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夢見る彼女からの贈り物

作者: 福部シゼ

短編小説2作品目です


ファンタジー恋愛小説です

 ―――――それは昔の記憶。


 その都市で一番大きい病院に幼い頃から入退院を繰り返す少年は診察室の前の廊下でソファーに座って読みかけの本を閉じた。


 そして、静かに立ち上がってからふと、窓の外に視線を送る。


 外は建物に続く道と、建物の周りを囲う石畳、その外側に生い茂る芝生が広がっている。


 その中にぽつんと一本そびえ立つ大きな樹木。孤独に負けることなく、力強く葉をつけるその木は太陽の光を遮断してちょうど良い影を作る。


 昔から本を読む事で時間を潰していた少年はその木の下で本を読む事が好きだった。木に背中を預けて涼しい影の中でページをめくる時間は至福のときだった。


  なぜ、あの場所にたった1本だけ木が生えているのか誰も知らない。この病院のどの先生に聞いても「分からない」としか答えが返ってこない。



「⋯⋯あ」


 少年は窓の外を見てふと声を漏らした。


 樹木の下に一人の少女が走ってきた。遠くて確証はないが、恐らく少年と同じくらいの歳だろう。少女は一人、クルクルと回り始めた。


 それから程よいステップを刻んで踊り始める。


 幼い女の子は楽しそうに長い綺麗な黒髪を揺らして踊る。



上木(かみき)玲治(れいじ)君、中へどうぞ」


 診察室の中から低い男性の声が響いた。


 少年は自分の名前を呼ばれてふと我に返る。それから、くるりと180度体の向きを変えて目の前のカーテンを手で掻き分けて部屋の中へと足を踏み入れた。




 ♦数年後


 玲治は幼い頃から心臓に病を持っていた。心臓移植しなければ治らない病気だ。そのせいで入退院を繰り返し、退院した後も通院しながら学校へと通った。


 親と話し合って病気と闘いながらも学校へ通うと決断した。だが、入院が多く、病を患う玲治と友達になろうとする者はいなかった。


 昔から一人で給食を食べて、一人で登下校した。周りには仲のいいグループが出来上がり、その中へ入って行くことも恐ろしかった。


 友達ゼロ。出来た試しがない。



 ずっと寂しく学校生活を過ごしてきた。誰かと仲良く事すらなく、会話が続くことも無い。


 病気と入院と通院の事でいっぱいいっぱいだった親はその事を知らない。当の本人である玲治も不安で誰かに話しかけに行くことも出来なかった。


 それでも真面目に過ごし、小学校、中学校を卒業した。そして、更には高校にも入学出来た。


 だが、その高校も入院のせいで入学式から休み、初めて登校したのは入学式から約3ヶ月が経過した後だった。


 高校でも友達ゼロで過ごす事が確定したその日、玲治は友達をつくる事を諦めた。

 予想通り、珍しいものでも見るかのように声をかけられたが、その後も休んでは登校を繰り返す度に声をかけられる機会が減っていった。


 今では当たり前のように空気を演じる。



 その日も学校帰りに病院へと向かった。ちょっとした検査が目的で高校前でバスに乗って、駅前で降りる。


 その後に病院行きのバスが来るのを隣のバス停で20分程待ち、バスが来たらそれに乗って病院へと向かう。


『いつも通り』だった。

 いつも通り、病院へと向かう手順で向かった。高校入学前に母親と決めたルート。それ通りに向かう。


 このルートが1番かかる時間が少ない。


 玲治は病院内のバス停で降りて舗装された道を通って建物へと向かう。道の外には生い茂る芝生が広がっている。


 この病院は昔から緑が多い。それは玲治にとっても好ましい事だった。病院を囲う緑は自然と玲治の心を穏やかにする。


 強めの風に芝生が踊る。その匂いに包まれ心地よく、玲治は道を歩く。


 芝生の先にはあの樹木が力強くたっている。


 低い芝生の中にたった1本、そこに高く聳える樹木。その木の下で木の影に身を隠しながら本を読む時間が玲治にとって至福の時間であった。



 診察まで少し時間があるな。少し読書をしていくか


 玲治はその足取りのまま樹木へと向かった。

 樹木に近付くにつれ、先客がいる事に気が付いた。


 ⋯⋯珍しいな


 普段は樹木の下に人がいることは少ない。数年間、この病院に通っていて見た事がない。


 自分くらいのものだ。樹木の下で読書するのなんて。


 だが、今日は違った。


『いつも通り』ではなかった。



 その少女は樹木の下でただ黙って上を、樹木を見上げていた。


 背中まで伸ばした長い黒髪。白いワンピース。白い肌。その姿はどこか寂しげで人ならざるものを感じさせた。


 身長は玲治より少し低いくらい。恐らく同じくらいの歳だ。

 傍に他の人はいない。彼女は1人でただ、樹木を見上げていた。


 玲治は踵を返した。


 今日は諦めようと



 そして、病院の建物へと進路を変更して歩き出した。




 別の日


 教室の隅っこで玲治は読書を楽しんでいた。活字に触れ、文章を黙読してその情景を頭に浮かべる。


 急にガコッと自分の机が動く。本から目を離して顔を上にあげた。


 目の前には男子生徒が玲治の机に体勢を崩し、半倒れになっていた。


「おい。なにやってだよ」と周りの男子生徒数人が笑いながらその男子生徒を見ている。


 恐らく、互いにふざけていて体勢を崩したのだろう。高校男子の中ではよくある事だ。


 休み時間に友達の席へと集まり、そこで話したり小突きあったり


 それは当たり前の日常だった。


「⋯⋯わ、悪いな」


 体勢を崩した男子生徒は手を合わせて軽く謝る。その謝罪も軽いもので玲治は「うん」と頷いた。


 その男子生徒たちは席から離れていった。それを見送ることも無く、玲治は本の世界へと戻った。


 その日も1日中、誰とも会話することも無く1人で弁当を食べた。その後も授業を受けて、時間が来ると静かに席を立ち、学校から出ていく。



 はたして、高校に通う意味はあるのだろうかと時折、考える事がある。


 どうせ、短い命だ。もっと自分のしたい事をした方がいいのではないかと


 ただ、時間を浪費するだけの毎日に疑問を抱きつつも玲治は病院へと向かった。



 あの日から数日ぶりに病院へ来た。バス停から道を歩いて芝生の上へと移動する。芝生の上を歩いて樹木の下へと向かう。


 そして、今日も彼女はそこにいた。


 遠くから人影を確認出来たが、念の為近付いてみた。そこには数日前と全く同じ少女が黙って樹木を見上げていた。


「⋯⋯今日もか」


 玲治は思わず溜息をこぼした。


 数日前と全く同じ状況だ。玲治は黙って彼女を見詰める。


 一体、彼女はここで何をしているのだろうか?


 彼女は急にゆっくりと歩き出した。1歩、また1歩と樹木に近付く。そして、樹木の寸前で立ち止まり、靴を脱ぎ出した。靴下は履いておらず、裸足で樹木に腕を伸ばす。

 そして、優しく樹木の表面を撫でた。



 あの時とは違う状況に玲治は困惑しつつも目を見開いた。

 心臓は高鳴り、溢れる高揚感を抑える事ができない。


 何故か心が軋む。胸は苦しくなり、早くなった鼓動は躊躇なく玲治を苦しめた。


 その理由ははっきりしていた。


 その光景は美しかった。まるで、綺麗な本の表紙のような光景に心を奪われる。


 目と心を同時に奪われた玲治は少しの間硬直していた。


 目の前が真っ白になり、その後のことはよく覚えていない。ふと我に返ると彼女は目の前から姿を消していた。



 診察時間を過ぎていたので看護師に注意された。注意で済んだのはこれが初めてだったからか


 玲治は今の看護師とも長い付き合いだ。昔から同じ看護師が玲治を担当している。だから玲治の人間性も理解しているのだろう。


『あの子』は一体何者なのだろうか?

