6 さすがに酷い
地図を読むのと道順を覚えるのが、サクヤさんは大得意だ。
一度歩けば大体覚えられるらしい。
その得意さ加減と言ったら、かなりのもので。
例えばオレだって、一度歩いた街は何となく覚えている。でもしばらく時間が経ってからその街へ行くと、目印にしていた店が潰れていたり建物が改装されていたり、色々風景が変わっていることがある。
そうすると、迷っちゃったりするんだけど。
サクヤは全然迷わない。
恐ろしいことに、周囲の景色や目印ではなくて、歩く距離と方角で位置を覚えているのだそうだ。
なので、よほどのことがない限りは迷うことはないとか。
当然、こんな森の中でしかも夜中であっても、目的地までの地図さえあれば迷うなんてありえない。
月明かりの下、いつもは堂々とオレを先導する姫巫女は――
「……何で、こっちを見る」
「いや、ちょっと珍しい姿だと思って」
――後ろからオレのシャツを掴んで、おずおずと歩いていた。
ちょっと腰が引けてたりするのが驚きだ。
「たまにはお前が前を歩いてもいいだろ?」
「まあ、オレはいいんだけど。あんたのそんな姿は初めて見たから」
「何か誤解しているんじゃないか? 俺はお前を守ってやろうと思ってるんだ」
「――っていう理由もゼロじゃないってことか。ありがたいね」
嘘のつけない姫巫女は嘘がつけないだけで――真実を全て言う必要はない。
オレを守るなんて優先度の低い理由よりも大事な理由があることは、ここまでの経緯で大体分かっている。
どうもこの人、何かのトラウマがあって、幽霊が怖いらしい。
素直に認めればいいのに、往生際が悪い。
「最初からこのつもりだったんだな、あんた。ここに行くと言い出した時から」
――思い返せば、2日前。
普段どこへ行くにも、行き先を告げるだけで勝手についてくると思っているこの人が。
珍しく。
オレを誘いに来た。
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話は、2日前の昼間に戻る。
師匠と2人、師匠の屋敷の庭で、日課の訓練をこなしている時のこと。
――音もなく。
背後から細い腕が伸びてきて、素振りをしていたオレの首元に巻き付いた。
突然の出来事に、驚いて手を止める。
同時に、涼やかな声が耳元で響いた。
「カイ。お前、今暇か?」
「暇そうに見えるなら、あんたの眼はおかしい」
背中に当たる柔らかい感触と高い声で、サクヤの性別が変わっていることに気付いた。
そう言えば昨日、サクヤと師匠の定例試合があったはずだ。
結構いいとこまで行ったのに、って師匠が言ってたっけ。
サクヤが女になっていると言うことは、師匠の攻撃でどこかに傷を負って、まだ治りきっていないのだろう。
対する師匠はと言うと。
いいことまで行ったとは言え、例によって、痛烈な反撃を食らったらしい。
愛用のメガネが割れたらしく、今日は、一切オレの打ち込みを受けてくれない。
おかげで、筋トレと素振りが、練習のメインになってしまった。
サクヤが来たことに気付いて、師匠が、向こうから近付いてくる。
さっきまで、オレ1人だった時には、オレなんて放って仕事をしていたのに。
大好きなサクヤが来たことに気付いた途端、仕事をほっぽりだすのだから、現金なものだ。
寄ってきた師匠は、昨日のごたごたで、右頬が腫れている。
喋りづらそうに、口を歪めた。
「サクヤさん。弟子の訓練を邪魔するの、止めてくれません?」
「ふーん。ずいぶん腫れたな」
あんたがやったんだろ。
いつもの戦闘スタイル通り、蹴りをかましたんだと思うけど。
骨に異常はないそうなので、素足で蹴ったのかな。
師匠は、右頬を押さえながら、苦々しい表情を浮かべる。
「頬はまあ、アサギが暇な時に治してもらえばいいんですけど。メガネがないのが不便で……」
