下
慣れ親しんだ心地よい音と揺れに、緊張がほぐれていくのを感じる。
私はタッチスクリーンに触れて、愛機を起こした。
「おはよう、かわいこちゃん」
『おはようございます、晴保』
無機質な合成音声が耳元から聞こえる。
「調子はどうだい?」
『良好です。強酸性の雨が降っていますが、耐酸加工のおかげで痛みはありません』
「それは良かった」
『それより晴保。お腹が重いです』
パンパンです、と響いた声に感情は乗っていないはずだけど、それでも私には相棒の声が拗ねているように聞こえた。
「まあそうヘソを曲げるなって、相棒。それを使って、私たちは空を耕しに行くんだよ。空を覆う雲の全部を取り払って、――なあ子猫ちゃん、私たちが一番に青空と太陽を見られるんだ。すごいだろう」
『それはすごいです』
「なあ。すごいよなぁ」
グローブの位置を直して操縦桿に手を添える。確かめるように優しく握って、それからキャノピーの向こうを見る。灰色の雨が親の仇のように降っている。でも、風は随分――といっても初めて地表に出た時とくらべたら、だが――弱くなったように見えた。
「そろそろ、カウントが来てないか?」
『来ています。が、晴保ならば三十秒前からのカウントダウンを好むと思ったので』
「わかってらっしゃる、さすがは私の相棒だ」
心臓が早鐘を打っても、相棒のエンジン音が搔き消してくれる。良いことだ。
私はヘルメットの中で小さく唇を舐めた。
「なあ、ここは地下の偽の空と違って風が強い。でも、私とお前なら楽勝だよな?」
『わかってらっしゃる、流石は私の相棒です』
この戦闘機に搭載された人工知能は、私に似て軽口になってしまった。それだけ長い間、一緒に居た。
最期まで、一緒だ。
『離陸準備に入ります。カウント開始は準備終了後です』
「ああ、全力でエンジンを吹かしてくれ。風は強いけど、こんなに自由な空を飛べるなんて二度とない機会だ。精一杯楽しもうじゃないか、相棒」
『当たり前です』
一層大きくなったエンジン音に、排気音。実に良い。素晴らしい。
そこに混じるカウントダウンの音に耳を澄ませ、私は残り十秒になったところで相棒に声をかけた。
「なあ、愛してるよ。君が人間だったらってなんども思ったって言ったら、笑うか?」
『愛していますよ。貴方が飛行機だったらと何度も思ったっていったら笑いますか?』
「ああ、やっぱり最高だ。君が大好きだ。好き同士、夜が明けるまで楽しもう」
はい、の代わりに排気音が高くなる。それと同時に、カウントはゼロになった。
さらば、地下。さらば、地上。さらば、友よ。
私はこいつと、最期のランデブーを決めてくる。
「補助は頼むぞ!」
タイヤが地面を離れた瞬間、私たちは風に大きく押されて当初の軌道から逸れた。でも、私と相棒ならすぐに取り戻せる誤差だ。
操縦桿は重い。風に対抗しても相棒が辛いだけだから、私は上手く受け流すようにして操縦桿を操った。
『まだ余裕です、晴保』
「わかってるさ」
計器類の数値と己の勘で風を読む。風に乗る。目的地めがけて、私たちはこんなにも自由だ。
エンジン音も、排気音も、風の音も自分の鼓動すらも混ざって、訳が分からないくらい気分が高揚する。
「なあ、相棒! 楽しいな!」
『ええ、晴保。とても楽しいです』
「機体損傷はあるか?」
『耐酸加工が剥げつつありますが、問題ありません。継続して楽しみましょう』
分厚い雲を掘り進むように飛んで、その中の乱気流すら従えて、もっと高く、高く。
もみくちゃにされて天地がわからなくなりそうだ。相棒に都度確認しながら、捻って、廻って、最初で最期の航空ショーを繰り広げる。観客はいない、いなくていい。この嵐の中にいるのは、私と相棒だけでいい。
『目標地点到達まで一分です』
「さあ、かわいこちゃん。腹に貯めこんだもの、全部ぶちまけてやるぞ……!」
カウントが進む。私はそれを聞きながら、手順通りに操作する。薬品投下は、もう指一本で出来る状態だ。
『十、九、八、七、六』
「一緒に燃え尽きよう、相棒……!」
『五、『当たり前です』、二、一』
投下。と同時に、化学反応が起こって機体の真下で爆発が起こったようだった。私は舌を噛まないように歯を食いしばって衝撃に耐える。
想定内だ。こうなるってことは化学屋から話は聞いてる。
原理はさっぱりだけど、この爆発の――この、粉の一粒一粒の、何十、何百億の粒の反応が終われば、今度はその反応で生成された化合物が風に乗って全世界の空を舞うんだという。そうして、雲の中の水を奪い去っていくんだという。
でももう、そんなことはどうでもよかった。
そこかしこから聞こえる祝砲のような爆発音を感じながら、コントロールを失って落ちていく無重力を感じながら、私の目は、分厚い死の灰色の隙間を見ていた。
「なあ。なあ、相棒。見えるか、あれ」
『見えますよ、晴保』
「あれだよ。青空って言うのは、あれの事だ」
鮮烈な青。それを彩るように射し込む一条の陽の光は、まるで天国への梯子のようだった。
「あんなに綺麗だ。なあ、あんなにも綺麗だよ」
『そうですね、晴保』
「これが見たかったんだ、私はこれをお前と見たかったんだ。誰より先に、二人きりで」
そのために志願したんだ。
「人類の未来の為なんかじゃない。私は、あの青を見たくて。ああ、綺麗だ。綺麗だよ」
涙が止まらない。
『晴保。私たちは、空を耕せましたね。青が広がっていくのが見えます』
「ああ、ああ……!」
爆発が雲を散らして、化合物が雲を食っていく。雨はどんどん弱まって、最後には、私たちの上だけ晴天だった。
雨が。止まなかった雨が、止んだ。
止ませた。
私たちが。
「ああ、幸せだ。こんなに綺麗な青を見ながら、お前と最期まで一緒にいられる」
『ベルトをきつくします。晴保が放り出されないように』
「ありがとう、相棒……」
私はベルトを撫でながら、ただ青い空を見ていた。遠くなる青を。私たちの最期の時まで、ずっと、ずっと。