30.英雄の影
モンスターによって村や町が滅ぼされることは珍しいことではない。小さな村には冒険者が居ないことが珍しくなく、それなりに人が住んでいる町でも上級モンスターによって壊滅することはある。王都であるマイルスもその危機に曝されたことはあった。
だがそれでもエルガルドだけは大丈夫だという安心感を住民は持っていた。モンスターの襲撃に備えた防壁や兵器、戦闘を支える豊富な物資、そしてモンスターとの戦いに熟知した冒険者達。戦闘に対する十分すぎるほどの備えがエルガルドにはあった。だからこそ、エルガルドの住民は安心して生活していた。エルガルドに居ればモンスターに襲われない、死ぬことは無い、と。
しかしこの日、それが無くなろうとしていた。
「おい、なんだあれ……」
大きな声が響いた後、外地にいた人々はその声の主を見つける。それは外地の住宅街にいた。
城壁に届きそうなほどの巨体の真っ黒な体。凶悪で殺意がのった声。遠く離れた地にまで届く邪悪な空気。そして物語に出てくる龍の姿。
安全な町に住んでいるとはいえ、住民の中にはモンスターを見たことがある者はいる。それは他の街に行くときだったり、冒険者が連れてきたモンスターをだったり、闘技場だったりと。だがそれらはすべて安全圏にいるときにしか目撃したことは無った。命の保障がある場所でしか見たことはなく、冒険者の街に居ながらどこか別世界の生物のように思っていた。
それ故に、彼らは平常心を保てなかった。自分達の方に向かってくる邪龍体に、死の恐怖に。
「モンスターだ!」
「逃げろ! 早く内地に!!」
「おい邪魔をするな! さっさとどけ!」
邪龍体を見かけた人達がパニックになる。みな我先にと内地へを走り出し助かろうとする。他人を押しのけて、安全な場所へと向かっている。そこに気遣いや思いやりの心などなかった。
人々が慌てて内地へと向かうなか、邪龍体が彼らの方を向いて大きく息を吸い、吸った息を全部吐き出すほどの勢いで叫んだ。
「グオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
全ての憎しみをぶつけるかのような声だった。
見たことのない景色だった。
遥か高い視点から邪龍体は人々を見下ろしていた。逃げ惑う人々、恐怖で動けなくなる人々、そして邪龍体に立ち向かおうとする人々。いろんな人間の姿が眼に映る。そしてそれらすべてが邪龍体に同じ眼を向けていた。
恐怖。人間だった時には誰もそんな眼で見られたことは無かった。蔑み、怒り、憐れみの視線を送られたことはあっても、恐れられることは一切なかった。
本来ならばそんな風に思われることは歓迎すべきことではないのだろう。恐れられて得することなんてない。好かれることで、迎合されることで生きることが出来る。そんな生活をしていた。否、そういう風に振舞わなければ生きられなかった。
だが今は、そんな風に思われたいとは考えない。むしろ今の方が楽しかった。
恐れられるということは自分の方が強く、相手を支配できる力があるということだ。だから人々は強者にこびへつらい、弱者に強くあたる。強者に支配されないために、弱者を支配するために。
邪龍体は今初めて支配する側に立った。しかも世界で一番の支配者になった。それは今までの人生で全く考えられなかったことだ。その事実に言葉にできないほどの快感を得ていた。
だからそれを邪魔する者には一切容赦するつもりは無かった。
少し離れた場所に冒険者達がいる。邪龍体はそこに向かって口を向ける。体中から力が集まり、口の前に黒い光となって具現化する。そして十分な大きさになったところで、それを冒険者達の方に向けて発射した。
黒い光の塊は冒険者達にぶつかると大きな音を出して爆発する。周囲の建物や、近くにいた人々も吹き飛んでいく。爆発と同時に発生した土埃が晴れたとき、そこにあった物を全て消し飛ばしていた。