「予備作っとけよ」
「昨日のが予備だったんです」
「……ああ。一昨日のが、いつものか」
「あんたら、一昨日もやったの?」
思わず聞くと、背後のサクヤが、不満げに、しなだれかかってきた。
「お前、弟子なら、ちゃんとこれを止めろ。不意打ちは、さすがに酷い」
「それさえも軽々と退けておいて、何を言いますかね、この人は」
どうやら、定例試合を待ちきれず、師匠が喧嘩を吹っ掛けたようだ。
サクヤに勝つことに、異常に執着する、オレの師匠は。
普通に戦えば、右に出る者のない剣士なのに、サクヤにだけは、滅法弱い。
本人達の言によると、次の手が完全に読めてしまうらしい。
どうでもいいけど、さっきから、サクヤが重い。
あと、汗で貼り付いたシャツを、擦り付けるように密着されて、気持ち悪い。
濡れた布越しに感じる身体は、柔らかくて、さっきまで運動してたオレの体温より、だいぶ低い。
――つまり、気持ち悪いのが、気持ちいい。
あのさ。こういうの、本当に、困るんだけど。
「分かったから、ちょっとどけてくれよ。あんたも濡れるだろ」
「既に、びっちょびちょになった。もう遅い」
「カイを見かけたら、とりあえず確保する癖、そろそろ考え直した方がいいんじゃないですか?」
師匠が珍しくまともな提案をしてくれたが、サクヤの方は、例によって聞いていない。
この人、自分の興味無いことを、聞き流すのに躊躇がないんだ、いつも。
耳元で囁くように、尋ねてくる。
「お前、この後、予定ないよな?」
「……見たら分かると思うけど、今、訓練中なんだ」
「もう終わるだろ?」
いや、今日1日は全部、訓練の予定です。
何を根拠にそういうことを言うのか、聞いてみたい。
多分、何も根拠なんてないんだろうけど。
「人の予定を、勝手に決めんなって」
ぎゅう、と抱き着いてくる身体を引き剥がして、オレはサクヤに向き直った。
サクヤは何も言わなかったが、オレの態度で、断られたと思ったらしい。
どことなく困っている様子だ。
その表情を見て、おや、と思う。
いつだって、サクヤは「行くぞ」と宣言するだけで。
ばたばたと用意をして、後を追うのは、オレの方だ。
それが、どうも、わざわざオレを誘いに来たらしい。
しばらく考えて、オレは言葉を続けることにした。
「暇かどうかで言えば、暇じゃないけど。何か、してほしいことがあるなら、ちゃんと教えてくれれば、そっちを優先してもいい」
優先してもいい、なんて遠回しな言い方だけどさ。
結局、サクヤがどこかへ行く時は、絶対にオレはついて行くのだから。
こんなやり取りは、形だけだ。
目の前の綺麗な唇が、そこはかとなく緩む。
その表情を見て、今の言葉が正解だったと、改めて認識した。
オレ達の様子を見ながら、師匠が溜息をついた。
「あんまり甘やかすと、図に乗りますよ、その人」
「今のは、どっちへの忠告だ?」
「あんたがいつ、オレを甘やかしてくれたっけな」
小首を傾げるサクヤの頭をぽん、と叩く。
その様子からすると、本人としては、異論があるらしい。
「お前だって、そんなに俺に甘くない」
「あんたの基準はノゾミちゃんだろ。ムリムリ、あれマネしようとすると、オレ多分、過労で死ぬから」
ノゾミちゃんはサクヤにベタ甘だったらしいが。
サクヤさんの常識のネジがぶっ飛んでる内の、半分くらいは、ノゾミちゃんのせいだと思う。
その二の鉄を踏まないように、オレは日々努力しているワケです。
「で、結局今回はどこへ行くんですか?」
呆れたようにこちらを見る師匠の視線からすると……もしかすると、オレの努力は、無駄だと思われてるのだろうか。
そうだとすると、寂しいものがあるが。
「この国の北西にある、泉」
1度も違わず。
きっちりと北西の方向を指差すサクヤは、何故か、少し安心した様子だった。