邪神狩人(ホラーハンター) ~アクエリアスC事件~
『アクエリアスC事件』
・アクエリアス上空 ヘリコプター機内
「こいつは……また大物だなぁ」
「ええ、本当ですわ。巨大とは聞いていましたけれど、まさか水族館一つを乗っ取るとは流石の私でも予想外ですわ」
ヘリコプターの上から俺と加尾梨綯は眼下に広がる光景に圧倒されていた。
水族館アクエリアス。その名の通り、水瓶座をモチーフとした県最大のアクアリウムは、今や巨大な赤黒い肉塊に浸食されていた。
泡沫の如く膨れた内臓じみた紫や赤黒い肉塊が絶えず脈動し、ソレ自体が恰も一個体の生命であるかのように毒々しく膨張と収縮を繰り返している。
「本当にツイていませんわ。折角ここの一日フリーパス手に入れられた矢先にこれとは」
横で鳶色の制服を着た綯がため息を吐く。折角のデートなのに学生服とは、遊びがないのかそれとも制服自体が遊びがあるのか。
しかし逆に綯の制服姿には慣れきってしまっている所もあるので、違う服を着ればそれはそれで違和感がある。
……まあ、なんだ。あれだ。少なくともいくら似合ってるからと言って、俺が綯と同じ女物の制服を着せられていることよりも幾分かマシなことではある。
本当、なんで俺までこの服着てるんだが……。
俺もため息を吐いて、顔を上げようとしたが、目の前に広がる肉の海のことを思い出し、やめた。
正直なところ、あまりあんなぐろんちょぐろりんなものを見たくない。俺は機内に顔を戻し、目の前に座る神父服を着た長い髪の人影に目を向ける。
視線に気づいたのか、その人影はこちらににっこりと笑いかけた。
「驚いたかい。僕も初めてときは度肝を抜かれたよ。あれが今回君達に打ち斃して貰う相手だ」
肩まであるストレートな黒髪。整った顔立ち。比較的大きく丸い目とかわいらしい鼻。ラインの細い顎。
一見少女にも見えるこのきめ細やかな白い肌の持ち主は、残念ながら一六歳の少年である。
KAWAIIという形容詞の具現の如き少年――Father Nyことナイ神父は、宗教団体『星の智慧派』の教祖である。
人類最高の英才児であり、アメリカ合衆国マサチューセッツ州アーカムにあるミスカトニック大学を13歳という若さで卒業した彼は、その優れた知性と驚くべきカリスマ性を持って、十九世紀末に解体された『星の智慧派』教会を復活させ、教祖の座に着いたのだ。
その正体は這い寄る混沌ナイアルラトホテップ。無貌故に千の貌を持つ、異形の神。
そんな邪神の一化身に一介の人間である俺たちは急に呼び出されたのである。
「君が一介の人間だって? 笑わせてくれるねぇ。ドMで女装趣味で、触手で虐められることが大好きな変態邪神ハンターがよくそんな戯言が言えるもんだよ」
「てめえ読心術はあれほどやめろと! それに俺は変態じゃねえ!」
「読心術じゃない、直観だよ。こんなのお座敷芸さ……にしても否定するのは変態だけなのかい」
君は本当に面白いねえ、とナイは嬉しそうに笑った。
一瞬その笑顔に呑み込まそうになるが、相手が誰で、ついでに性別が何だったかを思い出し、俺は頭を振った。
「あーあ、すっかり顔を赤らめちゃって。嬉しいなぁ、その反応。でもいいのかい。僕男の娘だよ? ああ、でもそれを言ったら君も似た様なものか」
ふふふふっ、と年頃の少女のように笑うナイ。
俺は言い返そうと口を開き掛けるが、先程と同じく奴の笑顔に呑まれて、文句は喉に引っかかってしまった。
「お兄様? 何故私以外の人に興奮しているのでしょう、ご説明を」
「ひぎっ!」
ぎゅっ、と物凄い力で肩が締め付けられる。横を向くといつの間にか俺の横で窓の外を見ていた綯が機内に顔を戻していた。
そして俺の肩を締め上げているのは、彼女の制服の袖から伸びている禍々しい闇紫の……触手であった。太さは大人の腕の太さぐらいはあるだろう。
表面には無数の血管が走っており、全体的に脈動するその姿はまるで筋肉そのものだ。
しかもその全身には何かぬめぬめとする液体というか粘体で覆われているというオプション付き。
このグロテスクな物体は、何のことはなく、綯の体の一部分である。
……加尾梨綯は邪神である。
正しく言い直せば、彼女はナイと同じく、這い寄る混沌ナイアルラトホテップの一化身である。
化身『膨れ女』の亜種である彼女は、今の姿である『人間体』とは別に、彼女の袖から出ている、所謂『触手』が存在する。
どちらが綯の本当の姿である、という訳でもなく、どちらも彼女である、という非常にややこしい化身なのである。ついで言えば、俺は綯のお兄様でも劣等生でも何でもない。
俺と綯の出会いはここでは語らないが、敢えて言うならば、彼女と出会ったのも、俺が邪神狩人をしているのも、後付け加えるなら女装させられているのも、全ては目の前にいるこの神父のせいである。
「お兄様? 如何致しましたか? 浮気の言い訳の一つでも思い浮かびましたか?」
「ひ、人聞き悪い! 俺は浮気なんて一度……あだだだっ!」
「ほー、それは真でしょうか。流石、お兄様は嘘を吐くのがお上手ですわ。コンビニ行ってくると出ていけば他の女の家にお邪魔しているお兄様ですわ。疑われても仕方がないでしょう」
「それでも俺はやっていない!」
綯は俺の肩を触手で締め上げたまま、目の前に座る神父服の少年を鋭く睨み付けた。
「貴方もですわ、神父。いきなり呼び出した上、無理難題を押しつけて。挙句、私の所有物まで寝盗ろうというのですか? それは暴利というものではございませんか? せめて仕事をさせるつもりのでしたら、アレの情報くらい常識的に用意して頂きたいものですわ。それとも、なんでしょう。まさか相手の情報すら判っていないなんて、そんな巫山戯たことは許しませんわよ」
ひどく冷たい、綯の声。その声には、静かな怒りが感じられる。
そんな綯を一笑するかの様に口元の片側を上げて、ナイはにやりと笑った。
