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白昼夢にコーヒーを

作者: 由季

 

 私の声は、彼に届いただろうか。


 静かに降る雨は、しっとりとコンクリートを濡らした。雨音と混ざるお洒落な音楽が流れ、カフェにはコーヒーの香りが充満している。目の前の湯気が立っているホットコーヒーは、ミルクが混ざってまだらに白い。


「な……なんでだよ」


 目を見開いて、眉間にシワがよっている。機嫌が悪くなるとすぐ、この顔をする。最も、いまは的確な顔だと思う。隣の席の人がチラチラとこっちを見ている。


 ……他人の別れ話は面白いだろう。きっと、私でも見てしまう気がする。

 なんで、と言われても、これと言って理由はあげられなかった。彼が浮気をしたわけでもなければ、暴力を振るうわけでもない。ましてや、私に好きな人ができたわけでもなかった。思い当たることない中、唐突に別れを告げられ持っているグラスを小刻みに揺らしていた。


「だって、俺たち何も……仲だってよかっただろ」


 確かに、良かった。あなたと一緒に見る映画は楽しかったし、食事も楽しかった。初めてキスをした時、初めて朝を迎えた時だって覚えてる。あなたは映画で号泣して、それを見てわたしはとても笑った。初デートだったかな。

 笑った顔がとても好きだった。くしゃくしゃにして、子供みたいに笑うの。子供みたいにはしゃぐし、喜ぶ。とても、楽しかった。


「いきなりなんなんだよ……」


 彼が涙ぐんでいる。私が、わたしの体から抜け出して、俯瞰で見ているみたいに、それはそれは冷静に見れた。ほら、隣の人、私たちのテーブルに釘付けじゃない。ああほら、ここのオーナーすらチラチラ見てるよ。静かな空間の中の静かな注目に恥ずかしを感じる。そんな視線から逃げるように俯いて、コーヒーを啜る。ここのコーヒーはとても美味しい。


「おれの何処がダメだったんだよ」


 ダメな所は、特に上げられない。特に、具体的に思いつかなかった。確かに、人並みに喧嘩はしていた。あれが嫌だった、とか、これをこうしてほしかった、とか、言おうと思えばいくらでも言える。靴下は裏返さないでとか、げっぷしないで、とか。でもそれが直接別れ話の原因になっているわけではない。


 ……いつからだろうか、私の中の「好き」が、フッと抜けてしまう瞬間が増えてしまったのは。私、この人のこと、好きなのかな、と考える時間が増えてしまった。洗い物をしている最中、テレビを見ているあなたの横顔。段々、洗ってくれてありがとう、の言葉すら無くなった。好きだね、可愛いね。そんな言葉を聞いたのはどのくらい前だろうか。その時は、気にしていなかった。けれど、確実に私の心は、私の知らないところですり減ったのだと思う。


「俺、治すから」


 私は、あなたのここが大嫌いです、なんて所はない。きっと、日常に潜んでいる針がチクチクと気持ちを刺していたのだと思う。それはきっと、口に出す程のものでもなくて。でも、ちゃんと針は刺さってた。目に見えない小さな傷は、あなたも、私でさえ分からなかった。

 ……もし、もしもあなたがそれに気がついていてくれたら、カフェでこんな注目されることも、美味しいコーヒーを温かいうちに飲めないことも無かったのでしょうね。


「どうして……」


 人目もはばからず、目から涙を落とすあなた。きっと前だったら、私が涙を拭いて、私も涙を流して、心底心を痛めていたんだろう。ごめんねと謝って、手を繋いで仲直りをしているんだろう。一緒に帰るはずの帰り道は、もう2人には無いの。


 原因不明の病は、じわじわと気持ちを蝕んでいたのかもしれない。蝕んで、その中から好きという成分が砂のように漏れ出る。痛みも音もないから気付かない。大きな傷でもない、小さな綻びは順調に気持ちを減らしていった。砂時計の砂が落ちるように、音もなく、ただ減っていく……そこで、綻びの原因に気付いて、絆創膏でも張ってやれば、止めれていたのかもしれない。もう後の祭りではある。


「また、初めからだと思って、やり直せないか」


 もう、2人は手も繋いだ。抱きしめた。キスもした。幾度と一緒に朝を迎えた。いいところだって悪いところだって知っている。そんな2人の「初めから」は、きっと本当の「初め」より、切なくて悲しくて酷だと私は思う。

 私があなたを好きじゃない状態からなんてあなたは耐えられるかしら。そもそも、心も体も知り尽くしている2人がはじめから、なんて到底無理な話なのよ。


「嫌いになったのか?」


 ……嫌いになったわけじゃない。それは、本当だった。でもいま言えば、保身に思われてしまうだろう。ハッキリ言わない嫌な女。俺はキープか、なんて思われてしまうかもしれない。

 きっと、あなたを本当に想うのであれば、嘘でも嫌いだといったほうがいいのかもしれない。好きな人ができたとか、サッパリ切ったほうがこの人のためだと、十分理解している。

 でも本当に嫌いになったわけじゃない。


 ただ、好きじゃなくなってしまったの。


「……わかったよ……別れるよ」


 この瞬間、私と彼を結ぶものは何もなくなった。口約束で結んだ交際が言葉で解かれてゆく。行こうねと言っていたあの居酒屋の約束だって、将来の話だって全て意味のないものになった。

一緒に行った映画も、海も、紅葉も、ベランダで作った小さな雪だるまの思い出も、たった今ただの過去になった。今までの楽しい思い出を踏みつけてゴミ箱に入れる感覚は、とてももったいないことをしている気持ちになった。2人で増やしてきた思い出が、突然無になるのはとても虚しい。


 私は、彼が好きだった。それは間違いない。笑顔も笑い声も、不器用なサプライズや、寝起きにしてくれるキスだって好きだった。優しいハグも、心の底から落ち着く安心の場所だった。……好きだったものが、好きじゃなくなる気持ちって、とても寂しいものなのね。心にぽっかり穴が開いたみたい、なんて常套句がぴったりと合った。



「俺、好きだったよ」



 私も、好きだったのよ。


 その気持ちはもう彼に届くことはない。晴れることのない雨が、私の涙が、ぬるいコーヒーに一滴だけ落ちた。

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