 今度、看護師に聞いてみよう


 玲治は病院からの帰り道、彼女の事を考えていた。


 その日から彼女の事を考えるようになった。何気ない日常に色が加わる。この感情が何なのかは玲治は把握出来ていない。


 登校時、授業中、休み時間、読書中気が付けば彼女の事を考えている時があった。


 そして、病院へと行く日になった。その日はいつもよりも上機嫌で、体も軽かった。

 だが、その日、彼女は樹木の下にはいなかった。


 気を落とし、診察を受ける。その帰り病院内で1人歩く彼女を見つけた。


 声を漏らすことは無かったが思わず2度見してしまった。


 その次も、その次も彼女を見かける度に目で追った。樹木の下にいる時や院内を歩いている時など状況は様々だったが玲治が彼女と話す時は無かった。


 1度、看護師さんに彼女の特徴を伝えた事がある。


「わからないわねぇ」


 と一言だけ返された。


「あの樹木の下にいる事が多いんですけど」


「うーん」


 看護師は首を傾げた後に考える素振りをして考えてくれたが、答えが出る事は無かった。




 次の日。


 その日、彼女は樹木の下にいた。


 これまで自分から女の子に話しかけに行った経験など玲治にはなかった。当たり前だ。友達ゼロ。こういう時にどう話しかければいいのか分からなかった。


 そんな理由のせいか玲治が彼女に声をかける事はなかった。



 数日が経過する。


 玲治は昼休みに学校の中にある自販機の前で何を買うか迷っていた。数分間迷った末に出した答えは紅茶を買うことだった。


 そこで、ポケットから取り出した財布を開いて致命的なミスに気が付く。


 お金が足りないのだ。


 最悪だ。紅茶を買う事を諦めて立ち去ろうとした瞬間、背後から声をかけられた。


「奢ろうか?何が欲しいんだ?」


 声の主は少し前に机に倒れてきた男子生徒、クラスメイトAだった。


「⋯⋯えっと」


 返答に困っている玲治を見兼ねてかクラスメイトAは「この前のお詫びだって」と半分笑いながら、もう半分は申し訳なさそうに答えた。


「⋯⋯それじゃあ、紅茶を」


「はいよ」


 クラスメイトAは小銭を入れて紅茶を購入した。ガコンっと紅茶が落ちてくる。中に手を入れて紅茶を取り出してクラスメイトAは近付いてきた。


「この前は済まなかったな」


 そう差し出された紅茶を両手で受け取る。


「ど、どうも」


 クラスメイトAは玲治の事を見詰める。その視線にどうしたらいいのか困り顔になる玲治。


「⋯⋯お前ってさ同じ歳って感じがしないんだよな」


「えっ?」


 それは唐突に告げられた。


「いやー、気分を害したらゴメンなんだけど、年下っぽい。いつも敬語っていうか、堅苦しい」

 

「⋯⋯ごめん」


「別に謝って欲しい訳じゃないから。勘違いしないでな。もう少し友達風に話せないかな?」


 それはきっと『普通』なら難しい事ではないのだろう。それでも、今までに友達が出来た事がない玲治にとってどう変えたらいいのか、どう接したらいいのか分からなかった。


 それ故に難しかった。


『友達風』とはどういったものなのだろうか?


 どう接すれば『友達風』なのだろうか?


「⋯⋯友達、いたことないから」


 静かに、小さく告げた玲治にクラスメイトAは驚く。


「はっ?!」


「友達、いたことないから」


「いや、そんな悲しい事2回も言わなくていいって!」


 クラスメイトAは間髪入れず突っ込みを入れる。


「だから、どういう風に話していいか分からないんです」


「⋯⋯なるほどな。とりあえず、敬語はなし!語尾にですますも付けない!おーけぃ?」


「⋯⋯おーけぃ?」


 と首を傾げる。OK?という事だろうか?彼の発音が分かりずらい。


「そうそう。じゃあな、れーじ」


 クラスメイトAは勘違いしてそのままどこかへ走っていった。





 それから2週間が経過した。


 病院で彼女を見かける回数は次第に少なくなっていった。


 玲治も彼女に話しかける勇気はなく、ただ眺める日々が続いた。


 意味不明なもやもやに頭を抱えながら溜息を零す。


 それは少年にとって新鮮なものであった。


 ―――――これが『恋』という感情なのだろうか?



 雨の日も、晴れの日も病院に行く日はどこか視線が泳いでいた。


 気が付けば彼女を探している。


 彼女を見つけた時には何故か嬉しくなり、彼女の姿を目で追っている時もあった。



 暑くてだるい日も彼女が病院にいるだけで暑さが吹き飛ぶような気さえする。


 高校生初めての夏休みが近付く頃、学校ではテストが始まる。テストが終わるのは昼頃になり、生徒達は帰宅する。


「じゃーな」


 クラスメイトAはあの日から玲治に話しかけてくる事が多くなった。


「うん。また明日」


 少したどたどしさを残しつつも笑顔で返す。それは大きな進歩だった。僕にとって家族以外でこんなに沢山話すのは彼が初めてだった。


 病院に行く時間も普段と変わってくる。太陽が照りつける中、バスに乗って病院へと向かう。


 毎年、最高気温が更新され今年も更に暑く、熱中症というワードや温暖化というワードが最近ニュースのトレンドだった。



 その日、彼女は樹木の下に立っていた。樹木をじっと目詰めている。


 ⋯⋯何をしているのだろうか?


 玲治は1歩樹木に近付いた。うるさい程に蝉が鳴いている。



 話しかけてみようかな?


 ⋯⋯でも、変な人だと思われたら?

 ⋯⋯どうしよう


 悩んだ。迷った。それでも、少し前に医者から言われた事を思い出した。



「あと半年も生きられないと思います」


 僕の両親はその話を聞いて泣いていた。母親は膝から泣き崩れて、父親は母の肩を抱いて泣いていた。



 どうせ、あと半年の命


『やらない後悔よりやった後悔の方がいい』


 何より今という現状を変えるために



「⋯⋯あの」


 彼女は振り返らない。


「⋯⋯あの、すみません」


 それでも、彼女は振り返ってくれなかった。

 それほど、何かに夢中なのだろうか?それとも、僕に興味がないのだろうか?


 それでも、玲治は腹の底から声を出した。


「あの!すみません!!」


 ビクリと彼女が震える。そして、勢い良く驚いた顔で振り返った。


「⋯⋯え?」


 不意に彼女が声を漏らした。


「僕と、友達になってくれませんか!」


 僕はそう言いながら勢いよく頭を下げた。


「⋯⋯⋯⋯あ、私です、よね?」


 彼女は驚きながらそう口を開く。


「はい!」


「⋯⋯はい。いいですよ!」


 その言葉は玲治にとって最高に嬉しいもので、つい耳を疑ってしまった。嬉しさのあまり、僕は笑顔になり、さっきまで高鳴っていた鼓動と不安が吹き飛んでいた。



 ――――きっと、僕はこの日の出来事を一生忘れないだろう




 ♦♦♦



 彼女の話を聞いた。


 彼女の名前は『瑞寺(みずでら)愛夢(あむ)


 彼女はこの病院にお見舞いに来ているらしい。なんでも、『姉』が長期入院しているらしい。


 それから、僕達は病院で会う度に会話の頻度が増えていった。

 その日々はまるで普段の日常に色が鮮やかに重なる様な⋯⋯それは綺麗で美しい日々だった。


「愛夢って趣味ある?」


「私?⋯⋯特にないかな。玲治くんは?」


「読書かな」


「ふふ、似合ってる」


 彼女の笑顔に癒される。


「愛夢は小説読むの?」


「うーん、少しなら」


「なに読むの?」


「え、えっと、恋愛ものかな」


 憂鬱な朝も、退屈な学校生活も全てが楽しく感じられた。


「⋯⋯玲治くんってさ、夢ってある?」


「え?」


 愛夢と知り合ってから数日。唐突に彼女にそう聞かれたことがあった。


「⋯⋯ないかな」


 玲治は静かにそう答えた。夢なんてあるはずが無い。玲治は病気の事を愛夢に隠した。後ろめたさは勿論ある。それでも、彼女が離れていってしまうのではないかという心配の方が強かった。