「心配はご無用さ。ちゃぁんと、調べてあるよ。この肉塊の正体はクトゥルーの落とし子……正確にはその肉片を媒体とした招換儀式失敗の際に副次的に作り出された、落とし子によく似た肉のゴーレムさ。言い換えるのなら、落とし子の贋作だよ」
「……クトゥルーの!?」
綯の驚きに満ちた声にナイは、そうだよ、と頷いた。
「事件が起きたのはおよそ3時間前の18時半。運悪くディナーの催し物の真っ最中だったみたいでねぇ、結構多くの人がまだこのアクエリアスに残っていたらしいんだ。そして四階のどこかのエリアから突如として発生したCの肉塊は、瞬く間に六階建ての水族館を浸食し、貴重な魚と無数の人間共を飲み込んでしまったわけさ」
助かったのは肉塊が浸食する前に、無事逃げ出せた一階、二階の人間だけで、それ以外の人間は全てこの肉塊の一部にされてしまった様だ。
まあ、それはそうだろう。たった一時間で建物全てを制圧した肉塊から、高所に居た人間が無事に逃げおおせたとは考えにくい。
「おまけにこの肉塊はある程度の知能を持っているようで、突入した対邪神組織の先発隊は壊滅してしまったみたいだね。まあ向こうもどういう相手か見当はついていたみたいだ。見ての通り、第四の結印で、Cの肉塊をアクエリアスに縛り付けることに成功している」
ナイの言葉に俺はヘリコプターの窓に顔を近づける。波打つ肉の塊の遙か下、建物全体を取り込む様に大地に描かれた光り輝く五芒星。おそらく肉塊の本体があるであろう、建物の中心部に目玉が存在しているのだろう。
「で、一体こんな大惨事を引き起こしたどアホウはどこのどいつだよ」
窓から顔を離し、俺は再びナイの方に向き直る。相変わらず、ナイは人の心を喰らう可愛らしい笑顔のままその言葉に答えた。
「うん、その辺もダゴン秘密教団から報告受けてるよ。犯人は教団過激派幹部らしいから、おそらくインスマスのマーシュ家の者だろうね。どうにもルルイエ異本が盗まれたらしくて、それに保管していた落とし子の肉片も一緒に持って行かれたらしいよ」
「流石にセキュリティーガバガバ過ぎるだろダゴン秘密教団!?」
いくら何でも神様復活の際に必要な魔導書とか盗み出されてるんじゃねえよ。
「さあ? もしかしたら知ってて見逃した恐れもあるけどね。彼らにしてみれば星辰が揃ってなくても、これで落とし子が蘇れば万々歳だったわけだし」
ふふふっ、と嬉しそうに小さな肩を上下させて、ナイは無邪気に笑う。コイツにしてみれば、人類が全滅さえしなければ、面白い遊び道具が増えた様な感覚なのだろう。
そうだ。奴ら『星の智慧派』の目的は、『適切なる邪神の管理』。
正しき星辰の下に、旧き支配者達が目覚めるまで、ヒトという種を維持管理することこそ奴らの最優先事項なのだ。
ひとしきり笑った後、ナイはこちらに視線を戻し、にっこりと笑った。
「それで今回の依頼だ。創り出された落とし子の贋作を打ち倒し、儀式に使用されたルルイエ異本、及び落とし子の肉片を回収すること。回収できなかった場合は、対邪神組織の手に渡らない様に確実に破棄すること、以上だ」
「魔術師の処遇は?」
「任せるってさ。教団側ももう彼が生きてはいないと考えてるみたいだ。とにかく彼らとしては、魔導書と肉片が組織の手に渡らないようにしたいみたいだね」
「非情な話だな」
まったくだよ、とナイは両手を広げる。きっとこの男ならもう少しその魔術師を玩んだ後、何らかの形で再利用するだろう。
手間を掛けさせたのだ。それが喩え、同じ邪神の側に立つ広義での仲間と呼べる存在であったとしても、混沌は弄ぶのだ。
「Father Ny――そろそろお時間です」
振り向いたパイロットの言葉に、長い黒髪の少年はにっこりと頷いて応えた。
「うん、ありがとう。さあさあ仕事だよ君達」
ぱんぱんと手を鳴らすナイ。
「はいはい行きゃいいんだろ行きゃあよ」
「仕方がありませんわ。報酬はいつもの倍で御願い致しますわ」
ため息を付きながら答える俺と綯。そんな俺らの様子にナイは笑顔でうんうんと頷く。
「うん、頑張ってくれたまえ。僕はここで待つことにするよ」
「ちょ! おい! お前も来いよ!」
「何寝ぼけたこと言っているんだい。君はパトロンに働かせようというのかい? 雇い主が誰なのか忘れちゃいけないよ」
ちっちっちっ、と指を振るナイ。
どうやらこの邪神はこれ以上事件に手を出す気はない様だ。
ヘリコプターがアクエリアスの屋上にゆっくりと降下する。高度が徐々に下がってゆく。
俺は座席に置いていた鞘に納まった太刀を腰にくくりつける。綯も今一度靴をはき直している様だ。
そして、ヘリコプターは屋上に着陸した。ドアが開き、足下にドクンドクン、と震え緊張する肉の塊が広がる。
「今から二時間ぴったり後に、この屋上にやってくる。今回は君達が今までに戦った事がない様な相手だ。学園で戦ったショゴスやバイアクヘーなんかとは根本的にレベルが違う。君達の成功を祈ってるよ」
プロペラの爆音が夜の屋上に鳴り響く中、背後からナイの柔らかな声がやけにはっきりと聞こえてきた。
「汝らに安らぎと智慧を。星の智慧を――」
にやりと、混沌が嘲笑った、気がした――。
#
・アクエリアス六階展示ホール
ぐじゅり、と赤と黒と所々の黄色と白がコントラストを織りなす内臓の世界に俺は足を踏み入れた。
正直、ある程度は覚悟していたが、まさかここまでとは思っていなかった。多分、この惨劇を放送しようとするなら、背景一面にモザイクを掛けても駄目だろう。
むわりとした生温かい空気が鼻を突く。
「うっ……」
思わず鼻と口を押さえる。
視覚的な要素ならまだなんとかなる。だが、この臭いは――。生臭さと腐敗臭が混ざり合ったような空気は指の隙間を抜け、鼻腔に突き刺さり、喉を冒し、肺に染み渡る。
頭がくらくらする。動悸が速くなる。息をしたくないのに酸素を求めて勝手に呼吸が早くなる。
まともに意識してはいけない。この臭いをまともに意識してはいけない。
倒れないどころか吐かないだけでも奇跡的だ。
