27.諦めた先にあったもの
聞いたことのない音がした。地の底から何かが這い出てくるような不穏な音だ。一瞬、それが僕の体から出てきたものだと気づかないほどだった。
窓の無い部屋だが、少し前に前の牢屋に食事が運ばれているのを見て夜が明けたことに気づいた。僕には食事は無く、ずっと丸太に縛られて立たされている。立ちっぱなしではほとんど眠ることもできなかったので、体は限界まで疲弊していた。これほど疲れたのは生まれて初めてだった。
前の牢屋に入れられている人は、運ばれた朝食をもさもさと無言で食べている。長い金髪の女性だった。顔から生気がほとんど感じられない。長い間入れられていたのか、服も体も汚れている。食事は与えられているようだが、かなり疲弊しているようだった。
女性はパンを一つだけ残して食事を終わらせると、あとで食べるつもりなのだろうか、パンを服の中に入れた。その数分後に部屋の中に鬼人が一人入って来て女性の方を見た。
「両手を出せ」
女性は立ち上がって檻に近づいて両手を出す。鬼人はその両手を縄で縛ってから牢屋の鍵を開けた。
鬼人は縄を引いて牢屋から女性を出す。すると女性は僕の前を通るときに躓いて倒れた。「早く起きろ」と鬼人が急かし、女性が立ちあがるのを見ると視線を扉の方に向ける。
その瞬間、女性は服の中に手を入れてパンを取り出す。それを僕の口に押し付けてきた。咄嗟に咥えると女性はすぐに手を離して扉に向かって進む。鬼人は先に部屋を出ており、女性の行動に気づかなかった。
パンをくれたことにお礼を言いたかったが口は開けない。そもそも何か言うと鬼人に気づかれるのでお礼を言うことは無理だ。
感謝の意を伝えられないまま女性の背中を見る。その視線に気づいたのか、女性が僕の方を振り向きニコリと笑った。
先程までは病気にかかったかのような顔をしていた。だがその表情を見て、胸の奥が温かくなった。
それはかつて、ウィストが見せたのと同じような笑顔だった。
一時間ほどして女性が、さっきの鬼人とギンと共に帰って来る。体を洗ったのか女性は小綺麗になっていた。
鬼人が牢屋に女性を入れると、ギンと鬼人が僕の方に近づいて来る。
「大人しくしろよ」
二人がかりで丸太と一緒に縛られていた縄を解き、同時に僕の両手を新たな縄で縛る。そのまま縄で引かれて部屋から連れ出された。
「ヴィック!」
「おい! そいつをどこに連れてくつもりだ!」
部屋を出た直後、ウィストとその向かい側の牢屋に入れられていたユウが声を張り上げる。だがギン達は気にする様子もなくそのまま僕を連れて行く。
「ちょっと待ってよ! ……ヴィック!」
またウィストが声を上げる。僕は彼女に振り向いた。
「大丈夫。僕は……大丈夫だから」
これから何が行われるのかと考えると、とてもじゃないが平静でいられない。けどウィストに心配させたくない一心で強がった。
もしかしたらこれが最後かもしれない。ならば最後くらいは、弱くない姿を見せたかった。
一階に上り、建物を出て、村の方まで連れられる。すれ違う鬼人達は興味津々で僕に目を向ける。見世物にされているような気分だ。
しばらく歩くと広場のような場所に出て、そこには大勢の鬼人が集まっている。ギンが言っていた儀式に必要なのか、広場には木の柵が円を描くように並べられており、一部分だけ開閉できるようになっている。その近くには櫓が建てられており、立ち見台が並んでいる。鬼人達はその柵の中に入らず、立ち見台に立ったり、櫓から見下ろしたりしている。まるでこれから柵の中で行われることを見物するかのような……。
