松賀騒動異聞 第十八章 完結
第十八章
ふと、雅子さんが真剣な顔になって、私に言った。
映画はお好き?
ええ、好きです、と言うと、雅子さんは少し安心したような表情をした。
そして、いわき駅前の映画館で今評判の映画が上映されている、と言い、一緒に観に行きませんか、と私を誘った。
私は少しどぎまぎした。
実際、このような、女性からの誘いには慣れていなかったからである。
以前の私ならば、即座に、丁重に断っていたかも知れない。
が、その時の私は、自分でも後から思うと妙なことではあったが、妙に素直な気持ちであった。
思わず、ああ、いいですね、僕も観に行きたいと思っていた映画ですから、と言ってしまった。
言ってしまってから、私自身がそんな自分にびっくりした。
雅子さんは嬉しそうな顔をした。
正直なところを言えば、私も何だか嬉しい、そんな気持ちであった。
『アクアマリンふくしま』という名前の水族館が私が住んでいる町にある。
午後の太陽が正面の空にあり、眩しく私の眼を幻惑していた。
眼下には、蛇の目ビーチと呼ばれている人口の浜辺があり、きらきらとした水面が揺らめいている。
このビーチには、淡水の池もあり、夏になると、蛙の賑やかな合唱で騒がしいほどであるが、今は冬とて、生き物の気配は無く、葦が水面から細々と伸びているといった光景しか存在していなかった。
正面の海には防波堤が左から右にかけて突き出しており、海面は穏やかではあるが、きらきらと波打ち、太陽の光を一面に反射させている。
遠くの海上には、大きな貨物船がゆっくりと右から左に航行していく。
空には、ぽっかりと白い雲が所々に浮かんでおり、港町ではお決まりの鷗が二、三羽のんびりと舞っている。
視線を右手に移すと、埠頭があり、貨物荷降ろし用のクレーンが四つほど並んでいる。
私は眩しさに眼をしょぼつかせながら、ぼんやりと前方に広がる風景を眺めていた。
二月という季節の中、外は風が吹きすさび、かなり寒いが、この食堂の中は暖かく、睡魔をもたらすほどの温かさであった。
視線を左に移すと、岬が海に突き出しており、マリンタワーという高い展望塔が見えている。
ふと、眠くなった。
私の脇には、雅子さんが居り、柔らかな皮製のクッションに埋もれるようにして、微かな寝息を立てている。
雅子さんの寝顔を横目で見ながら、そろそろ、雅子さんの実家に挨拶に行こうか、と思っていた。
三月初旬
私に新しい旅立ちがやって来た。
地元の大学の教官・臨時講師の口がかかって来たのだ。
私は企業で化学関係の開発業務を担当してきた。
その経験を活かす仕事を紹介されたのである。
小名浜から平に向かう鹿島街道の道すがらにある私立の大学の臨時講師という仕事であった。
以前に登録しておいた、地元の企業支援を旨とするNPO法人から話があった。
企業で通用する実践的な技術関係の仕事の進め方を学生に話して欲しいという依頼であった。
面白いと思い、二つ返事で引き受けた。
週に一回、半年の仕事だった。
なにせ、時間だけはたっぷりあるし、十分な準備も出来る、身過ぎ世過ぎのための仕事でも無い、小泉夫婦もヨーロッパに行ったっきり当分は帰って来ない、一丁やってやるか、という気分になっていた。
四月上旬
初講義の日が来た。
車を走らせながら、私は思った。
歴史は勝者によって書き換えられる。
敗者の歴史は抹殺され、真実は故意に隠蔽される。
御家騒動ではそれが一層顕著になる。
従って、勧善懲悪の話になればなるほど、その話ははなから疑ってかからなければならない。
書いた者の真の意図を見抜かなければならない。
まして、藩主毒殺、御家簒奪・乗っ取りなどという話はその種の御家騒動お伽噺の典型である。
表面的に書かれた内容をそのまま信じ込むのは愚の骨頂であり、阿呆としか言いようが無く、その人が歴史を研究する者であれば、それは自殺行為としか言いようが無い。
どういう意図を持って話されるのか、或いは、書かれているのか、より深層に入って考える必要がある。
沢村勘兵衛事件では、功績を嫉む者による讒言ということを私は強く意識した。
当初の伝説では、勘兵衛は自分の俸禄三百石を工事の費用に充て、工事完成後、藩の許しを得ずに除地五石を寄進したという罪によって切腹したということになっていたが、これは藩主忠興の書簡が発見されたことにより、伝説に過ぎないということが判明した。
そして、部下の失敗の責任を取らされたとか、検地の失敗の責任を取らされたとか、云ったような理由で忠興は扶持放し(解雇)を決め、その後切腹して果てたということであるが、藩主忠興に勘兵衛の落ち度をことさらに大きく話した者は居ただろうし、勘兵衛のために敢えて弁護する者も居なかったのであろう。
讒言とまでは行かないにしても、勘兵衛の功績を嫉妬した者は多かったのであろう。
人間というものはそんなものである。
但し、勘兵衛の功績を正しく評価した者たちは確かに居た。
その者たちが勘兵衛伝説を作り、沢村神社を作ったのだ。
抑圧されている者は常に『義』に敏感であり、彼らは沢村勘兵衛という侍に『義』を感じたのである。
切腹に至った理由は何であれ、『義』を感じさせない者に美談伝説は生まれないし、残らない。
浅香十郎左衛門事件及び小姓騒動に関しては松賀族之助を悪人に仕立て上げるための捏造事件であり、本質は松賀族之助たち新参の者たちに仕掛けた三河以来の家を誇る譜代家臣の若者たちによるクーデター事件であったと私は考える。