「げほっ! えほっ! あっ……げはっ!」
噎せて咳を零す。喉に何か詰まった様な咳。それはもはや嘔吐に近い。
息が苦しい。完全に呼吸という動作が行えずにいる。
時間にして十秒もかかってないだろうが、今の俺にはひどく長い時間に感じられた。
「けほ……えほっ……かはっ……はあ……はぁ」
ようやく咳が落ち着いてくる。口ではぁはぁと息をする。不快な空気が喉を通り抜ける。しかし怪我の功名と言うかなんと言うか、ある程度無理矢理ここの空気に慣れた様だ。まあ口で浅く息をすれば、大して問題にはならないだろう。
口元から漏れた涎を拭い、上体を起こす。
「それにしてもなあ」
ある程度気分が落ち着いてきたトコで、鼻と口を押さえながら俺は部屋中を見渡した。ありとあらゆる箇所が肉の壁で覆われており、元の床が見えるような状態ではない。
たまに未消化なのか、ぴちぴちと体を動かす半分壁と同化している魚や、ぴくぴくと痙攣する人間らしきものの四肢、男女の区別の付かないほど浸食された頭部などが見受けられた。
そのどれもを覆い尽くすように壁中に赤々と点滅を繰り返す血管が走り、筋肉繊維のような筋が収縮と膨張を繰り返している。
衣服などの吸収できない物体なんかも壁に埋め込まれたままだ。
……冷静になれば成る程、嫌なものが見えてきた。
早いトコ、仕事を片づけた方が良さそうだ。
しかし肉塊が脈動したりする以外に、特に活動は見られなかった。どうやら旧神の印の効果により末端部の活動は押さえられているようだ。こちらに攻撃を加えてくる様な意志や行動は、一切見られない。
「少なくとも、この辺は安全ということか……」
無駄な戦闘はしない方が得策だ。しかもここは敵の腹の中も同然。戦おうというのはかなり無謀なことである。
「お兄様。こっちに階段がございますわ。これで目的の四階まで降りられるのではありませんか」
部屋の外で綯が俺を呼んだ。下の階に降りる階段が見つけたらしい。
何時までもこんな所にいたくはない。俺は、スカートを引っ張って、腫瘍のように脈動する肉塊やら、半分突き出た人の頭やらを踏まないように、声の方へ向かった。
#
・アクエリアス非常階段
「是非お褒め下さいお兄様。階段を塞いでおりました邪魔者は綺麗さっぱり片づけましたわ!」
装甲戦車のように分厚い甲殻に覆われた太い戦闘用の触手を何本も袖口とスカートの絶対領域から出しながら、嬉しそうに綯は俺の腕にしがみついてきた。
俺は目の前のぶち抜かれてバラバラのぐちょぐちょに粉砕された肉壁の残骸を眺めながら、ため息を付く。
いつもの事ながら、この這い寄る混沌さん(の化身)はお淑やかさというものはないらしい。折角のお嬢様キャラをぶち壊すように何でも物事を力ずくで解決しようとするのだ。
しかもそれに年下ドSが絡んでくると絶妙な変態キャラができあがるのだ。触手に邪神に後輩にお嬢様に制服にドSってどんな変態属性の塊だよ。
「お兄様、何か失礼なことを考えていませんでしたか?」
綯は、背中まである長く伸びた俺の髪を、その白い指先でくるくる巻き付けて遊びながら、俺の考えを読んだかのように口を開く。
「いや、そんな、事は思って、ない、ぞ。うん、思って、ない」
しどろもどろに答える俺。
すぅっ、と凍り付くぐらいの微笑を浮かべながら彼女は、ひどく甘ったるい声で俺の耳元で囁く。
「ま・さ・か、お兄様如きが私に隠し事ができると思っているのでしょうか? いいです、別に。帰ったら、お兄様の体に存分に訊いて差し上げることにしますから」
「ちょ……それ、なし。なし、だろ、?」
震える喉で、無理矢理声を押し出す。
しかし、綯はそんな俺の声に何か感じ取るものがあったらしく、くすり、と笑った。
「期待しているのでしょうか? 変態ですよお兄様。女装までして……嗚呼、本当にお兄様は弄り甲斐があります。愛しています、私のお兄様」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、綯は俺の腕にぎゅっ、抱きついた。さらに指先一本一本に触手まで絡み付けてくる。
そして、その嬉しそうな笑みのまま、少女は俺の顔を覗き込んでとんでもないことを言い放った。
「――でも、これ以上浮気したら、また(・・)食べて差し上げますわ。勿論捕食的意味で、ですが」
……。そうだったなぁ。確か、『膨れ女』は人間を食べるんだったよねぇ。
「さぁ、早く行きましょうお兄様♪」
ぐいぐいと左手を引っ張る綯。
俺は左肩に重い愛を感じながら、引き摺られる様に、階段を下へと向かう。
ぐじゅ、ぐじゅ、肉から染み出る腐った汁を足音にしながら、何事もなく俺達は粘液で滑りそうな階段で四階まで下りることに成功した。
#
・アクエリアス四階展示ホール
ホールに入った瞬間、空気が変わる。甘苦しく据えた、臭い。
熟れすぎた果実が、腐っていく様な臭い。
そこで、ようやく俺はこの一面に広がる肉壁が俺達に明確な敵意があることを感じ取ることができた。
綯もその異常に気付いたのだろう。ゆっくりと左腕に絡めていた手を離す。
腐食した、いやに甘く、濃度と質量を持った重い(・・)空気が蠢く。どうやら、お迎えが来たようだ。
「来るぞ」
「お兄様!?」
俺は綯をかばい込むようにその小柄な体を引き寄せると、同時に鞘から抜いた見えざる刃で迫り来る肉の触手を斬り落とす。
細い幹ほどの太さはあるだろう。それを鮮やかに、一太刀で、妖刀は斬り捨てた。
――妖刀『星の精』。
生物から血を吸い上げることでその輪郭を顕す不可視の怪物そのものを刃とした刀である。
本来なら斬り落とした相手の血を啜る妖刀なのだが、よほどこの肉塊から体液を吸い上げるのが嫌なのだろう、刃が赤に色付く気配を見せない。
ぶじゅ、と嫌な音と共に斬り落とした触手から鼻を突くような据えた臭いの汁が飛び散る。
その臭いに反応したからか、周囲の肉壁から幾つもの触手が飛び出す。