 だから、愛夢は僕があと半年の命だと言う事を知らない。


「私はねあるんだ」


「え⋯⋯どんな?」


「ふふ、秘密」


 そうはぐらかされて彼女の夢は聞けなかった。舌を短く出してウインクする彼女は物凄く可愛くて胸がキュッと締め付けられた。


「休日は何してるの?」


「⋯⋯買い物かな」


「イメージ通りだ」


「そう、かな⋯⋯玲治くんは?」


「読書してるよ」


「好きって言ってたしね」


 そうしてテスト後に病院に通う日々が続き、ろくにテスト勉強をしなかった僕は過去最低点数を何教科も出してしまった。


 成績は著しく低下したが、そんな事を気にも止めず青い春(せいしゅん)を謳歌した。


 愛夢は思っていたより喋る女の子で会話が苦手な僕としては少し助かった。

 僕は彼女と一緒にいる時間が凄く愛おしくて、愛夢も僕と一緒にいる時は凄く楽しそうで、いつも笑顔だった。


 楽しいという感情がまるで彼女から溢れているように感じられて、自然と僕も緊張が和らぐ。




 ―――でも、そんな楽しい日々はいつまでも続かない事を僕は知っていた。




 ♦数日後


「⋯⋯最近、学校はどうなんだ」


 低い声で僕に話しかけるのは父親だ。今、僕は家でダイニングにある木の椅子に座っている。

 目の前には木の机の上に料理が並べてあり、外はとっくに日が落ちている。


 父親は僕の前に対面する様に座っている。その日の夕飯はカレーライスだった。


 その場に母親は居ない。玲治の母は長い事体調を崩して寝込んでいる。理由は僕にあった。


 僕がもう長くない事を知ってから母親はずっと寝込んでいる。


 外に出ることも無く、ろくに食事も取っていない。体重は激減して、昔の僕が知る元気な母の姿はもうどこにも無かった。


「⋯⋯楽しいよ」


 僕は静かにそう答えてカレーライスを口に運んだ。


「⋯⋯そうか」


 家事の全般を今では父親が全部行っている。朝早くから仕事に行って、夜遅くまで仕事。


 帰ってくるのは夜の10時。それから洗濯と洗い物、掃除を済ませる。


 いつもは夜ご飯は作り置きなのだが、今日は珍しく定時で家に帰ってきた。


「成績が落ちているようだが」


 と父親は恐らく本題を口にした。

 僕が黙っていると父親は再び重たい口を開いた。


「⋯⋯残り半年、か。長いようで短いな⋯⋯お前の好きなようにしたらいい。お前の人生だ」


「⋯⋯うん。ありがとう」


 そう言って僕は席を立って空いたお皿を台所まで運んだ。そうして、踵を返して自分の部屋に戻ろうと歩き出す。


「⋯⋯済まなかったな。元気な身体で産んでやれなくて」


 その声はどこか寂しげで悲しく、涙の篭った声のように聞こえた。


「⋯⋯うん」


 僕は振り返ること無く、そのまま自分の部屋に戻った。

 部屋に戻った後、そのままベッドに倒れ込んだ。今思えば父親との会話なんて随分と久しぶりに感じた。


 母親が倒れる前も仕事が忙しく、ほぼ一日中働いていた。きっとそれも僕のせいだ。


 玲治の病院にかかる費用はとんでもなく大きいだろう。それを払う為に両親は共働きで頑張っていた。

 それでも、母親が倒れてから父親は更に忙しくなったに違いない。


 母親とは倒れ込んでから会話などした事がなかった。もともと口数が少ない僕だ。それに、なんと声をかけていいか分からなかった。


 母親が倒れたのも、父親が忙しいのも全部僕が悪い。



 だから、僕は家に居ずらかった。


 学校も退屈で⋯⋯僕は病院に逃げた。病院で愛夢と話す時間だけが幸せな時だった。




 次の日


「おーい」


 愛夢は歩いて樹木の下にいる彼女へと歩いて近付く僕に対して大きく手を振った。


 僕は笑みを零しながら彼女に近寄る。


「⋯⋯そういえば、いつもここにいるよね」


「⋯⋯え?」


 彼女は驚いた様に声を漏らした。


「いや、何度かこの木の下で君を見かけたなと」


「⋯⋯もしかして、いつも見てたってこと?玲治くんって変態さん?!」


 と愛夢は胸の前で腕を交差させて両手を自分の肩に置いて身震いをする。


「え?いや、違くて」

 と声が裏返り、あたふたする僕に彼女は笑顔になる。


「ふふ、冗談だって。玲治くんって面白いよね」


「面白い?僕が?」


「うん。そうだね⋯⋯ある時にね、この木を見て思ったんだ。自分と似ているなって」


「⋯⋯似ている?」


「うん」


 彼女は目を細めて上を見上げた。


「⋯⋯僕は、愛夢さんの感性の方が面白いと思うよ」


「え?そうかな」


「うん。それに、不思議だ。自分と木が似ているなんて」


「⋯⋯ほんと、不思議だよね」


「⋯⋯うん」


 それから少し何気ない会話を交わして別れる。玲治は病院で診察を受ける為に建物の中に消えていった。


「⋯⋯はぁ」


 愛夢は玲治の背中を見送って溜息を零す。

 独り目の前の樹木の上の方を眺めて涙を零す。


「⋯⋯嫌だなぁ。ぅ⋯⋯うぅ。」



 彼女の嗚咽は誰にも届かない。滲んで零れる涙。涙を止めようとすればするほど溢れ出る涙。こんな姿を彼には見せたくなかった。



 ――――――彼女もまた、この幸せな時間が長く続かない事を知っていた





 ♦数日が経つ


 学校の教室では夏休みの計画が友達間で話し合われている。


 それぞれが教室のどこかに集まり、「○○に行こうよ!」「えー××がいいよー」


 などと笑いながら楽しそうに話している。


 その中で僕は1人だった。独り自分の席に座って本を開く。


「そういえば、来週の土曜、花火じゃね?」とすぐ近くを通りかかった男子生徒がそう言っているのが聞こえた。


「お前、○○誘えば?」「え?!無理だよー」と1人の男子生徒がもう1人の男子生徒を促している。もう1人の男子生徒は顔を赤くして照れながら首を横に振っていた。


 そんな状況を横目に、本の文字に視線を戻した時


「れーじ」


 と机に飛びかかってくるクラスメイトA。


「⋯⋯どうしたの?」


「はぁ、相変わらずクールだなぁ」


 とクラスメイトAは溜息の後、笑いながらそう言った。


「いやぁ、お前さ気になる女子とかいないの?」


 と唐突に聞かれて僕は読んでいた本から手を離して本を倒してしまう。


「え?」


「だから、気になる女子だって」


「⋯⋯⋯⋯いないよ」


「居ないのかよー」


 クラスメイトAは残念そうに言う。


「⋯⋯どうして?」


 玲治の問いにクラスメイトAは「花火の日に女子から一緒に行こうって誘われたけどさぁ、2人っきりだと恥ずかしいじゃん?だからグループで行きたいなぁって」


 とクラスメイトAは隠すこと無く僕に「女子と花火を観る」宣言をしてきた。


「⋯⋯良かったね」


「いや、一緒に行く奴が居なくて困ってるんだって!」


「⋯⋯その子は多分、君と2人で行きたいんだと思うよ」


「⋯⋯え?なんで?」


 と真顔になるクラスメイトA。


「⋯⋯いや、ただの憶測だけど」


「⋯⋯なんだ、テレパシーかと思ったぜ」


 といかにもバカらしい発言をするクラスメイトAに僕は少しだけ笑みを零した。


「⋯⋯まさか、超能力なんてこの世にある訳ないだろ」


「いやぁ、もしかしたらあるかもしれないだろぉ」


「ないよ。それでどうするの?」


「ん?なにが?」


「花火だよ」


「あぁーどうしよっかなぁ」


 クラスメイトAは頭を両手でかきながら悩み続ける。そんな彼を見て僕は脳裏に愛夢を思い浮かべていた。


 ⋯⋯もし、彼女と花火を見に行けるのならばどんなに嬉しいか、と


 それでも、誘う勇気が出ない。


「⋯⋯もしさ、女子を花火に誘うとしたらどんな風に誘う?」


