21.赤い眼
真っ暗な世界だった。明かりが全くない空間に僕は横たわっていて、生暖かい空気が肌に触れていた。
景色は全く見えない。だがこの状況が異常であるということと、ここには僕以外の誰かが居るということは分かる。
なぜなら、さっきから強烈な視線と生気を周囲から感じていたからだ。
「だれかいるの?」
立ち上がって声を掛ける。反応は無い。気のせいかと思いたかったが、じっと見られている感覚と吐息のような空気がそれを否定する。
身体を舐め回すような不快な視線。四方八方からの強い圧迫感。何も見えないのに窮屈な空間にいるような気分だ。
ここから去りたい。そう思い至って歩き出す。少しでもこの嫌な場所から離れたかった。
それが無理だと気づいたのはすぐだった。
歩いて間もないうちに壁に阻まれる。大きくて分厚く、やや丸みを帯びている壁だ。触れると少し暖かくて鱗のような肌触りだ。まるで生き物のような……。
嫌な予感が頭をよぎる。振り向いて別方向に歩き出すと、また同じような壁に阻まれる。再び方向を変えて歩くと同じ壁にぶち当たる。次も、そのまた次も同じだった。
何度も繰り返すとさすがに気づく。次に気づいたのは、じゃあどこから僕を見ていたのかということ。その答えに気づいたのは消去法だった。左右前後に壁があるのなら残る方向は一つだけ。
覚悟を決めて視線を上に向ける。当たって欲しくなかったが、予想通りの展開に息を呑む。
頭上には大きな赤い眼が、暗闇で星のように浮かんでいた。
ヒトの体以上の大きさの眼球で縦に長い瞳孔。明らかに人間のものではなく、今まで見たモンスターのなかにもいなかった。だがその規格外の大きさから、一つだけ心当たりがあった。
気になるのはただ一点。なぜそれが、僕の前に現れたのかということだ。
「―――」
それはじっと僕を見つめている。僕の一挙手一投足に反応するかのように目を離さない。まるで観察しているかのように。
気持ち悪い視線から逃げ出したい。だがそれに囲まれているせいで逃げ道が無い。
「―――ぃ」
蛇に睨まれた蛙のように、僕は動けない。今まで感じたことのない異質な存在感を前に、脳が命令を出すことをやめている。
「―――い!」
何もされないことをただ祈るしかない。
「おい! いい加減に起きろ!」
声に気づいたのは、全てを諦めたときだった。
ごあごあとした毛皮が肌に触れた。動くたびにチクチクと毛が顔に刺さり、それがちょっと鬱陶しい。
体を起こして見回すと洞窟らしい場所に居て、目の前にはユウが立っている。少し離れた場所ではシオリが焚火の前で料理を作っている。
そして僕の後ろにはルベイガンが横たわっていた。
「やっと起きたか」
ルベイガンがじっと僕を見る。獲物や敵を見るような眼ではない。僕を心配するかのような慈しみを感じた気がした。
さっきのは夢だったのか。それにしても異常に生々しかった。あそこまで恐怖を感じた夢は初めてだ。
恐怖から解放されて安堵の息を吐く。一方で、ユウの表情は険しかった。
「血ぃ吸われただけで夕方まで寝やがって! なっさけねぇなぁ!」
「……夕方?」
外を見ると空が夕焼け色に染まっている。随分と長い間寝てしまっていたようだ。今日中に村の近くまで行く予定だったのだから、ユウが怒るのも無理はない。
「ごめん。僕のせいで予定が遅れちゃったんだね」
「いえ。予定通り村の近くまで来てます。ドーラさんが運んでくださったので」
シオリがルベイガンに視線を向ける。このルベイガンはドーラという名前らしい。
「まぁ責任の一端は吾輩にもあるからな。これくらいかまわない」
ふんと鼻を鳴らしながら言う。責任を感じている態度には見えないが、ここまで運んでくれたのはありがたいので素直に感謝した。
「ありがとう。助かったよ」
「そうか。では……」
ドーラは立ち上がると、近くに置かれていた大きな布を自分の体にかける。すると体が変化し始め、さっきと同じ人の姿になった。
赤と黒が混じった長髪と黒い瞳の猫目と長い八重歯から、元の体の特徴を引き継いでいる。予想外なのは豊満な胸と尻で、それが女性であることを強く印象付ける。以前までの印象から、女性だとは全く思わなかった。
「食事としようか。元の体では人間の料理は食べにくいからな」
ドーラはシオリが用意したスープを受け取って食べ始める。匙を使う手つきは人と同じくらい上手で慣れている様子だった。
ヒトの体に変身するモンスター。その能力からどうして上手なのかは想像できた。
「普段から街に行ってるのか」
「まぁな」
隠す素振りは微塵もない。ドーラは堂々と肯定した。
「人肉も美味いが、人間が作る料理の方が吾輩は好みだ。美味いうえに想像もしない料理が出てくるのが楽しくてたまらん」
「ヒトを食ったことがあるのか」
「あぁ」
ヒトを前にして、悪びれる様子は全くなかった。
「人間を食って、人間の物を奪って、人間の料理を食べに行く。吾輩は貴様ら人間のお陰で楽しんでおる。だから吾輩は人間が大好きだ」
「好きなのにヒトを襲うのか」
「貴様らも自分達の生活のためにモンスターを狩っているだろ。金を稼ぐために、食べるために、自分達を守るために。それと何が違う」
もっともな理屈に反論できない。だが釈然としないのは僕がヒトだからだろうか。見ず知らずの他人とはいえ、ヒトが襲われるのは嫌だ。
「だがここ数年は人間を食えてないがな。というより食えなくなってる。人間に変身できるようになったせいだろう。昔よりも人間を見ても食欲が湧かないからな」
「……獅子族は人間に化けれるのか?」
「吾輩が人間になれるのは、人間を強食したからだ。強食が成功すれば力だけではなく知能と、稀に同族に変身できる能力を得られる。元からなれるわけではない」
「全員がなれるわけではないのか」
「最初から人間になれるモンスターもいるらしいが、獅子族はそうだ。吾輩は運が良かったということだ」
ドーラはスープを平らげた器を地面に置くと、「さて」と言って立ち上がる。
「吾輩はそろそろ行く。飯も食ったし、この後も予定があるからな」
ドーラが洞窟の出口に向かって歩き出す。
「待って。まだ聞きたいことがある」
「また今度、生きて出会えたら答えてやるよ」
「その予定って、ソランさんのことか」
「そうだ」
ドーラは誤魔化さずに答えた。
「あいつが連れてくる連中と同時に村に行くつもりだからな。あいつらの動向を見張らなければならない。面倒臭いがな」
「なんでドーラはソランさんと協力しているんだ。何が目的なんだ」
「それは口止めされているから言わん。だが貴様は相棒を助けに行くんだろ?」
僕が頷くと、ドーラは「だったら」と言葉を繋いだ。
「そのときに分かる。せいぜい死なないように気を付けろ」
ドーラは洞窟から出るとルベイガンの姿に戻って走り出し、あっという間にその姿は見えなくなった。
「やっと邪魔者はいなくなったか」
ユウが洞窟の中に戻って来る。そしてシオリからスープを受け取るとすぐに食べだした。
「これを食ったら早速動くぞ。お前も早く食え」
「行くって、どこに?」
「決まってんだろ。鬼人族の村だ。すぐそこにあるんだぜ。しかももう夜になる」
ユウはニヤリと笑みを浮かべた。
「実行は明日だ。その前に偵察に行くぞ」