「お、来やがったな」
「せいぜい頑張れよ」
「早くくたばったらつまんねえから、少しは楽しませろよな」
嘲笑の言葉を鬼人達が投げかける。彼らを避けつつ柵に進み、出入り口から柵の中に入る。中央付近まで歩かされると、やっと僕の縄を解いてくれた。
「これから何が行われるんだ」
「見世物だよ」
「違う。試練だ」
鬼人の言葉をギンが訂正する。鬼人はへらへらと笑っていた。
「そりゃあいつらにとってでしょ。こいつからすれば見世物に使われるって言った方が正しいでしょ」
「武器を持ってこい」
鬼人は何か言いたそうだったが、ギンに睨まれると黙って離れていく。
「今夜、儀式を行う。だが集められた獲物よりも強食を希望する鬼人の方が一人多かった。その最後の一人を決めるためにお前を使う」
「そいつらと戦わせるのか」
「そうだ。だが戦うというよりは、狩らせると言った方が正しいかもな」
さっきの鬼人が盾と剣を持って帰って来る。だが僕が持っていた物ではない。ぼろい木の盾と、刃が欠けている剣だ。
「二人の鬼人が同時にお前を狙う。先にお前を討ち取った方が儀式に参加できる。お前は適当に戦えばいい」
「……僕が勝ったらどうするんだ?」
「心配するな。そんなことは万が一にもあり得ない。あいつらはゼツほどじゃないが強い戦士だ。二人がかりでやっとゼツを倒せたお前が、たとえ万全だったとしても勝てることはない」
慣れない武器、万全には程遠い体調。今の僕は本来の実力が発揮できない状態だった。その状況で鬼人を二人相手にして勝てるだろうか。
厳しい。よく考えなくても分かった。
「もうお前ができることは、楽に死ねることを祈るくらいだ」
鬼人が装備を置くと同時に、ギンはその場から離れていった。
周りを見ると、別方向の出入り口には既に武器を持った鬼人が二人準備している。ギン達が出たらすぐに始めるのだろう。柵の近くには見物人が集まっている。どっちが先に僕を討ち取れるか、その光景を見ようと興奮しているようだ。一部だけ柵の近くに人が居ない区域がある。その先には台座があり、その上には三人の鬼人がいた。偉そうに椅子に座っている鬼人がおり、両脇には強そうな鬼人二人が立っている。おそらく真ん中の鬼人が族長なのだろう。とても強そうに見えた。
周囲をひと通り見渡してから、自分自身に驚いた。死ぬかもしれないのに、落ち着いて周りを見る余裕がある。なぜだろう。勝てると思っているからなのか。
……いや、違う。多分、もう諦めてるんだろう。
逆転できる要因が無く、出来てもここから逃げることも不可能で、奇跡が起きて逃げれたとしてもウィストを助けることも出来そうにない。つまりどう考えても、僕が望んだ未来につながりそうにないのだ。
ここまで必死になって頑張った。血反吐を吐くくらいの努力をして強くなって、生き延びるために死力を尽くしてきた。それで何とか生きてこれた。だがここで終わるのかと理解して、希望が無くなったと知って悟ったのだ。
もう、頑張らなくていいんだと。
そう考えると思考に余裕ができた。緊張が解けて身体から余分な力が抜ける。ウィストに追いつくというプレッシャーから解放された今、精神状態は過去最高かもしれない。今まで拒んできた死の未来が僕を安心させていると思うと少し笑えた。
じゃあ生を諦めた僕は何をすればいいのか?