 僕は無意識に口を開いていた。


「え?それは⋯⋯⋯⋯一緒に行きたいです、って伝える」


 つい聞いてしまった事を後悔した。恥ずかしさのあまりクラスメイトAの顔を見れない。


「え?誰か誘うのか?」


「⋯⋯いや、だ、誰も誘わないよ」


 声が震えていたが、そんな事にクラスメイトAは気付かなかった。


「そっか」


 その後、クラスメイトAは自分の事に悩みながら僕の席から離れていった。


「⋯⋯なに口走ってるんだよ」と僕は独り呟いた。


 その後、授業で先生が話している事など僕の耳には届いていなかった。考えているのは彼女の事で、花火への誘い方を模索していた。


「⋯⋯どうしよう」心の中で呟く。


 時間が流れる程に胸の鼓動が早くなり、緊張が増してきた。





 学校の授業が終わって部活の時間になる。部活に入っていない僕は独り正門へと向かって歩き出す。


 楽器の音が学校の中全体に響き渡る。その中で負けずと声を出す野球部とサッカー部。陸上部やバスケ部は学校の中を走っている。


 体育館からはバレーの力強いスパイクの音、卓球部のリズミカルなラリーの音など、学校の中が授業の時とは違う色に染まっていく。


 僕は正門を通過して病院に向かった。



 その日は検査の後に会う約束をしていた。

 建物から出て樹木の下へと向かう。彼女はいつもの様に僕に向かって大きく手を振る。


 僕は軽く走って彼女の元へと向かう。


「あのね、今日大きい蜻蛉が私の頭に止まったの。凄く驚いてさ⋯⋯⋯」


 彼女の嬉しそうな話に僕は耳を傾ける。


 彼女との楽しい会話が一段落して少し、沈黙の時間が流れた。僕は俯いて独り悩んで考える。目を瞑って、緊張に打ち勝つ為に静かに深呼吸をする。


「あのさ」

 最初に沈黙を破ったのは愛夢だった。


「ど、どうしたの?」

 僕は普段より強ばった声で彼女の方を見た。


「⋯⋯⋯デート、しようよ」


 夕日を背に彼女はそう静かに、それでも確かに口を開いた。


 沈黙が流れる。玲治の鼓動はこれまでにないほど早く高鳴る。苦しい。それは心臓に病気を持っているからだろうか?それとも嬉しいからだろうか?


 僕は少しの間固まって動けなかった。まるで金縛りにでもあったかのように目を見開いて彼女を見つめた。


 彼女の顔は赤くなっている。僕から一生懸命目を逸らしている。


 僕は一瞬だけ耳を疑った。


 だが、停止しかけた思考が追いついた瞬間に嬉しさの余り笑みが零れた。


 口角が上がるのを抑えられない


「⋯⋯玲治くん。聞こえなかったの?」


「あ、ごめん。僕も行きたい!」


 それが初デートの約束だった。


 恥ずかしそうにそれでも、嬉しそうに笑う彼女に僕も幸せな感覚に包まれる。



 ―――きっとこれが、恋という感情なのだろう




 ♦花火の日


 学校は夏休みに入り、僕も浮かれていた。何事も上の空でこの日を迎えた。


 その日にも検診の予定が入ったから集合は病院の前となった。


「何だか嬉しそうね」


 看護師が何かを察してそう訊ねてきた。


「分かりますか?」


「勿論。何年の付き合いだと思ってるのよ」


「⋯⋯実はこれからデートなんです」


「え?そうなの?若いっていいわねぇ」


 検診が終わって急ぎ足で外に向かう。そこには浴衣姿の愛夢が僕を待っていた。セットされた髪型に桃色の浴衣。


 彼女の浴衣姿に玲治は言葉を呑み込んだ。


「⋯⋯⋯⋯こんにちは」


 彼女は少し恥ずかしそうに口を開く。


「⋯⋯あぁ、うん」


「⋯⋯行こっか」


 彼女が歩き出して僕は彼女の横に並んで歩き出す。いつもとは違う空気に少し気まずい。


 恥ずかしくて、可愛すぎて彼女を直視できない。


 そのまま駅まで少し長い道を歩いて進む。切符を購入して改札を通過して電車に乗る。


「⋯⋯楽しみだね」


「⋯⋯うん」



 電車から降りる頃、外は既に薄暗くなっていた。


 人混みに流されながら少しずつ進んでいく。愛夢は僕とはぐれないように僕の服の裾を軽く摘む。


 初デートに胸が踊りながらも緊張が解れない。


 人の流れに押されながら進んでいき、少し広い道に出るとようやく流れから脱出する事ができた。



「⋯⋯なにか食べたい物ある?」


「大丈夫」


 少し、いつもと様子が違う彼女。少し疑問に思いながらも僕達は屋台を回った。


 そして、花火の開始のアナウンスの後に口笛のような音と共に火の玉が宙に登っていく。


 鼓膜を破るかのような大きい音が響いて火の玉が弾ける。

 宙を覆い隠すかのように巨大な一輪の花が開花する。


 細かく無数に夜空に散る火の粉。夢のように儚く煌めいた花火は晴れた夜空の中に溶けて消えていく。


 赤、青、黄、朱、と色鮮やかに闇の中に次々と色が咲く。そのあまりの美しさに大きな歓声が響く。


「⋯⋯綺麗だ」


「⋯⋯うん」


 彼女の声がどこか涙で滲んでいた気がした。


 僕は我に返って視線を下に戻す。彼女は大粒の涙を零して泣いていた。


「え、どうしたの」


「⋯⋯う、うぅ」


 嗚咽混じった声で彼女は答える。


「嬉しすぎて」


 ふと抱き締めたい欲望に駆られる。


「今ここで好きって伝えたい!」玲治は込み上げるものを抑え込んで告白の決意を固める。



「あ、愛夢」


 彼女の名前を呼ぶ。愛夢は涙を拭って顔を上げた。


「ぼ、僕、愛夢の事が―――」

「あれ、れーじ、じゃん!」



 僕の言葉を遮る形で名前が呼ばれる。僕が振り返るとそこには女子と手を繋いだクラスメイトAが居た。



「あ⋯⋯」


()()で花火か?」



 花火の灯りが僕達を照らして包み込む。


「え⋯⋯」


 僕は呆然とその場に立ち尽くした。頭が真っ白になって思考が完全に停止する。











 ♦♦♦



 ⋯⋯思い返せば僕は見た事が無かった。

 彼女が、愛夢が僕以外の誰かと話している所を


 彼女の話を聞いた。


「⋯⋯姉のお見舞いっていうのは嘘なの」


「え⋯⋯」


 衝撃的だった。聞きたくなかった。それでも、耳を傾け続けた。


「⋯⋯私、ね⋯⋯霊魂なの」


 言葉が出てこなかった。理解出来ず、棒立ちになって⋯⋯彼女の言葉に耳を傾けた。


 いや、本当は塞ぎたかった。

 でも、腕も動かなかった。


「この病院の集中治療室に私と同じ名前の患者の姿があるの」


 息を呑み込んで、それでも心のどこかで冗談だと思っていた。





 後日、看護師に頼んで集中治療室へと足を運んだ。



 そこには確かに彼女と瓜二つの⋯⋯いや、彼女と同一人物の姿があった。


 ベッドの上から動くことは無い。顔には口と鼻を覆うように酸素マスクが装着してある。


 腕には栄養が供給されるように細い管が繋がれている。


 彼女はもう数年間目を覚ましていないのだと看護師は言った。


「彼女は幼い頃に水難事故で脳に損傷を受けてからこの病院に運び込またの。それから数年間目を開けたことはないの」


 看護師の言葉に彼女が霊魂である事が証明される。自分の中で嫌なピースが形を成していく。耳を、目を疑いたくなる真実に言葉が出て来ない。


 その日は彼女には会いに行かなかった。




 急に色んな事があって整理が追いつかない。整理したくない。理解出来なかった。


 自分の部屋から出ることなく数日を過ごした。父親から声をかけられもしたが、玲治が外に出ることは無かった。



 でも、どれだけ考え込んでも彼女の言っていることは正しかった。


 こんな話バカバカしいにも程がある。それでも、否定出来ないのだから受け入れるしかない。


 ⋯⋯何故、彼女の姿は僕だけに見えているのだろうか?