俺は綯を抱いたまま、背後に飛び下がり、足下の肉塊から触手が出てくる前に、もう一度前に向かって飛び出した。
正面から4本。右から3本。左からも3本。下、足元から5本。
視界に捉えているだけで合計15本の肉の触手がこちらに向かってきている。
後方からのものも含めれば、その数はおそらく20は迫っているだろう。
だが綯がいれば、これくらいなら特に問題にはならない。
まずは刀を持つ右手側から。一振りで迫る三本全て斬り落とす。ついで下の右半分の触手を斬り落とし、安全になった右側の地面に足を着けた。
そして右足を発条に一拍おいて更に前へ跳躍。
一拍置いたことでタイミングが合わなかったのだろう、左側の触手は俺をすり抜ける。
「強引ですわ、お兄様。ですが、私はお兄様のそんなトコが大好きですわ。さて、私も手伝うことに致しましょう……って、え?」
宙に腕を翳したままの綯が声を上げる。
「どうした!?」
「私の触手が……使え、ません」
「何ですとぉぉぉ!?」
泣きそうな綯の声に俺は思わず叫んでしまった。
おそらく落とし子を封じている旧神の印が原因だろう。
綯も力が弱いとはいえ、『膨れ女』という邪神の化身だ。
特に彼女の触手の部分は、人間体である彼女の体よりもその影響が顕著に出る。
6階で使用できたのは、尤も効力の強い4階から離れていたことと、そもそもこの旧神の印がクトゥルフの眷属に優先して、効力を発揮する様に改良されたものだからだろう。
そんな事に気が付かなかったのは痛恨のミスである。一度後ろへ引いて綯の元まで戻る。
とてもじゃないが、俺だけではこの数の触手を捌くことはできない。こうなればやることは一つ。
「強行突破するぞ、しっかり掴まってろ」
「え!? は、はい!」
左腕で綯の腰を抱えて左半身に彼女の身体をぴたりと抱き止める。体の重心がやや左脚側に寄る。
その重心を軸として、左脚で地面を蹴り、左側へ大きく飛ぶ。
俺達を仕留め損なった左側の触手が、反転をして先程まで俺達のいた空間を通り過ぎる。
「いい加減、しつこいんだよ!」
右手で『星の精』を力任せに振り下ろす。
みだりがましい笑い声の様な風切音と共に、不可視の刃が右側に回り込んだ触手を切断する。
右半身に掛かる汚らしい体液を振り払って、最後に俺は足下に伸びている残った左側の触手を踏んで潰し、一気に四階中央ホールに続く通路へと飛び込んだ。
#
・アクエリアス四階 中央ホール大水槽前
ぐちゃり、と右足が肉を踏みつぶす。
アクエリアス四階中央ホール。肉塊が最初に現れた場所であり、一帯を埋め尽くす肉の量も恐ろしいほどである。しかし、尤も落とし子の力が強い場所にも関わらず、他の四階の部屋とは異なり、ホール全体がひどく静かだった。
「それだけここは旧神の印の影響が強いって事か」
「その、ようですね。私も、ここにいるだけで、かなり辛い、です」
俺のぼやきに、ようやく地面に足を着けた綯がそう返事をした。
確かに呼吸が激しい。顔色の何時にも増して白く、血の気が無い。
「どうする? 帰るか」
その問いかけに彼女は首を横に振る。
「戻ったところで、外は肉塊だらけ、なのですよ。ここで、おとなしくお兄様が、本体を、倒すまで、待っていることに、致し、ます。……そんなに、心配なさらず、とも、問題、ございません。足手纏い、にはなりません、から」
「足手纏いとか、別にそういうわけで言ったんじゃねえけど……確かにあの道のりを戻るのは勘弁だな」
結局、最も安全な場所はここというワケか。
そして、俺たちの会話を見計らったように、ゾワリと肉の海が蠢いた。
「……さて、ご本人様がお出迎えか」
エリア中央で肉塊が盛り上がる。吸収しきれなかった衣服や一体化している人間の手足を捻る様に巻き込みながら、ソレは明らかに周囲の触手とは異なる、何か一つの巨大な形を造り出そうとしていた。
目測6メートルほど。章魚を思わせる膨れ垂れた頭部とざわざわと蠢く口元から生えた無数の触手。鱗の様な模様が取り巻くグロテスクな胴体は、まるで西洋の竜と人間の体を混ぜ合わせた畸形獣のようだ。
そして猫背になっている背中には、左右非対称に捩れた蝙蝠のような翼を備えていた。
肉の像は瞳のない黄色く濁った眼をぐるりと回し部屋を一瞥した後、妖刀を構える俺の瞳を覗き込んだ。
瞬間、体から力が抜ける。背筋を悪寒が走る。足が、がくがくと震える。呼吸は乱れ、心臓は脈踊る。
「下がっていろ、綯。コイツは俺が相手をする」
「です、が、お兄様……」
「いいから!」
絞り出すような俺の言葉を嘲笑うように、盛り上がった赤黒い肉の像は震えた。
翼を羽搏かせ、その頭部に生えた触手を蠢かせながら、愉しそうに肉塊は脈動する。
正直、こんなデカイ奴を相手取るのは初めてだ。単純なサイズでここまで厄介な相手と対峙したことはない。
「いいよ。やってやるさ。やらなきゃなんねえからな!」
所詮は正式な儀式を行わずに召喚された、邪神の落とし子の、その贋作だ。
まともな触媒も用意せずに、その場である生命だけで構築された贋作とも呼べないほどのガラクタだ。
けれどそれだけで十分、人間にとって勝ち目のない脅威だ。
無理矢理己を奮い立たせる。刀を握りしめ、重心を移動させてゆっくりと構える。
「楽しく遊ぼうか、坊や!」
俺は『星の精』を振り上げた。
同時に落とし子も右腕を振り上げる。
正面から叩き込まれる破城の一撃。必殺の殴打。
単純な質量だけでも数百kgは下らない超重量が圧倒的な速度で、俺目掛け叩きつけられる。
だがその拳は一瞬前に跳び上がった俺の足下を抜けて、ぐちゃりと肉床に突き刺さっただけだ。
「はっ、この馬鹿」
伸ばされた腕の上に着地した俺は、一気にその腕を駆け上がる。このまま肩まで登り切る。
ひゅん。耳が捉えたのは鋭く、風を切る音。
伸ばされた肉の触手。落とし子の口元から伸びた触手は今までとは比べものにならない程の速さと正確さで俺の頭部を真っ正面から――ぶちゅり