こんな力、人間だった時にはなかった。それどころかすべての生物が持っていないだろう。その事実にまた強い快感が生まれる。
だが、足りない。まだ物足りない。
今まで受けた仕打ちはこんなものでは晴れない。今まで受けてきた痛みはこの程度じゃない。今まで溜めてきた憎しみをまだ発散できていない。
もっとだ。もっと暴れたい。もっと壊しまくって、あいつらに目にものを見せてやりたい。そして後悔させてやる。僕達を虐げてきたことを。僕達を見捨てたことを。
妹を、あんな目に遭わせたことを。
遠くで大きな声が聞こえる。先程聞いた声と似ているが迫力が違う。声がした方を見ると、さっきよりも比べ物にならないほど体が大きくなっていた。
起き上がろうと体を動かすと全身に痛みが走る。あまりの激痛に声すら出ない。痛みのせいで上手く体が動かせない。
だがそれでも、行かなきゃいけなかった。
「行かなきゃ……僕が倒さないと……」
油断は無かった。今度こそちゃんと仕留める気で立ち向かった。強敵であることを認識したうえで挑んだ。それでも足を止めてしまった。怖気づいてしまった。その隙を突かれて負けてしまった。
失態ではない。明確な力の差があったのだ。大番狂わせではない順当な結果であった。
邪龍体は集まっていた眷属を全て食べてしまった。眷属を食すことで邪龍体は巨大化し、邪龍の姿になっていた。体格は邪龍よりも小さいが、身に纏う邪悪な空気は遜色がない。僕が一度倒したときよりも、鬼人の村で会った邪龍に近づいていた。
あの邪龍体は、もう僕一人でどうにかできるレベルではない。怪我をした僕が挑んでも何もできないほどにまで成長している。再び立ち向かっても勝てる保証はない。
しかしここで逃げるわけにはいかないのだ。
このままだとあの邪龍体はさらに育ち、邪龍になってしまう。そうなれば討伐することは難しくなる。それどころかエルガルドだけじゃなくいくつもの村や町が滅ぶことになるだろう。だからこそ邪龍になる前に倒さなければいけない。
あの邪龍体は、皆で協力して戦わなければ勝てない。ならばここでじっとして助けを待つことはできない。戦えなくても、皆を支えることはできる。ここは冒険者の街だ。皆と協力すればあの邪龍体にも勝てるはずだ。
痛みに耐えながら必死に立ち上がり、邪龍体がいる方に歩き出す。一歩進むたびに体に激痛が走る。道も荒れているため歩きにくい。こけないように神経を使いながら足を動かした。
一歩一歩慎重に歩を進める。他の冒険者と合流するのにどれくらいかかるだろう。それほどまでに遅々とした歩みだった。
徐々に痛みも悪化し始める。歩き始めたときよりも痛みが増している気がした。動くことよりも痛みに耐えることに意識を割くようになった。そのせいで道の状態にも眼を配る余裕がなくなり、足元の瓦礫を見落としてしまった。
「ぐあぁっ……!」
前のめりになって地面に倒れ、更なる激痛を喰らう。体だけではなく精神も痛めつけるほどだ。心がへし折れてしまうほどの衝撃だった。
痛い。苦しい。このまま倒れていたい。誰かに任せたい。現場は一人でも人手が必要なはずなのに、そんな風に思ってしまった。
だがそんなこと言ってる場合じゃない。すぐにでも行かないと、皆を助けに行かないと、街が、国が滅んでしまう。
誰かが助けてくれるなんて思ってはいけない。僕が、自分達が動かなければ助からない。他の人に頼っても何も解決しない。
もうソランさんは、英雄はいないのだから。
「大丈夫だよ、ヴィック」
いつの間にか、誰かが近くに来ていた。それはとても聞き慣れた声で、とても優しい声だった。
「ヴィックはよく頑張った。もう無理しなくてもいい。休んでていいよ」
彼女はしゃがみ込んで僕の背中に手を置いた。装備を付けているはずなのに、その手から温もりを感じていた。
そして彼女は歩き出し、僕の前に出た。
「あとは私に任せてよ」
ウィストは立ち上がり、邪龍体に向かって歩き出す。彼女の背中を見て、僕は思い出していた。
邪龍に立ち向かっていった、英雄の姿を。