このクーデターに関しては、双方で多くの犠牲者を出したが、結果的には藩主の信頼を得ている松賀族之助たちが譜代家臣たちの反乱を抑えて収束した。
しかし、四十年後に起こった松賀騒動では、藩主の父を後ろ盾とした譜代家臣たち守旧派が松賀族之助亡き後の藩政改革派をクーデターによって打倒し、松賀・島田派を藩内から一掃した。
但し、守旧派はその後二十年にわたり、藩政改革をなおざりにし、領民に苛税を敷き続けた結果、領民二万数千人が蜂起した元文百姓一揆を起こし、十年を経ずして、国替えとなり、磐城の地を去ることとなった。
藩政改革に目を背け、年貢徴収を主体にした藩守旧派の政治の限界であり、失政と言わざるを得ない。
政治家不在・官僚主導の結果である。
本来、官僚と政治家は鋭く対立しなければならない。
官僚は為政者の意向に沿って粛々と表面的な実務を行う集団であり、根源的な解決を模索し目指す理念的存在である政治家とは本来相容れず対立する存在同士である。
勿論、取りうる手法も大いに異なってくる。
人民の、人民による、人民のための政治と、官僚の、官僚による、官僚のための行政は永遠に対立する存在である。
官僚を上手に使うと豪語する政治家は、或る時、気付いて愕然とするはずだ。
官僚に上手に使われている自分を発見して。
天下り・渡りを是認する者に義は無い。
知らなければ仕方が無いが、知ってしまった以上は改めるよう求めなければならない。
隗より始めよ、と藩政改革を志向した松賀正元・伊織父子、島田理助たちは内藤義英・治部左衛門たちによって打ち負かされ、歴史から葬り去られた。
領民の上に立つ為政者としてのノブレス・オブリッジ(高い身分に伴う義務)の意識から、藩士の意識改革から始めようとした者たちの活動は、安楽に慣れた特権階級の者たちに抵抗され、反撥され、挫折せしめられた。
今回、小泉さんと私が研究した松賀騒動は藩政改革を藩士の意識改革から始めようとした急進派が反対派によるクーデターで打ち負かされた事件であったと解釈する方が妥当であるとの結論に達した。
歴史から学ぶ、ということは歴史の愚を繰り返さないということである。
歴史を通して現代を視る、或いは、現代の視点から歴史を視る、再点検するということは双方とも大事なことである。
そうすることにより、歴史的事件の本質が自ずと見えてくる。
当時、困窮した藩の経済を立て直す方向は二つあった。
これは、いつの時代でも同じことである。
支出を減らすことと、収入を増やすこと、この二つの方向しか無い。
極めて、簡単なことだ。
しかし、どちらを優先して取るか。
これがとても大きな選択であり、為政者の志の問題ともなる。
支出を減らす。
具体的には、殿様以下が襟を正し、藩としての支出を削減することだ。
この道を先ず実践しようとした松賀・島田派は敗北させられた。
収入を増やす。
具体的には、苛税を敷き、増税により領民から金を搾り取ることだ。
この道を選択した内藤政樹・治部左衛門たちは全藩一揆を引き起こし、国替えとなった。
松賀騒動の本質は何か、何であったのか、本来はどうすべきであったのか、その結果、どうなっていたのであろうか、後世にはどのような影響を与えられたのであろうか。
歴史にイフ(if)は無いと云われるが、イフを考えてみることも大切なことである。
もし、松賀騒動で松賀・島田派が敗北せずに、初志を貫徹出来ていたら、磐城平藩はどうなっていたであろうか。
敗者の立場・観点から、その歴史を精査し、再検証してみる。
そこから、現代に通じるものを発見し、同じ愚を現代に再現させないよう努めること。
いずれにしても、百姓一揆を誘発した者たちに『義』は無い。
抑圧する者に『義』は無いのだ。
そんなことを呟きながら、私は車を走らせていた。
五月中旬
私たちは鎌倉の光明寺に居た。
今、私は「私たち」という言葉を使った。
いつも使う単数代名詞が複数代名詞になった。
それもなかなか悪くない。
ここには、内藤氏一族の墓所がある。
端のところに二つの小さな墓石がある。
風航院殿原誉祟白和水居士という戒名を持つ墓石と、清明院殿光誉祟順風和信女という戒名を持つ墓石が二つ寄り添うように並んで立っている。
没年は、元禄十五年三月二十二日、宝永二年四月四日と刻まれている。
男が死に、三年後に女が死んでここに葬られている。
松賀族之助と妻が眠っている墓石の前に、私と雅子は佇んだ。
ふと、どこからか、微かな音が聞こえてきた。
風の音らしい。
近くに、松の樹があった。
松籟。
私たちは空を見上げた。
五月の青い空、その空に三つの顔を見たような気がした。
男たちの顔であった。
松籟はまだ聞こえている。
― 完 ―
【参考文献】
磐城騒動記 大場金蔵著
磐城騒動記 神林復所著
磐城史料・歳時民俗記 大須賀筠軒著
磐城古代記 四家文吉著
磐城史料 大須賀筠軒著
磐城文化史 諸根樟一著
岩城史 高萩精玄著
概説 平市史 平市史編集委員会
元文磐城百姓一揆 桜井一平著
内藤侯平藩史料 いわき地方史研究会
福島県史 福島県
磐城平藩政史 鈴木光四郎著
いわきの歴史と観光 平観光協会
いわき市史 いわき市史編纂委員会
譜代藩の研究 明治大学内藤文書研究会
いわきの歴史 いわき地方史研究会
元文義民傳 志賀伝吉著
平藩小姓騒動誌 志賀伝吉著
石城郡町村史 諸根樟一著
石城郡誌 石城郡役所
いわき史料集成 松賀治逆記 いわき史料集成刊行会
磐城平藩松賀騒動の研究 福山大学人間科学センター