祈りの神様は微笑む
あるところに、祈る山と書いて、祈山という神社がありました。そこには、祈ることを得意とする神様がおりました。
神社はそれほど参拝者が多くはありませんでしたが、来る人は決まって手を合わせ、ある時は自分の幸せを、またある時は他人の幸せを、そうでなければ誰かが不幸になりませんように、と祈りました。
神様はそのひとつひとつに耳を傾け、彼らの幸せを祈り、去り行く背中に微笑みを向けました。
神様は、いつも、そうしていました。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ある日のことです。
いつものように、一人の少女がやってきました。泣き腫らした目でした。神様は、きっと不幸なことでもあったのだろう、と少女の境遇を思いました。
少女は他の人と同じように、神様の前で手を合わせました。
(神様、祈山の神様、どうか──)
少女は、切々と祈っていました。その想いはそのまま神様に伝わってきます。
(どうか、明日のわたしは、笑顔でいられますように)
祈りを聞き入れた神様は、いつものように、少女の幸せを祈りました。どうかこの少女が、明日、笑顔でいられますように。
少女は、次の日もまた、神様のところにやってきました。こういう人間も、たまにいます。とてもとても、強い願いを持った人間は、時折このようにして祈るのです。この少女も、きっとその一人なのでしょう。
(神様、どうか祈山の神様)
少女の願いは、いつだって変わりませんでした。
(明日のわたしが、笑顔で過ごせますように)
神様はいつだって、彼女の願いが叶うことを祈りました。
毎日の参拝は、彼女が大人になっても続きました。変わったことも、もちろんあります。
生活が変わるにつれ、夕暮れ時に参拝することが難しくなったのでしょう、彼女は早朝に訪れて祈るようになりました。
また、初めのうちは険しい表情ばかりだった彼女は、いつしか穏やかは笑顔を浮かべるようになりました。
それから──
(神様、祈山の神様。いつもお祈りしてくださり、ありがとうございます)
神様に向けられる言葉が、少し、変わりました。
(明日のわたしも、笑顔で過ごせますように)
──それが、何故だか嬉しくて。
神様は、そのような感情を抱くのは初めてでしたので、困惑しました。
参拝を終えて去り行く背中を、神様はそれでも微笑みながら見送ります。どうか少女の明日が、笑顔で過ごせますように。どうか、少女の今日が、幸せで満ちていきますように。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それからまた、しばらくの時が過ぎました。とはいっても、神様にとってはほんの一瞬のような時間でした。しかし、人間の少女が大きくなるには十分な時間でもありました。
大人になった少女は──大人とはいっても、神様にとってはちっぽけな“少女”であることに変わりはなかったのですが──、別の人間と結婚することになりました。
少女の希望であったのでしょうか、式は、祈山神社、神様の前で執り行われることとなりました。
白無垢姿の少女は、幸せそうに笑っています。隣に立つ男性と視線を合わせながら、微笑み合っています。神様も、二人を見て微笑みます。それはそれは、幸せな光景でした。
厳かに、婚礼の儀が進められていきます。
(神様、祈山の神様)
その最中で、少女の祈りが聞こえてきました。
少女は穏やかな表情で、神様に語り掛けます。
(いつもお祈りしてくださり、ありがとうございます。今も、お祈りくださっているのでしょうか)
そうですよ、という声は、決して少女には届きません。少女以外の誰にだって、届くことはないでしょう。神様にできることは、ただひたすらに祈ることだけなのです。
(わたしが毎日参拝するようになった、初めての日を、憶えておりますでしょうか。いえ、憶えていなくていいのです。忘れていて当然です。何千、何万、何億といる人間の、わたしは一人に過ぎないのですから)
いいえちゃんと憶えていますよ、と答えます。何千、何万、何億といる人間の中で、神様は少女のことを憶えています。少女が、険しい表情で、この神社に来た日のことを。不思議なことに、細部まではっきりと憶えていました。