 それに関しては答えすら出せなかった。


 だけど、僕だけに見えているのなら彼女はどんな思いで毎日を過ごしてきたのだろうか。


 本物の孤独。


 誰かに触れる事も出来ず、誰かと会話をする事も出来ない。他人の温もりに触れることも無く、誰かに認識すらされない。



 想像した。それだけで全てを把握する事なんて無理だけど、それでもそうする他にどうする事も出来ない。


 毎日独りだ。愛する両親にも触れられず、彼女は独りあの病院で何をしていたのだろう。


 寂しい夜を、独りで過ごしていたのだろう。


 泣いても、叫んでも誰も気付いてくれない。


 悲しすぎる。




 それでも、答えを出せた事もあった。






 数日後


 玲治は部屋を出た。窓から差し込まれる光。久しぶりの日光に背筋を伸ばす。


「玲治!」


 父親が慌ただしく僕の名を呼んだ。


「⋯⋯心配かけてごめん」


「もう、大丈夫なのか?」


「うん」


 それから父親がつくった朝食を食べて歯を磨き、身支度を終える。


「行ってきます」そう明るく家の中に響かせてから玄関の扉を開いた。





 病院に着くと樹木の下に彼女は居た。僕の姿を見ると、まるで幽霊でも見るかのように驚いて涙を流した。



「⋯⋯どう、して」


 歯の隙間から声を洩らして泣く彼女は聞いてくる。


「⋯⋯どうして、か」


 僕は晴れた青空を見上げた。答えに迷った訳では無い。視線を彼女に戻す。


「⋯⋯⋯⋯それは、好きだから、かな」


 彼女の涙を拭う仕草が止まる。拭っても溢れる涙に彼女は濡れた顔で僕を見上げた。


「⋯⋯僕も君に黙っていた事があるんだ⋯⋯⋯僕、心臓の病気なんだ」


「⋯⋯し、知ってるよぉ」


 そう答える彼女に僕は驚愕した。驚きのあまり声が置き去りになる。



「え!⋯⋯じゃあ、知っていて僕と?」


「⋯⋯うん」


 何故か嬉しさが込み上げてくる。それと他に苦しみと涙が押し上げる。


 涙目になった僕は彼女を見詰める。


「⋯⋯あと、半年も生きられないかもしれないんだ」


「え⋯⋯⋯⋯」


 その事は初めて知ったのだろう。彼女が驚いて声を発した。

 僕は再び宙を見上げた。そのまま目を閉じて勇気を振り絞る。


 覚悟は決まった。


「⋯⋯こんな僕でもいいのなら、僕と付き合ってくれないかな?」


「⋯⋯私、玲治に沢山嘘ついた!小説なんて呼んだ事ないから恋愛小説が好きっていうのは嘘、蜻蛉が頭に止まったていう話も嘘、他にも沢山嘘をぉついた」


「⋯⋯うん」


「⋯⋯私、幽霊だよ⋯⋯⋯⋯私、幽霊なんだよぉ」


 悲しそうな彼女に僕は本能的に彼女に抱きついた。力強く彼女を抱き締める。


「⋯⋯愛夢は人間だ」


 彼女は確かにそこに存在している。確かな感触がそこにはあった。細い僕の力でも強く抱き締めれば折れてしまいそうな程に細く弱々しい。


 そして、確かな温もりが伝わってきた。



「⋯⋯温かい」


 僕の腕の中で泣き崩れる愛夢。彼女も腕を伸ばして玲治の背中に回す。お互いの力強い抱擁はこの世の何よりも温かい。


「⋯⋯⋯⋯私でいいの?」


 しばしの沈黙を破って愛夢が口を開いた。

 一瞬、言葉に詰まる。

 なんと返せばいいのかと。



「君がいいんだ。愛夢、好きだ」

 という決まり文句の様な言葉が口から零れる。だが、それ以外に言葉が見つからなかった。


 いっそう腕に力が込められる。


「⋯⋯嬉しい」


 愛夢の気持ちが口から零れ落ちる。涙は次第に乾いていく。

 優しい風が2人を包む。


「⋯⋯やばい」


「え?」


「私、こんなに幸せでいいのかなぁ」


「うん。いいに決まってる」



 彼女の笑顔はこの世の何より愛おしかった。


 ⋯⋯愛している


 この瞬間、僕達は()()ではなくなった。






 ♦それから、会いに行ける日は必ず彼女に会いに行った。


 2回目のデートはカラオケにした。


 愛夢が「カラオケに行ってみたい」と言ったので迷わずに決めた。


 彼女は幼い子供のようにはしゃいだ。病院からバスに乗ってカラオケの近くのバス停で降りる。カラオケまで2人で歩いてカラオケの前で止まる。


 今こうして僕の隣を歩く彼女は誰の目にも止まる事がない。



 カラオケの中に入ってひとり分の料金を払って部屋に入った。


 僕は歌う事が得意ではなく、彼女も初めてのカラオケという事もあって2人とも点数はひどいものだった。



 彼女は初めて見るカラオケの機器に目を輝かせていた。


「すごーい。カラオケって凄い楽しいね!」


 微笑ましく彼女と共に時間を過ごした。朝から歌ってカラオケを出る頃には日が暮れる手前だった。


「⋯⋯これから、どうしよっか?」


 最初に沈黙を破ったのは彼女だった。彼女は俯いて顔を少し赤らめている。


 まだ暑い夏の日だからだろうか


 この後の予定は決めてなかった。



「⋯⋯どうしようね」


 僕は少し困った表情でそう答えた。



 また彼女も同じく困ったような表情になる。まるで、返答に困っているような感じだった。


 ⋯⋯この返事はまずかったかな?