ギン達が柵の外に出て、同時に挑戦者の二人の鬼人が向かってくる。一人は僕よりも背が高く体格が良い。右手に盾を、左手に棍棒を持っている。もう一人は僕と同じくらいの身長で、両手に短剣を逆手に握っている。同時に入って来たのに、もう一人を置き去りにするほど脚が速かった。
先に向かってくる鬼人の表情には余裕がある。僕に倒されるとは思っておらず、競争相手より先に出れたことですでに勝ちを意識しているかもしれない。そういう奴に倒されるのは不愉快だ。
ならば最後は、こいつらに悔しい顔をさせてやろう。
小さい方の鬼人が短剣を振るう。僕はそれを盾で弾き返した後、体勢を崩した鬼人に剣を振り下ろす。寸前で避けられたが、鬼人の顔から余裕が消えた。
小さい鬼人が再び向かってくる。今度は右に回り込んできて短剣を振るう。盾で受けたと思うと、すぐに次の攻撃が来る。両手に武器を持っているため、連続した攻撃が厄介だった。
反撃の隙を見いだせずにいると、大きい方の鬼人が近くまで来ていた。そいつは僕の近くで足を止めると、一歩近づいて棍棒を振るう。速度は速くない。高回避した後の風圧から、一撃でもまとも喰らえば致命傷になることを感じ取った。
二対一。数的不利な状況で戦ったことは何度もある。だが以前と違って、異なった戦い方の敵が相手だということだ。今までの敵は同種のモンスターがほとんどだった。人相手のときもたいして戦い方が変わらない奴らが相手だった。だが今回はまるで戦い方が違う奴らだ。力で押してくる鬼人と速さを活かす鬼人。一人だけでも厄介なのに、同時に相手をして勝たなきゃいけないとなるとほぼ無理だ。
……いや、待て。何か勘違いをしてないか。
思考が混乱してしまい、落ち着くために距離を取った。相手は格上二人。しかも勝っても命の保障はない。だから助かることを諦めて最後にあがこうと決めた筈だ。なのになぜ無事に勝つことにこだわるんだ。
開き直れ。どうせ散る命だ。最後は使い潰してやれ。もう我慢する必要は無いんだから。
二人が接近してくる前に距離を詰める。小さい方に剣を突き出し、避けられた後も距離を詰めて再び突く。今度は右に避けられたが、すぐに距離を詰めて剣を振るう。その間に大きい方に近づかれる。棍棒を振り下ろされる直前、さらに距離を詰めて剣を突き出す。大きい方はすぐに反応して距離を取り、入れ替わるようにして小さい方が接近して来る。短剣を振るってきたが、弾くようにして短剣ごと盾で殴り飛ばして体勢を崩させる。その隙に剣を突き出したが、すぐに躱されて僅かに服を切っただけだった。
防御を考えない捨て身の攻撃。二人はそれを嫌がっていた。よく考えれば、勝った方はすぐに儀式に出るんだ。勝っても怪我をすれば儀式に出られない。だから僕の無茶な攻撃に付き合えず慎重になっている。
もしこれが普通の試合だったら、多少のリスクを負ってでも反撃しに来たかもしれない。だがこの後のことを考えているため鬼人の動きに迷いがある。手負いの獣は危険だと言うが、獣側になってその理由がよく理解できた。
これならば、こいつらに目にもの見せてやれる。そう思うと頬が緩んだ。
「調子に乗るなよ」
小さい方がぼそりと言い、大きい方が強く僕を睨む。そして二人が一瞬だけ目を合わせた。
嫌な予感がした。それを感じた後、大きい方が近づいてきて棍棒を振るう。小さく振って、当てることを意識した動きだ。後退して避けると、その先には小さい方が回り込んでいた。そいつはすぐに短剣を振るってくる。盾で受け止めると、その間に大きい方が近づいてきて棍棒を振るう。それを避けるとまた避けた先に小さい方が追撃してきた。
コンビネーション。競争相手であるはずの二人が協力して僕を討ち取ろうとしていた。
二人がばらばらだったら勝機はあった。だが協力されたら無理だ。お互いの動きを補い合って隙を潰されたら、例え捨て身であっても対応される。
ここまでか……。
最後のしょうもない願いすら叶わない。それが分かると不意に集中力が切れる。目の前に迫る棍棒に反応が遅れた。反射的に盾で受けたが、その一撃の重さに盾ごと殴り飛ばされる。そして体勢を崩した直後、小さい方が迫って来て短剣を振るう。避けきれずに横っ腹を切り裂かれた。剣を振るって小さい方を退かせるが、それはほんの少しに時間稼ぎにしかならなかった。
盾を持つ腕が上がらない。傷の痛みのせいで足が動かない。この状態では、時間を稼いでも勝ちを見いだせなかった。
いっそ自殺でもして試練を台無しにしてやろうか。そんなくだらないことを考えていたときだった。
「止めろ!」
大きな声が響き渡った。その声に接近しようとしていた二人が足を止める。二人だけではなく、周囲の鬼人も声がした方を見た。その声は台座のある方から聞こえた。
続けて、同じ声がまた響く。
「その人間の血を止めろ!」
それは鬼人族の族長の声だった。
「え、しかし……」
傍に仕えていた鬼人が狼狽える。他の鬼人達も動揺しているのか、混乱して動けないようだった。
「良いから早くしろ! 奴の血を止めないと―――」
地が揺れるほどの音が響いた。