(あの頃、わたしには辛いことがたくさんありました。突然に、もうこの先をたったの独りで生きるしかないのだと思うような現実に立たされて、絶望していました。その中で、せめて明日が幸福であるように、──幸福であることに希望を託して生きられるように、わたしは貴方様の元に通い詰めたのです。たとえ今が絶望ばかりでも、明日のわたしは希望を持てているかもしれない。そう思えば、まだなんとか、騙し騙し生きられるような気がしたのです。神様を信じたのではなく、神様という存在を信じるフリをして、自分を保とうとしていたのです)
多くを語りはしなかった少女は、今、結婚式という大事な節目であるからなのか、少女にとっては、いるかどうかすらわからない“神様”を相手に、真摯に話しています。
それはあたかも、神様を利用したことに対する懺悔のようでさえありました。そんなこと、気にする必要などこれっぽっちもないのに。
(でもいつしか、貴方様は本当にいるのではないかと──つまり、わたしは本当に、決して孤独ではないのではないかと、思うようになったのです。何故でしょうか。不思議でならないのです。神様、祈山の神様、貴方様は、本当にここにいらっしゃるのだと、わたしは勝手に思っているのです)
唐突に向けられた親愛に、神様はますます戸惑いました。神様の存在を“知る”ことなど、少女にできようはずもないのですから、当然です。神様は、ダイレクトに伝わってくる少女の感情に一片の嘘も紛れていないことを知り、ますます、これはどういうことか、と首を捻りました。
神様、神様と少女はまた呼び掛けています。それはまるで、尊く──それでいて近しいものに対する時のようでした。
(貴方様のお陰で、私は孤独ではなかったのです。安心感を持っていたから、笑っていられたのです。明日の希望を祈るだけではなく、今日の幸福を感謝できたのです。──だから神様、どうか明日のわたしも、笑顔でいられますように)
その祈りは、少女が自分の幸せのためだけに想ったのではないような気がしました。
それを裏付けるように、少女は言葉を続けました。
(──どうか、貴方様も笑顔でお過ごしになりますように)
ああ、と神様は心中で呻きました。
とても静かに悟ったのです。ああ、そうか、と。“自分”を慮って、与えられた言葉に。
神様はきっと、誰かのために祈りを捧げながら、ずっと、ずっと、寂しかったのです。祈りを捧げ、帰ってしまうことが。神様からも、人間からも、全てが一方通行で。どこにも繫がることなどできなくて。
微笑みながら彼らを見送って、幸せを祈って、だけども本当はとても寂しかったのです。
でもこの少女は、自分の存在を感じ取ってくれたのだといいます。言葉を交わすことが叶わなくても、寄り添う存在であったのだと。決して一方通行だけでは終わっていなかったのだと。
それがとても嬉しくて。
晴天の空から、ぽつりぽつりと大きな雨粒が落ちてきました。
「天気雨ですね。これは不思議な」
「きっと神様の祝福だわ」
少女は笑います。
雨は、その後しばらく降り続けました。
その雨を見守る少女の顔は、とても穏やかでした。
少女は神様の存在を確信することはできても、確認することはできません。
神様の声は、少女には決して届くことはありません。
それでも神様と少女の間には、確かに繋がるものがあったのです。
だからこそ、神様はもう、寂しくはありませんでした。
少女は人間です。いずれいなくなるでしょう。けれど、少女がくれた言葉は、神様の中で消えることはないのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
あるところに、祈る山と書いて、祈山という神社がありました。そこには、祈ることを得意とする神様がおりました。
神社はそれほど参拝者が多くはありませんでしたが、来る人は決まって手を合わせ、ある時は自分の幸せを、またある時は他人の幸せを、そうでなければ誰かが不幸になりませんように、と祈りました。
神様はそのひとつひとつに耳を傾け、彼らの幸せを祈り、去り行く背中に微笑みを向けました。
神様は、いつも、そうしていました。
心から、そうしていました。
──どうか、かの人の今日と明日が、笑顔でありますように。
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