「愛夢がどこか行きたい場所はないの?」



「⋯⋯み」


 彼女は俯いて答える。だが、その声はか弱く、聞き取る事が出来なかった。


「え?」


「⋯⋯海に、行きたい」


 耳まで赤く染めて彼女はそう答えた。


「わかった。明日行こう!」


 僕の答えに彼女の肩がピクリと動く。そして勢いよく振り向いた。その反応がなんとも可愛らしい。


 緩む口角を抑える事が出来ずに手の甲で口元を隠した。


 彼女から顔を逸らす。


 ⋯⋯あぁ。好きだ。



「⋯⋯じゃあ、今から⋯⋯水着、買いに行かない?」



 彼女の弱々しい声に今度は僕が勢いよく彼女の方へ顔を向けた。


 愛夢は目を合わせてくれない。


「⋯⋯う、うん」


 僕は生唾を飲み込んだ。それから少し気まずい空気の中、歩き続けて水着が売っている服屋に着いた。


「着いたね」


「⋯⋯う、ん」



 僕が先に店に入る。愛夢は僕の少し後ろを歩いている。先に僕が水着を選んだ。


 夏休みという事もあり、水着は店の目立つ場所に置いてあった。


 少し迷いながら青色に白のロゴがはいった水着を選んだ。


 そして、次は⋯⋯


 僕は後ろの愛夢を見詰めた。


「⋯⋯やっぱり、私は⋯⋯」


 彼女は恥ずかしそうに俯いてもごもごと口を動かしている。


 それから少し思い悩んで急に何かを決心した。

 顔を上げた彼女と自然に目が合った。すると、彼女は顔を逸らしてしまう。


 それから1人早歩きで店の中を進んでいく。僕は少し遅れて彼女の後を追う。


 彼女はハンガーに掛かった水着を漁って1組の水着を取り出した。


「⋯⋯これで」


 その水着は白いフリルのビキニだった。


 僕は思わず生唾を飲み込んだ。彼女がそんな水着を選ぶなんて思っていなかったからだ。



「⋯⋯わ、わかった」


 僕は愛夢の水着を受け取ってレジまで移動し店員さんに水着を渡した。店員の女性の人に白い目で見られた。


「⋯⋯か、彼女へのプレゼントなんです」


 僕は苦笑いしながらそう答えたが、店員さんは何も答えてくれなかった。

 ⋯⋯よっぽどの変人だと思われたのだろうか


 店から出た後はバスに乗り、僕は家の近くのバス停で降りた。


「今日は楽しかった」


「うん、僕も」


 バスの扉が閉まり、彼女を乗せたバスはそのまま発進した。


 運転手が彼女の存在に気付くことも無い。



 愛夢はこのまま自分の家まで行き、家族の様子を見てくるようだ。その後はきっと病院に戻るのだろう。


 彼女が眠る事は少ない。


 身体が眠っているからか彼女は寝なくても大丈夫なのだと言っていた。


 その日は用意されていた晩飯を1人で食べてその後、風呂に入った。


 家の中は静かでまるで、自分しかいないような錯覚に襲われる。


 ここ最近、母親とは一言も話していない。僕はその日も母親と話さずに自室に戻り、ベッドの上に横になった。




 翌日



 暑ぐるしい中、目を覚ます。目覚めとしては最悪だが今日の予定を思い出し、直ぐに晴れやかな気持ちになる。


 部屋の窓から見える青空。


 僕は直ぐに朝食を済ませて顔を洗い、身支度を完了させて家を出た。手には水着の入った鞄。


 外は絶好の海水日和だった。


 暑く地面を照らす太陽。時折吹く風は熱く、蝉がうるさい程に鳴いている。


 汗を流しながら、手の甲でそれを拭いながら歩く。


 バス停でバスに乗って病院へと向かう。



 病院でバスから降りて直ぐに彼女の姿を捜す。


 愛夢はあの樹木の下にいた。僕は歩いて彼女に近付く。彼女も僕を見つけると表情が明るくなる。


「おはよう」


「うん、おはよう」


 互いに挨拶を交わす。「それじゃあ、行くか」と僕は彼女の前を歩く。2人で一緒に歩き、バスに乗って駅で降りる。


 駅で一人分の切符を買って改札を通過した。愛夢も僕の後を通過したが、改札は何も反応しなかった。


 改札が反応しない。彼女が霊的存在であるという事実。


 電車を待つ間、僕は自分の好きな本の話をした。彼女は優しく笑って僕の言葉に耳を傾けてくれる。


 数分後にアナウンスが流れ、電車が目の前に停車する。


 電車に乗り、扉が閉まる。電車はゆっくりと動き出した。心地よい振動。電車に乗っている人は少なかった。


 僕と愛夢は座席に座った。だが一言も話さない。


 きっとこれは彼女の気遣いだ。



 他の人の目がある所では彼女は話を自分からしない。優しい彼女の行動に胸が締め付けられた。






 海に着き、僕たちは更衣室にそれぞれ入る。僕が着替えてから数分後、水着姿の彼女が恥ずかしそうに姿を現した。


 僕は言葉を失った。


 言葉が出てこず、彼女に釘付けになる。


「あ、あんまり⋯⋯見ないで」


 愛夢は腕で胸あたりを隠しながら小さな声で呟く。


「ご、ごめん」


 僕は慌ててそう返して目を逸らした。


 ⋯⋯なんて答えたらいいのか分からない。とりあえず、可愛すぎる。


 暑く輝く太陽に、青い海。その砂浜に白い肌に水着姿の彼女。



 幸せすぎる光景を目に焼き付けた。


 ⋯⋯彼女に悟られぬように。



 僕と愛夢は海の中に入った。


 正確に言えば愛夢は海水にも砂にも触れられない。


「⋯⋯どんな感じ?」


「⋯⋯結構暖かいよ⋯⋯ほれ!」


 僕は勢いよく、愛夢に向かって海水をかけた。


「ひっ!」


 バジャッと勢いよく、海水を頭から被る⋯⋯と言うより頭からすり抜けた感じなのだが⋯⋯


「びっくりした?」


 愛夢は驚いたのか目を瞑って海水を回避しようとしていた。


 次は自分の行動に驚いたのか「あ⋯⋯」と口を開けて呆然とする。


 その反応を見て僕は思わず息を吹き出した。


「ちょ、ちょっとぉ!」


「ごめん。反応が可愛くって」


「⋯⋯かわいい」


 愛夢は顔を真っ赤に染めた。



 それから砂で城を作った。海に来ている人は少なくはなかったが、僕が独り言を呟いてても気にする人はいなかった。



 そうして、あっという間に時間が過ぎた。



「そろそろ、帰ろうか」


「うん」


 そうして着替えてからまた電車に乗った。


 彼女の表情が暗くなっている。


 理由に心当たりはあった。僕たち2人が乗っている車両に他の人は存在していなかった。


 眩いオレンジ色の光が窓から電車内を照らしている。


「⋯⋯今日、うち来る?」


 思えば、そんな事を口走っていた。


 愛夢は驚いた様に顔を上げる。


「⋯⋯いいの?」


 彼女の目尻には水滴が溜まっていた。


「もちろん」


 僕は口角を上げて答えた。




 家に着く頃には月が明るく顔を出していた。


「ただいま」


「⋯⋯お邪魔します」


 僕と愛夢はそのまま自室へと向かった。


「⋯⋯ここが玲治くんの部屋」と愛夢は目を輝かせる。


「適当に座っててよ。風呂に入ってくる」


 と僕はそう言い残して風呂に向かった。




 部屋に戻ると彼女は僕の部屋の中を歩いて回って何かを見物するような目付きで首を傾げていた。


「どうしたの?」


「⋯⋯エッチな本とか置いてないの?」


「お、置いてる訳ないだろ!」


「えー、残念だなぁ。私が物に触れられたら探すんだけどなぁ」


「や、やめてよ」


 こんな風に時間は流れ、僕は横になった。海で遊んだからか瞼が重い。



「⋯⋯寝ていいよ?」


「い、いや⋯⋯大、丈夫」


 そう言いながら僕の瞼は開閉をゆっくり繰り返される。

 視界が霞んで見える。


 そして30秒も経たない内に僕の意識はなくなってしまった。


「⋯⋯ありがとう」


 愛夢は優しく呟いて顔を僕にそっと近付けた。


 頬に唇が触れる寸前でその動きは停止する。


「⋯⋯大好きだよ」


 そうして頬にそっと口づけをした。





 ♦それから、僕と愛夢はデートを重ねた。


 一緒にいる時間は長く、僕にとって凄く幸せな思い出が増えていった。


 そうして、夏休みが終わる。


 2学期が始まってから僕は1度も学校に登校していなかった。


 病気の悪化により、夏休みの最後に入院する事になった。


 それから、愛夢ともデートに行っていない。それでも、彼女は毎日僕の病室を訪れてくれた。


 また、クラスメイトAも数度だけ見舞いに来てくれた。


 そして、1ヶ月が経過する頃。

 僕の体は骨の形が浮き出る程に細く、痩せてしまった。


 日々弱っていく僕を見て彼女は何を思っているのだろうか?