――空白。
何かがはじける様な音と感覚を認識した一拍後に、俺の意識が覚醒する。
視界が歪んでいる。眩しい。覚醒したばかりの意識にとって、世界は少し明るすぎた。
ふらつく脚と喉にせり上がってくる吐き気を無視して、突然の出来事に反応が遅れた落とし子の腕を俺は一気に駆け上がる。
先程、俺は死んだ。
落とし子の伸ばした肉の触手は確実に俺の頭部を貫き、下あごより上の全てを粉砕させていた。
それは制服に僅かにこびり付いた脳漿や血で明らかである。
だが、次の瞬間には既に蘇生していた。
『肉体が死亡すること、自我が失われること、自己を人間の感覚で認識できなくなること、精神状態の復元が不可能になること』
このいずれかの条件を満たした場合、俺の肉体と精神の状態はその死ぬ直前まで巻き戻り、まるで『死』そのものが無かったことにする。
――総ては、神さえ嘲笑う混沌が仕組んだ運命。
――自らの愉悦のためだけに編み上げた絡繰りなのだ。
再び目の前に触手が迫ってくる。鋭く尖ったその先端が俺の頭部を狙ってくる。別に避ける必要はない。だが、やはり蘇生の際に生じるタイムラグは、タネが割れた二度目ともなれば致命的だろう。
首を右に傾ける。ひゅ、と顔のすぐ横を触手が擦り抜ける。俺はそのまま体の重心を右に移し、刀を突き立てようと落とし子の頭部に跳びかかり――どすり、と貫いた。
「げほっ……」
咳き込む。口から血が零れる。
背後からUターンした触手に胸を貫かれた俺を見て、落とし子はにやりと黄濁した瞳を歪めた。
そのまま口元から伸ばした無数の触手で今度こそ蘇らない様に、原型が留めない様にその体を――
――空白。
左手と左脚を圧し折られ捻じ切られ、胴体を五カ所で串刺しにされ、肛門から侵入した触手が腸壁を突き破って内臓を掻き回された感覚までは覚えている。
それから覚えていないということは、おそらくショック死でもしたのだろう。
それでも、何事もなかったかの様に俺の肉体は復元された。まあ、以前ショゴスという化け物に肉体の一片まで食い尽くされ、吸収されたときも何事もなく蘇生したので、肉体の損傷度は関係ないのであろう。
「まったく、痛いのさえ無視できりゃホント便利だな。この能力は」
驚いた様に動きを止めている落とし子を尻目に、俺は右手に構えていた『星の精』を躍らせる。
クスクスというヒステリックな笑い声と共に、見えざる刃は全身を拘束し宙に吊り上げていた触手の束を切断する。
苦痛を感じたのだろうか。落とし子は激しく身悶えさせた。俺はもがく肉の像の胴体に着地すると、姿勢を低くしたまま胴体を蹴り上げ、身を震わせるその体を一気に駆け上がる。
残った触手を踏み越え、章魚に似た頭部に備わった黄濁した両眼の間、人間でいう額の部分に辿り着く。
どうやれば、この肉塊を倒せるかは分からない。だが、少なくとも頭部には何らかの重要器官があるはずだ。
迷っている暇は、無い。俺はしっかりと踏みしめ、落とし子の額に深々と刀を突き立てる。
硬い肉塊に刃が突き刺さる。悍ましい肉体を震わす落とし子を封じ込める様に、更に力を込め、肉の塊に無理矢理刀を押し込める。
ごりゅ、と刀が三分の二以上突き刺さったところで、ようやく落とし子は動きを止めた。
だらりと力を失って、落とし子の腕が垂れる。ぴくっ、ぴくっ、と痙攣する肉塊を、俺は荒い息をしながら眺めていた。
「終わった、か」
どっ、と疲労が押し寄せる。
やけに疲れた。まあ、仕方あるまい。
贋作とは言え、相手は彼の邪神の落とし子だったのだ。
倒せたのは、奇跡と言っても過言ではないだろう。
「にしても制服、ボロボロになっちまったなあ」
落ち着いた俺は、漸く自分の身なりに目を向けることができた。
制服の左袖は肩から見事に引き千切られており、胴体も胸を始めとして結構な数の穴が開いたり、スカートが引き裂かれて見たくもない自分の生足が見えたりしている。
また生地も穢らわしい液体や自分が撒き散らした血やら脳漿やらで、無駄にぬるぬるべとべとして肌に纏わりついてきやがる。
「コリャ、確実に廃棄だな」
溜息を吐く。気に入っていた、というわけでもないが、やはりなんだかんだで着ていた服を捨てなければならないというのは、少し寂しい。
「お兄、様……」
下の方から、綯が声を掛けてきた。怪我をしていない、だろうか。
落とし子は終始俺を狙っていたはずだが、それでも怪我の一つでもされていると気分が悪い。
刀を引き抜いて、よっ、と落とし子の頭から飛び降りる。
着地と同時に、ぐちゃり、と肉を踏みつぶす嫌な感覚が足の裏に響く。
同時に、綯がしがみ付いてきた。
ぎゅっ、と脇の下に両腕を回してくる。場所が場所なだけに、いつもの様に触手は出ていないが。
「大丈夫だったかよ」
その言葉に彼女は頬を膨らませた。
「お兄様、こそ、私の赦し無く、二度も、死んでいた、ではありま、せんか」
「不可抗力だったんだよ。仕方ねえだろ」
「そんなの、言い訳に、なりま、せんよ……」
力が入っていない腕で、それでも全力を込めて、ぎゅうっ、と締め上げられた。
いつもの様に触手で締め上げられているわけではないので、特に痛いということもない。
本当に、いつもこんな感じだったら可愛いのだが。
そう思い、小さく息を零す。そんな俺の様子が気に入らなかったのか、さらに綯はぎゅっ、と腕に力を込めてきた。
――反省しよう。このとき、俺はひどく気を緩めていた。
ずるり、と後方で何かが蠢く音が聞こえた。
体が勝手に動いた。
綯を突き飛ばす。同時に背後から伸びてきた触手が俺の手足に絡みつき、そのまま活動を再開した落とし子の内部に引き摺り込もうとする。
「くっ!」
ずるり、と丸飲みにされたように、手足が肉壁に引き込まれる。身動きが取れない。
「お兄さ……」
綯の姿が見えなくなる。びっちりと肉壁が閉じられたのだ。
俺の四肢は完全に肉に埋もれたままだ。
ああ、畜生。最後の最後でドジ踏みやがった!
