行かなくてもいいかもな」
「そんなこと言われても、羨ましくなるだけだよ」
前川も僕と同じく、素で人を不愉快にさせることができる人間だ。僕もそうだが、本人に悪意がないというのも厄介なところかもしれない。人の振り見て我が振り直せというように、僕は前川と話していて、自分もその癖を直したほうがいいなと思った。
「じゃあ、さ。中学校の冬休み、仲いい奴らで北海道行かねーか?」
「いいねー。スキーとかスノーボードは苦手だけど、海鮮は食べたい!」
前川の性格に裏表はない。なにしろ、自分の欲に忠実なだけかもしれないが、こういう人間の方が、好感度があったり、将来成功したりするのだろう。前川と話していると、高校生くらいの女の人が、教室に入ってきた。
「みんな、おはようございます!1年3組の担任になりました、菱本美穂です!1年間、よろしくお願いします!」
高校生くらいの女の人の正体は、どうやら先生らしい。正直言って、先生らしいところは何もなかった。他の生徒も、いきなり入ってきた若い女性が先生である事実に頭が追い付かないらしく、口を開けた表情のまま、固まっていた。
「うーん、みんなの反応よくないなー。ま、いっか!いずれは仲良くなれるでしょう!それでは、挨拶します。起立!気を付け!礼!」
いきなり挨拶をすると言われたが、生徒は反応できたようだ。形式的にではあるが、一応、僕等は新たな担任の先生とは挨拶をしたことになった。
「それじゃあ、出席をとります。名前を呼ばれた人は返事をしてねー」
「安西くん!」
「はい」
「伊藤くん!」
「はい!」
「大川さん!」
「はい…」
「烏葉さん!」
「はい」
「近藤くん!」
……出席確認は長々と続いた。前川との話に夢中になっていたから気づかなかったが、いつの間にか麗香も教室に来ていたようだ。このクラスは、38人のクラスらしい。全員の出席を確認するのには、3分近く要した。小学校からの友達も数人いるようだが、やはり、知らない人の方が多い。小学校3校に対して、進学先が中学校ひとつなのだからあたりまえだが、知らない人が多いと、どうにも緊張してしまう。こういうときにはいつも麗香の明るく、フレンドリーな性格が羨ましいと思ってしまうのだ。
「それじゃあ、入学式を行いますので、体育館へ移動しましょう!」
菱本先生はそう言うと、出席番号順に二列で廊下に並ぶように指示した。僕の出席番号は30番、前川の出席番号は29番だったので、並ぶと隣になる。軽くどんなことをするんだろうね、と話していたら、菱本先生に注意されてしまった。移動が始まり、体育館へと向かう。
体育館に入ると、そこにはたくさんの椅子が等間隔できれいに並べられていた。保護者もたくさん来ているようだが、うちの親は仕事で忙しく、来れないといっていた。先生に促されるまま移動し、席に着く。司会の先生が、校長先生の言葉と言う。長々しい校長先生の話が始まる。正直、こうも長い校長先生の話という物は、本当に必要なのだろうか、と毎度のことのように思ってしまう。……気づくと、うたた寝をしていたようだった。僕が寝ていることに前川が気づき、膝を小突いてくれたおかげで起きれた。幸運なことに、特に周りの生徒や先生に気が付かれることなく、時間が過ぎていたようだ。式はもう終わりそうだった。司会の先生が、式を終わる言葉を述べた。
「以上で、入学式を終了します」
僕等は、クラスごとに分かれて教室へ戻り、必要書類等を渡されて、各自下校となった。自己紹介などは、最初の授業で行うようだ。家族が入学式に見に来ている生徒は、家族で写真を撮ったりしているが、僕の親は見に来ていないので、前川と二人で帰ることにした。前川の親も、仕事が忙しくこれなかったようだ。二人で帰ろうとしたとき、良く知っている明るい声が僕らを呼び止めた。
「飛永、前川、いっしょにかえろー」
「お、麗香。久しぶりだな。中学でも同じクラスになるとは思わなかったぜ」
「あれ、麗香、親は来てないの?」
「うん、実は、急遽仕事が入っちゃったみたいなんだ。そういう二人だって親は来てないの?」
「僕らの親も仕事だよ。入学式くらい仕事やすんできてくれてもいいと思うのにね」
「そりゃないぜ、飛永。親は俺らのために働いてくれてるんだから、少しは感謝しなきゃ」
「前川にそう言われると……なんだかそんな気がするな」
――三人は笑いながら帰路に立った。彼らの後ろには、桜が嬉しそうに咲いていた。