 父親と愛夢に支えられて、誰かに頼って生きる事しか出来ない。だが、その生活にも終わりが近付いていた。


「⋯⋯玲治」


 彼女はそう言って僕の手を握る。窓から綺麗な満月が顔を覗かせている。


 僕の身体に繋がれた点滴。毎日行われる検査。


 それでも彼女はいつでも、どんな時でも傍に居てくれた。


 声をかけて励ましてくれた。苦しい時には手を握ってくれた。

 それがとても愛おしく、苦しかった。嬉しかった。


 自分の命の限界が近付いてくるのがわかる。

 数ヶ月前のように外を出歩く事も出来ない。



 それでも『死にたくない』とそう思えた。


 この気持ちをくれたのは間違いなく彼女だった。



 ⋯⋯もっと沢山彼女と一緒に過ごしたかった。

 長い時間を一緒に生きていきたかった。

 もっと彼女に触れたかった。

 彼女と話したかった。



 彼女と一緒に生きた時間が愛おしい。







 そうして、秋の季節が訪れた。




 赤色に黄色と鮮やかな葉っぱがこの世界を美しく彩る。この世界は美しいのに少しだけ残酷だ。


 矛盾した世界は僕たち人間の心のようだ。



 ある日の夜。


 僕の病室で月の光に照らされた彼女は優しく微笑んだ。それは衝撃の告白だった。


 重く、苦しい空気の中で彼女は重たい唇を開いて僕にひとつの提案をした。


「私の、心臓を貰って」


 それは僕に残された救済措置だった。誰かの心臓を移植する。そうすれば僕は死なずに生きられる。


 それでも、僕は否定した。


「⋯⋯何を⋯⋯言ってんだよ」


 涙が混じったその言葉に愛夢も涙ぐんだ。


「⋯⋯私は玲治くんに生きて欲しいの。迷って、悩んで決めたの」


「そんなの!⋯⋯⋯僕だって同じだよぉ」


 怒鳴って苦しんで胸の奥から出た言葉。


「⋯⋯愛夢が居るから僕は生きたいんだよ!君が死んだら意味が無いんだ」


 彼女は少し間を置いて小さく呟く。


「⋯⋯私はもう死んでるよ」


「そんな事!⋯⋯⋯⋯っ」


 僕は声を荒らげてその次の言葉を飲み込んだ。彼女の表情が僕にそうさせた。


「⋯⋯そんな顔⋯⋯⋯⋯ずるいよ」


「⋯⋯ごめんね。私にはこれしか思いつかなかった。私を救ってくれた君に生きていて欲しいの」


 わかりたくないけど、わかってしまう。


 僕と同じだ。僕が愛夢に生きていて欲しいように、彼女も僕に生きて欲しいのだ。



「⋯⋯きっと、私は死んでいた。ずっと1人で、寂しくて、あのまま消えたかった。何処を歩いても私には眩し過ぎた」


「私は誰にも気付かれず、誰かに触れる事も、話す事も出来ない」


「ずっと苦しかった⋯⋯⋯⋯消える手段があるのなら消えてしまいたかった。それでも⋯⋯⋯⋯玲治くんが私に生きる意味をくれた」



 涙が溢れた。



「ずっと1人だった私を玲治くんが見つけてくれた。手を差し伸べてくれた⋯⋯救われたの。凄く、嬉しかった」



「ずっと、誰かと話したかった。ずっと、誰かに触れたかった。もう一度、誰かと青空の下を一緒に歩きたかった。一緒に海に行きたかった。誰かと綺麗な景色を一緒に見たかった。誰かと⋯⋯一緒に生きたかった」



 彼女との思い出が溢れる。


「ずっと、夢を見ていた。その夢を君が叶えてくれた」



 僕は何も言い返せなかった。


 涙が言葉を奪っていく。


「だから⋯⋯⋯ありがとう。玲治くん」


 最後に彼女は笑った。






 ♦数日後


 病院の許可を貰って外出する事になった。沢山親と先生に頭を下げた。


 外の気温はだいぶ低く、時折吹く冷たい風が肌を刺激した。



 病院からタクシーに乗ってある場所に向かう。

 今はタクシーの中で愛夢と手を繋いで外の風景を眺めていた。



「⋯⋯緊張する?」


 途端に彼女が口を開いた。


「かなり緊張してる」


 僕は運転手に視線を向けるが運転手からは何も読み取れなかった。


 それからタクシーに揺られること30分。


 目的の場所に着いて僕と愛夢はタクシーを降りた。予め用意していたタクシー代を払ってお礼を言った。


 タクシーの運転手は優しく笑顔で答えてくれた。



 目の前には住宅街が広がっていた。



「⋯⋯ここ、なんだね」


「うん」


 僕の言葉に彼女は少し懐かしい様に目を細めた。目の前の一軒家。その表札には「瑞寺」と書かれていた。



 そう。ここは愛夢が昔住んでいた家だった。


「⋯⋯顔が怖いよ?」


 緊張している僕に愛夢はからかうように笑った。


「⋯⋯しょうがないだろ」


「⋯⋯私に告白した時より緊張してる?」


「そうかもしれない」


「えー」と口をへの字に曲げる彼女に僕は笑みを零す。


「行くよ」


「うん」


 僕は彼女の手を握ったままチャイムを押した。


 家の中で音が響いた。少ししてから家のドアが開かれた。中から顔を覗かせたのは40代の女性だった。


「はい⋯⋯」


 僕は覚悟を決めて「僕は上木玲治と言います。愛夢さんの彼氏です」と口を開いた。





 家の中に通されてリビングで彼女の母親と父親に睨まれる。


 それもその筈だ。まだ幼い愛夢は水難事故から1度も目を覚ましていない。


 目が覚めるのを望んでいる所に突然娘の彼氏と名乗る男が現れたら重い空気になるのも仕方が無い事だった。



「⋯⋯それで玲治くんと言ったかな。娘の彼氏、というのはどういう事だね」


 と先ず口を開いたのは眼鏡をかけた男性、愛夢の父親だ。



「言葉通りです。慌てずに聞いて下さい、と言っても無理だと思います。理解して下さいと言っても簡単にはいかないと思います。それでも、今から話す事は事実なんです」


 少し長い前置きに、その場が静まる。重たい沈黙の中、母親と父親は静かに僕の言葉に耳を傾けた。



 信じさせるのは簡単ではない。それでも、僕が証明しなければ、彼女の決意は無駄になってしまう。



「⋯⋯今、僕の隣に愛夢さんが居るんです」


 その事実を切り出した。



「ふざけるな!」


 そう叫んで僕は急に胸ぐらを掴まれた。突然の事に脳が追いつかなかった。


 だが、予想出来ていた反応だ。


 父親は今にも殴り掛かりそうな状態で叫び続けた。


「愛夢が隣にいるだと?!ふざけるのも大概にしろ!娘の彼氏?バカバカしいにも程がある!あの子はなぁ⋯⋯⋯⋯もう10年も目を覚ましてないんだぞ」


 父親と母親の怒りに心を、胸を締め付けられる。



「お父さん、やめて!」


 愛夢が叫ぶがその言葉は届かない。


「⋯⋯本当なんです。今もここに居るんです!」


「いい加減にして!」



 母親が叫ぶ。父親は僕を壁まで追いやり、壁に僕の身体を勢い良く押し付けた。


「まだそんな嘘が言えるのか!」


 奥歯を噛み締める。愛夢が知っている家族の秘密でも話せば信じてくれるだろうか?