贋作とは言え、相手は邪神の眷属だ。常識的な殺し方が通用しないのは、分かっていたはずだ。
とりあえず、ここから出ないと話にならない。
手足を封じられているこの状況では、『星の精』を振ることすらできない。
「は、離せ! くそったれ!」
やったらめったらに手足を動かす。
その動きに反応したのか、ざわり、と肉壁内部が動いた。
まるで俺の抵抗を封じ込めるかの様に手足に掛かる圧力が増す。
ぎちぎちと締め上げるその痛みに、やむ終えなく俺は暴れることをやめる。
しかし、肉壁は俺の手足を締め上げることを止めない。
「お、おい……い、痛いって……止めろ!」
そう言った瞬間、一気に肉壁内部の圧力が強くなる。
めきり、と細い右腕が折られた。
「あがっ!」
続いて、左腕、右脚、左脚の順に骨が砕かれる。
「ぎっ……がっ……!」
痛みに意識が点滅する。何度も頭が真っ白になる。
更に追い打ちを掛けるか如く、肉壁が蠢く。
力を入れて、骨が折れた両腕両脚を挽きつぶし、捏ね上げる様子を視覚ではなく、感触で責めてくる。
自分の手足をハンバーグの屑肉にされた様な感じなのだろう。
少し動かされるたび、声にならない痛みが全身を駆け抜ける。
激痛で吐き気が込み上げてくる。
しかし、痛みに吐く余裕すらなく、その吐き気は唯でさえまともにできない呼吸を潰す。
肉を混ぜる過程で、筋肉をぐちゃぐちゃに潰され、骨をボリボリと砕かれ、神経をブチブチと切断される。
なまじ俺自身が痛みに耐性がある故、生命維持に支障がないならば、気絶することさえできない。
つまりこの過程を余すことなく味合わなければならないのだ。
それでも、幸運というべきか、痛みが痛みを呼び、何度も激痛が重なった結果、最終的に何も感じられなくなってしまっている。
そうして痛みが無くなるまで攪拌された頃には、既に俺は手足の感覚を失っていた。
「はぁはぁ……」
肩で息をする。漸く肉壁の動きも止まった様だ。
汗と涙で滲んだ視界がある程度、はっきりしてくる。
水疱の様な液体の入った袋や、腫瘍の様な塊があちらこちらに埋め込まれた肉の牢獄。
その壁の一片から一際太い肉の触手が盛り上がっていた。
淫靡な光沢を放つ粘液に覆われた一見男性器を思わせるようなソレは、激しく蠢きながら、こちらに近づいてくる。
「触手、プレイって、マジ、洒落にならない、んですけど……」
こんなことするのはアイツだけで精一杯だ。
身を捩って何とか異形の触手から逃れようとするが、手足を失い、体が肉壁に固定されている今、それは虚しい抵抗だった。
そして触手は、まるで溶け込むかの様に、俺の腹に突き刺さった。
痛みは、ない。
代わりに枝分かれした無数の触手が、俺の中を探る様に蠢きながら内臓に纏わりつき、撫で回しながら、根を張ってゆく感覚をありありと認識させられる。
内臓を弄られた事がないわけではないが、そんなときは大抵喰われており、今回の様に生きたまま浸食されたのは初めてだった。
未知の感覚に身を悶えさせる。
全身から冷や汗が止まらない。
自己が浸食されていく感覚。
自己が侵略されていく感覚。
それは想像を絶する恐怖であり、甘美な快楽でもあった。
「こ、こいつ……っ!」
考えやがったな。俺を殺せないならば、取り込んでしまえばいい、そういうことか。
そう言えば、今まで同化されたことはなかった。
肉体を削る様に食べられたり、溶かして吸収されたことはあっても、はっきりと意識を残したまま取り込まれたことは今回が初めてだ。
挽き潰され、捏ね繰り回された手足の断面から何かが入り込んでくる感覚。
それはちょうど栄養を求め、植物が土に根を伸ばす様なイメージで俺の体に浸食してくる。
「ちょっ、まてや……こ、のっ!」
静止の声も虚しく、落とし子の触手は細かく枝分かれを繰り返しながら、俺の神経に絡み付きながら結合する。
それは伸びた菌糸の糸が混ざり合う様なイメージであり、いわば蛞蝓の交尾の様に回転しながら、一体化していく様な感覚で……。
近似。本来人が理解できない世界を、誤差はあるものの、一番近い人の感覚に当て嵌めて認識させる。
脳裏に流れ込んでくる落とし子の感覚。人の認識とは全く異なった世界の見方が、思考に混ざり込む。
しかし、決して俺の意識を失わせたりしない。
『肉体が死亡すること、自我が失われること、自己を人間の感覚で認識できなくなること、精神状態の復元が不可能になること』
少なくとも『死』により、リセットがかかる各種条件を回避しながらも、落とし子は哀れな贄を内側に取り込むことに成功した様だ。
潰された末端部の感覚が元に戻ってくる。手の上を無数の蟲が這い回る様な感触。
湿った繊毛に覆われた毛むくじゃらの脚が手足を擽る。手足の感覚はすっかり落とし子のものと置き換わっているらしい。
手足を切断され、あろうことか完全に取り込まれてしまった。
そんな絶望的な状況であるにも関わらず、俺の精神は酷く安定している。
恐らく同化した落とし子の影響を少なからず受けているためだろう。
事実、突然沸き起こった手足の感覚やこの蠢く肉塊に関しては、さすがに愛しい、までは行かないものの既に何の嫌悪感も抱かない様になってきている。
心臓の鼓動と一緒に、内臓に根を張った触手もとくん、とくん、と脈動している。
「こいつは……詰み、かあ」
勝てないとは思っていたが、ここまでヤられるとは思わなかった。
今まで何とかなっていたから、今回もきっと大丈夫だと思ったのが運のツキだった。
おそらく俺はこのまま、落とし子の一部として突入してきた組織の連中に処理されることになるだろう。
いや、うまく処理されたならまだいい方かもしれない。へタすりゃ実験材料にされるだろう。
何せ、生きたまま落とし子の中に取り込まれた人間なんて滅多にいないだろうからな。
最悪の終わり方だよ。だが、外部の手を借りれない以上もはや手詰まりだ。
諦観から溜息を吐き、俺は静かに目を閉じた。
――突然胸部に走った激痛。
何かが突き刺さり、内部に侵入しようとする感覚。これは落とし子の感覚か。