 ⋯⋯いや、きっと無理だ。そんな事を口にすれば更に怒りが増すだろう。



「やめてよ、お父さん!」


 愛夢が父親を止めようと叫ぶ。だが、届かない。


「お母さん!信じてよ」


 父親に言葉は届かず、母親にも届く事はない。


 それでも、彼女は叫び続けた。



「僕には彼女が見えているんです」


「黙れ!」


 そう言って頬に強い衝撃が走った。殴られたのだと理解する。


「⋯⋯お父さん!」


 愛夢が駆け寄ってくる。父親の身体をすり抜けて僕に抱きついた。父親から僕を守るように強く。


「もう、やめて!」


 涙を零しながらそう叫んだ愛夢の声が家の中に響いた。


 父親の動きが急に止まった。

 母親はその場に膝を崩した。


「⋯⋯愛夢の、声だわ」


 母親の言葉に僕と愛夢は何が起きたのか分からなかった。


「⋯⋯本当に、そこに居るのか」



 愛夢の聞こえるはずの無い声が確かに届いた。


「⋯⋯私の声が聞こえるの?」


「⋯⋯愛夢」


 母親は涙を流してその場に蹲った。


 父親はまるで幽霊でも見るかのように目を見開いている。


 愛夢の声が2人に届いた理由は直ぐに判明した。


 僕の身体に触れながら話す事で愛夢の声は第三者に届く。


 そのまま愛夢は僕の紹介と、自分の決意を2人に話した。





「その、玲治くん。殴って悪かったよ」


 愛夢の言葉を2人は涙を流して聞いていた。


 若干目の下が赤く、涙が篭った優しい声。


「いえ、お父さんが愛夢さんのことを大切に思ってるってわかりましたから」


 父親の愛情がそこにはあった。母親の愛情がそこにはあった。



「玲治くん。娘に、愛夢に会わせてくれてありがとう」


「はい」


 長い時間をかけて2人は納得してくれた。


「⋯⋯お父さん。お母さん。」


 僕と手を繋いだまま愛夢は自分の想いを告げる。


「産んでくれて、愛してくれてありがとう。大好き」


 それは、きっと彼女がずっと言いたかった言葉。

 伝えたかったけど伝えられなかった言葉。


 ずっと溜め込んでた想い。



 彼女の涙を振り切るその笑顔は


 ――――美しかった。








「⋯⋯本当にありがとう」


 2人で並んで歩く中、彼女はそう呟いた。


「いいんだよ。これくらい」


「ほっぺた痛い?」


「大丈夫」


 心配して覗き込む彼女に僕は照れながら笑って答える。


「むぅ⋯⋯ていっ」


 と頬を膨らませて彼女は僕の頬を人差し指でつついた。


「ちょっ、いたっ」


「⋯⋯玲治くんの大丈夫って大丈夫じゃないよね」


 とジト目で僕を見詰める。


「そんな事ないよ」


「そんな事あるって」



 少しでも長くこうしていたい。



 ⋯⋯あぁ、このまま時間が止まってしまえばいいのに







 それでも、この世界は残酷で神様は冷たい。


 時間はゆっくりと流れた。



 そして、季節は冬になった。




 その年で初めての雪が降ったその日は手術の前日だった。

 医師と話し合って決めた手術日は可能な限り伸ばされた。



「⋯⋯いよいよ明日だな」


「⋯⋯うん」


 病室には僕の父親が見舞いに来ていた。


「⋯⋯母さんもだんだんと回復してきている」


 父親は僕の事を気遣ってか話しずらそうにしている。


 病室の窓からはゆっくりと上から下へと降りていく雪が見える。白く、冷たい雪は地面に降り積もり、世界の色を変えていく。



「⋯⋯父さん、もう行くな」


 視線を父親に戻す。その表情には一種の優しさが感じられた。


「うん、ありがとう」


 そう言って父親を見送った。


 父親と入れ替わるようにして愛夢が部屋に入ってくる。



「早かったね」


 彼女は少し困った顔になる。


「うん。でも、楽しかった」


「私もだよ」


 その日も彼女はいつも通りだった。





 ♦♦♦


 私が最初に目を覚ましたのはもう随分と前の事だった。


 長い、長い眠りから目覚めた私は病室を飛び出して病院の中を走り回った。


 そのまま建物から出てはしゃいで巨大な樹木の下で踊って回った。



 なぜ、私が目覚める事が出来たのか理由はわからない。でも、楽しかった。それだけで良かった。理由などなくても良かったのだ。


 無邪気にはしゃぐ私が誰にも認識されないと知ったのは数日後の事だった。


 病院の中で看護師さんに話しかけたが、無視された。他の人にも話しかけた。


 それでも、誰も話してくれなかった。


 そんな時、懐かしい2人の姿を見つけた。

 お父さんとお母さんに走り寄る。


 だけど、お父さんとお母さんにも声は届かなかった。


 その時、私は初めて自分が独りだと知った。


 それから色んな事を試している内に自分が物にも触れないことに気付いた。人にも触れる事が出来ない。


 誰とも話せず、触れず、見られない。



 私は寂しさに耐える事が出来ず、1人で泣いた。

 毎日、泣き叫んだ。


 お父さんとお母さんも私に気付かない。


 泣いて泣いて泣き叫んだ。それでも、私に駆け寄ってくれる人は1人もいなかった。


 そうして数年が経った。食事も取らず、寝ることも無く生きていける身体は何故か成長し続けた。


 体の本体が少しずつ成長しているからだろうか?同じように私の身長も増えていった。


 私が霊的存在であるという事はきっと自分が死ぬまでずっと孤独なのだろうと、そう思った。



 そう思うと、病院の敷地内にたった1本生える樹木に心を奪われた。


 自分と同じように孤独なのだと思った。周りを芝生に囲まれて、そこに力強く聳える樹木に勇気と力を貰った。


 独りでも生きていこうとそう思えた。


 だが、それは長くは続かなかった。

 数年経てば樹木を見ても何も感じ無くなっていた。

 息苦しかった。


 どれだけの月日が経過しても私は常に1人だった。


 街中を歩くと同じくらいの歳の少女たちが学校帰りに数人で楽しそうに歩いている。


 その光景に心をぐっと締め付けられた。


 死ねるなら死にたかった。


 消える方法があるなら消えたかった。



 そんな事は叶わずまた年が変わった。


 年齢を重ねる度に息苦しさが増していった。それでも樹木を眺め続けたのはきっと心のどこかで救いを求めていたからだ。



 生き続ける理由もなく、私は日々を浪費し続けた。


 でも、

 そんな私を見つけてくれた人がいた。

 私に手を差し伸べてくれた。

 私に話しかけてくれた。


 その日、私は心から救われた。



 彼が病気だと知ったのは直ぐの事だった。心臓の病気らしい。


 それでも、唯一私を認識出来る彼と一緒にいる時間が楽しかった。


 嬉しかった

 幸せだった




 ずっと一緒に生きたい。でも、きっと私の秘密を知ったら彼は離れて行くと思うと苦しかった。



 怖かった。



 それでも、彼は私と一緒に歩いてくれた。支えてくれた。私と生きる事を選んでくれた。



 傍に居てくれた。



 私が霊体だと知っても彼は変わらずに接してくれた。


 その気持ちは―――――恋だった。


 初めての恋に胸が苦しかった。それでも、満ち足りていた。


 私の夢を、叶えてくれた。


 そして、家族に私の想いを伝えるという最後の夢を叶えてくれた。


 彼と共に過ごした時間は私にとってかけがえのない宝物(おくりもの)だった。





 ♦♦♦



「⋯⋯もう日付が変わるね」


「⋯⋯うん」



 いつの間にか、窓の外は真っ暗になっていた。


 ⋯⋯本当は君に生きていて欲しい、とその言葉は口に出せなかった。



「⋯⋯私の夢は全部叶っちゃったね」


「⋯⋯え?」


「君からの最高の贈り物だよ」


「⋯⋯そんな、僕も君に沢山のものを貰った」


 彼女の笑顔に笑顔で答える。



「少し、寒いね」


「⋯⋯え?」


「ううん。なんでもない」


 愛夢は笑って誤魔化そうとした。



「⋯⋯寒いよね」


 そう言って僕は彼女の身体を抱き寄せた。


「ひっ」と驚いた声を上げた彼女に構う事なく力強く抱き締める。


「⋯⋯ど、どうして」


 途端に彼女は涙を零した。


「⋯⋯っ、わざとらしいんだよ」


 嗚咽混じりにそれでも、笑顔で答える。

 彼女の体温は暖かい。冬の寒さをかき消す程に。気が付けば互いの鼻が触れ合う程に近付いていた。


「⋯⋯最後に、もう一つだけ叶えて貰ってもいいかな?」


 互いの息がかかる距離で彼女は恥ずかしそうに笑った。


「⋯⋯うん」


 彼女の両手が僕の頬を包み込んだ。

 彼女の意図を察する。


 そして互いに目を閉じて、更に顔を近付け⋯⋯


 唇を重ねる。



 幸福に包まれて互いに溶け合う。


 甘い時間は過ぎ去り、互いの顔が少しだけ離れた。それから、互いに力強く抱擁した。抱きしめ合う。


 それから、最後の言葉を口にする



「⋯⋯大好き」


『愛してる』












 ♦




 手術は成功した。目を覚ました後なんとも言えない虚無感に襲われ、一晩中涙を零した。



 もう、彼女はこの世にいないのだと


 僕の胸の中で動き続ける心臓は僕のものではない






 それから


 ――――春の季節が訪れた。



 彼女の遺影に手を合わせる。


「毎日ありがとう」


 そう言われて彼女の母親に見送られて家を出る。


「いえ、お邪魔しました」


「いつでも来てくださいね」


「はい」



 彼女の家を後にして寄り道をしながら駅に向かった。


 まだ、肌寒い風が時折吹いている。


 彼女と共に歩いた道を1人で歩く。思い出される幸せの日々。



 駅に着く頃には昼になっていた。



「れーじ、遅いぞ!」


 そう言って僕を小突くのは友達A。


「ごめん、待った?」


「めっちゃ待った⋯⋯冗談だけど」


「嘘かよ」


「嘘じゃないって、冗談だ!」


「じゃあ、行こうか」


「ああ」


 僕たち2人は歩き出した。





 彼女からの贈り物をその胸に



âmeアーム

とはフランス語で魂や霊魂といった意味があります。だから愛夢


霊視から玲治


2人の名前はそんな意味から付けました。


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