当然同化している俺もその痛みに、四肢が潰され、不自由な体を悶えさせる。
時間にして一秒も掛からなかっただろうか。
肉の壁を突き破り、見覚えのある装甲に覆われた触手が目の前に現れる。これは綯の触手。
しかし、あいつは旧神の印の影響で確か触手が使えなかったんじゃ……。
それ以上俺は物事を考えることができなかった。
落とし子の体内に突入してきた全身装甲の触手に速度を落とす気配が見られなかったのだ。
そしてその先にあるのは当然俺の脳味噌であり――。
「ちょ、まっ!」
ゴツゴツした触手は肉の壁を突き破って飛び込んできた速度のまま、俺の頭目掛けて、ごぐしゃり
――一瞬意識が飛び、一拍置いて、覚醒する。
邪神の捻じ曲げた運命が『死』という事象を塗り替え、全て無かったかの様に今再び時が刻まれる。
「けほっ、えはっ……くはっ!」
捻り潰され、取り込まれていた両腕、両脚の感覚が元に戻る。
腹を貫き、内蔵に根を張っていた肉の管が拒絶され、俺の体外に放り出される。
神経が、接続された感覚と共に切断され、傷口から侵入していた極細の触手の感覚が消滅する。
全てが、元に戻った。
取り込まれたことなど、まるでなかったかの様に。
唯の一瞬で、否定された。
未だにチカチカする視界。
蘇生の度に沸き上がってくる吐き気に、ゲホッ、と喉を鳴らす。
口から情けなく涎が垂れるが、手足が肉に埋まっている今それを拭う事はできなかった。
それにしてもあの馬鹿は無茶をしやがる。
俺の頭部を潰して、同化をリセットするなんて。
「なんて荒技だよ」
もう一度ゲホッ、と咳き込む。
だが、いつまでもこうしている訳にはいかない。
またいつこの肉塊が俺の手足を挽き潰すか分からないのだ。
粘り付く肉の海に肩まで押し込みながら、肉泥に埋もれた右腕を動かす。
屑肉の中に手を突っ込んでかき混ぜる様に、ぐちゃりぐちゃり、と落とし子の肉を漁る。
カタリッ、と指先に何か硬いものが触れた。
間違いない、『星の精』だ。
俺は更に肉の塊に右腕を突っ込む。
ぐちゃりとしたペースト状の肉の感触が無理矢理進めた右手に粘り纏わりつく。
爪の間に肉の塊が入り込む。食い込んだ肉が気持ち悪い。実に不快極まりない。
しかし構うことなく、肉を掻き分けながら、腕を奥へ奥へと突き進める。
そして、ついに右手が刀の柄を掴んだ。
「せいやぁぁぁ!」
ぶちゃり、と濁った水音ともに見えない刀身が肉の塊から引きずり出される。
次に左手を肉壁から抜いて、両手で滑る柄をしっかりと握る。
どろりとした肉塊が纏わりついているが構うことなく刀を振る。
気狂いの笑い声を鳴らしながら、驚くほど簡単に肉に刃がめり込む。
俺は、力のまま刀を振り下ろす。刃が、まるで豆腐を切る様に容易く肉を切り裂いた。
肉全体が痛みに震える。
先程の様に神経が繋がっていたのならば、きっと俺もこの身を斬られる痛みに身を悶えさせたことだろう。
「残念ながら、俺がテメエに同情する余地なんぞ全くないがな」
刃に正面の肉壁に突き立てる。
突き抜けた刃の中程で肉の手応えが失われる。意外と肉壁は薄いようだ。そのまま刃を横に薙ぐ。
どばり、と中の液状化した肉が隙間から流れ出る。
同時に装甲を身に纏った大量の触手が、隙間から流れ込んできた。
鋭い触手が、辺りの肉壁に突き刺さり、捻り込む様に穿孔する。
傷口から液状化した肉の塊が噴き出して、俺の体に降り注ぐ。
既に穢れているとはいえ、悪臭を放つ汚らしい液体を頭から被るのは、良い気持ちなワケがない。
「ちょ、てめえ! 綯!」
俺の声に答えるかの様に、落とし子の内部に入り込んできた触手の幾つかが俺の手足を縛り上げ、そのまま外へ引き摺り出した。
粘り気のある派手な水音と共に俺の体と一緒にペースト状の肉塊が流れ出る。
零れ落ちたそれらは、汚らしい肉床と混じり合い、ピンク色のマーブルを描き出す。
崩れ落ちる肉の像をその横目に、
――俺は燃える三眼をその貌に宿した、少女の身体を借りた邪神を見た。
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ずるり、とまた肉塊が滑り落ちた。
内側から腹を割かれた肉の像は、ドロドロとしたジェル状の液体となり、辺りの肉床に流れ出す。
当然中に取り込まれていた俺は、頭からその汚い液体を被っていた。
「きったねなあ……けほっ、えほっ……うへっ……」
咽た様に咳が出る。仕方があるまい。
あんな生臭いところに閉じこめられていた上、頭からこんな汚濁を浴びてしまったのだ。
髪が非常にネバネバする。
正直、背中まである長髪を洗うのは非常に面倒なのだ。
いい加減切りたいのだが、綯から女装したときに見た目が悪くなるという理由から、切らない様に脅されている。
「さて……こいつが、本体か」
俺は活動を停止した何トンは有ろうかという赤黒い肉塊の中から、漸く本体を見つけ出した。
無数のドロドロと溶解した数多の生物の肉に埋もれていたのは、右手に人皮で装丁された魔導書を持っているインスマス面の男だった。
辛うじて意識はあるのか、男はその半開きの口から、まるで赤子か白痴のような意味を成さない声を漏らし続ける。
この男が全ての元凶だったのだろう。
マーシュ家であればそれなりの腕の立つ、少なくともクトゥルーに関しては右に並ぶ者のない魔術師だったはずだ。
何が原因かは知らないが、間違ってもこんな物を呼び出そうとしなければ。
「馬鹿野郎……」
俺は憐れな男に侮蔑と同等の同情を込めて、そう言葉を紡ぐ。
自らの器に過ぎた力は、確実に災厄となって自らに降りかかる。知識も、同じだ。
まして落とし子とはいえ、外宇宙の神秘に手を出したのだから、存在の根底から抹消されなかったのは幸いといえるか。
……それに精神を完全に壊されていた事も幸運だ。少なくとも本人は正常な思考で今回の惨劇を見なくて済んだのだから。
逆に言えば、コイツだけいい思いをしたわけだ。
「お兄様。トドメは刺さないのですか?」
そんな下らないことを考えている俺に綯は声を掛けてくれた。
すでに彼女の顔に燃える三眼の姿など影も形もなく、美しく整った顔立ちで、いつものように冷たい目で睨み付けてくるだけだ。
「もしや共に取り込まれて為に変な同情心が沸いてしまったなどと、巫山戯たことは仰いませんよね?」
「心配しなくても大丈夫だ。ちゃんと始末できるさ」
「そうですか、でしたら宜しいのです……」
綯は少し疑わしそうな視線を俺に向ける。
そもそも誰が好き好んで野郎なんか好きに……あー、うん。その観点だと微妙にヤバイかもしれん、俺。
まあ、このままでいることは本人にとって苦痛でしかないだろう。早いトコ、解放してやろう。
俺は切っ先を下に、ぎゅっ、と刀を握り締める。
そして足下の呻き声を上げる男だった者に同情の目を向けて、
「じゃあな」
と、その胸に両手で見えざる刃を突き立てた。
#
・ヘリコプター機内
「お疲れ様。見事な仕事ぶりだったよ」
そう言って肩まで伸びた髪を楽しげに揺らして、ナイは俺の手から落とし子の体液で穢れたルルイエ異本を受け取った。
「肉片は回収できなかったけど、魔導書を回収しただけで十分すぎる働きだよ。いくら君らでも落とし子の贋作相手に、無事生きて帰ってこれるなんて思ってなかったけどね」
一体コイツは俺達のどこを見てそんな発言をしているのだろう。
脳をぶち抜かれたときに飛び散った脳漿や、胴体に風穴を開けられたときに出来た大穴が制服には山ほど開いている、というか最後の最後に綯の肉体乗っ取って、俺を引き摺り出したのお前じゃないか。
「無事なんかじゃねえよ。実際俺は3回死んだぞ」
しかし、ナイは、その言葉に首を横に振った。
「いやいやそれでも僕は君を賞賛せざるを終えないよ。贋作とは言いながらも神の眷属を打ち倒すなんて、ね。さすが邪神ハンターを名乗るだけはある。君は立派に、僕ら旧支配者の天敵さ」
小さな紅色の唇を吊り上げ、ひどく愉快そうに邪神は笑みを浮かべた。
それは少女らしい愛らしさと、妖艶さが混じり合った酷く男の心を惹く蠱惑の笑みであり。
ごくり、と息を呑む。
悍ましい笑みに、何か言い知れぬ恐ろしさを感じながら、それでもそんな彼に魅せられている自分がいる。
「ひぎぃ!」
また、ぎゅうぅぅぅ、と強い力で左肩が締め上げられる。
おそるおそる左を向くと綯が目を半円状にして、酷く不機嫌そうにこちらを眺めている。
無論俺の肩を締め上げているのは、彼女の裾から伸びているヤケに毒々しい闇紫色の触手である。
「え、あ、あの……」
「浮気者」
身も蓋もなかった。
何か言いかけたまま固まってしまった俺から、綯は視線を目の前にいる神父服の少年に移した。
「それはそうとして、あの肉塊どうなさるおつもりですか? 流石にあのまま放置することはできないでしょう。……嗚呼、『星の智慧派』の皆様がボランティアで」
「もう触媒も破壊されたし、肉塊は勝手に形状崩壊しちゃうよ。まあ掃除は再出撃に時間を食って、遅刻しちゃった対邪神組織の方に頑張って貰うとしようか」
綯の嫌みったらしい物言いにも動じることなく、笑顔でナイはとんでもないことを答える。
けっ、とらしからぬ悪態をつく綯。
そんな彼女を眺めて愉快そうにに笑うナイ。
「じゃあ君達、これからもよろしく頼むよ」
「だがお断りします」
天使の様な笑みを浮かべながら、ナイが俺に差し出してきた白い手袋を着けた手を綯は、ぱしり、と叩いた。
『アクエリアスC事件』END
・くとぅるふ用語集
『星の智慧派』
『輝くトラペゾへドロン』を御神体として、這い寄る混沌ナイアルラトホテップを信仰する邪教集団。
イノック・ボウアン教授が1844年に創設した宗教団体であり、一時は200名以上の門徒がいたものの失踪者が相次ぎ、政府により強制的に解体された。
その後、20世紀後半にナイ神父がテロや暗殺を行う秘密組織として復興させた。
本作においては21世紀に入って、ナイ神父が復興した国際的なネットワークを持つ宗教団体となっており、対邪神組織と敵対している。
ダゴン秘密教団
大いなるクトゥルフを信仰する邪教集団。クトゥルフに付き従うディープ・ワン(魚人)の末裔により構成されている。本部をアメリカ合衆国の西大西洋に面した港町であるインスマスに置いており、教団自体もその街の名家『マーシュ家』が取り仕切っていたが、二十世紀前半にアメリカ海軍の攻撃を受け、インスマスは壊滅。教団のメンバーは今では世界中に散り散りになっている。
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん
対邪神組織
人類唯一の、邪神に対抗するための国際的な組織。本部をアメリカ合衆国マサチューセッツ州アーカムにあるミスカトニック大学に置いている。
邪神ハンター
オカルティスト。神々の力を借りて、邪神に対抗する人々。旧神の力は勿論、ときには倒すべき邪神と敵対している邪神の力さえ利用する。
代表的な人物として、『タイタス・クロウ』、『ラバン・シュリュズベリイ』 が挙げられる。
旧神
ダーレス体系における善き異形の神々の総称。全宇宙の善の存在で、後述する旧支配者と敵対している。
一般的な傾向としてラヴクラフト作品においては、旧神や旧支配者という区分は明言されず、人智を越えた異形の神々として、一纏めにされている。
旧支配者
ダーレス体系における悪しき異形の神々の総称。全宇宙の悪の存在、所謂邪神のことである。
本作においては、異形の神々の、特に下等な(それでも人間を遙かに上回るが)存在をこのように呼ぶ。
尚、ラヴクラフト作品に登場する旧支配者という単語は邪神の総称ではなく、種族の名称として使用されることが多く、注意が必要である。
旧神の印
別名『第四の結印』。
ヴーア、キシュ、コスの結印と並ぶ四番目の結印で、邪神と敵対する旧神を象徴する結印。
力の弱い眷属に対しては絶大な効果を持つが、邪神そのものに対してはほとんど効力を持たない。
チートだけど最強じゃない主人公系
それなりに評判が良ければ続編頑張ります