箱
目が覚めると、何もない真っ白な部屋にいた。
部屋というよりは部屋ぐらいのサイズの〝箱〟と形容した方が正しいのかもしれない。その部屋には窓と呼べそうなものも、扉と呼べそうなものも概念としては存在しなかったからだ。
ただただ真っ白な空間。
ただただ真っ白な箱。
入っているのは僕だけ。
存在するのは僕だけ。
そもそもどうやって入ったのかも分からない。テスト前日に徹夜で課題を終わらせようとした僕は、いつの間にか眠りの谷に転がり落ちていき、ふと目が覚めればこんな空間に居た。
脈絡なんぞまるで無しに。
原因も理由も不可思議なままに。
こんな密閉空間に放り込まれていた。
自分がパジャマ姿のままで居ることが、酷く滑稽に思えた。
さてこれからどうしようか。この空間が密閉されているということは、このままでは僕は窒息死の可能性が少なからずあるということなのだ。
嫌だなあ。窒息。
苦しいし辛いし死んだときの姿もかなり残念なものになると、どこぞの安いミステリー小説で読んだことがある。失禁しながら喉を掻き毟って死ぬなんて真っ平ごめんだ。
しかし、そんな心配を余所に、僕の脳内は別のことをすでに思考し始めていた。
空腹のことだった。
勉強というのは殊の外エネルギーを消費するようで、脳みそが回転すればするほどエネルギーを消耗し、エネルギーの不足はそのまま空腹に直結する。
……お腹空いた。
しかし、何もないこの空間。外からも内からも開錠不可能な密室に閉じ込められた僕。勿論食べ物を得る手段など存在しているはずもない。
こりゃ窒息より先に栄養失調で死ぬかな、とか呑気に考えたその矢先に。
にゅうっ、と。
僕の足元の地面からコッペパンが〝生えてきた〟。
……は?
生えてきた、という表現もいまいちしっくり来ない。コッペパンが〝地面をすり抜けて〟僕の足元に出現した、とした方が説明としては適切かもしれない。説明という言葉を安易に使ってしまったが、正直それでも的を射ているとは言えない。このコッペパンが突然出現する現象を形容し得る日本語が存在するのかすらも怪しいぐらいに、このコッペパンは突然現れた。
よく給食でお世話になったコッペパン。高校生になったのでもう縁は無いに等しい。はずだった。
まさかこんな形で再会することになるとは。
僕はコッペパンを手に取った。そのふかっとした手触りも、焼き上げられた小麦の芳醇な香りも、まさしくコッペパンだった。普段こんなものがあっても僕は気にも留めずに他のおやつに手を伸ばすだろうが、この場に出現したコッペパンは、空腹の僕にとっては神の恵みにも等しかった。
一口噛りつく。小学校の時に給食の班で、好きな女の子と何故かコッペパンの話で盛り上がったのを思い出した。
幸せな思い出を掘り返せてなんだか幸せな気分になってくる。
じゃなくてじゃなくて。
満腹になった今、この現象を解明することの方が先だ。
コッペパンは僕が食べ物を欲した瞬間に現れた。それまでは何の変調もなかった部屋に突然、だ。
まるで部屋が僕に対して食べ物を差し出したようじゃないか。
本当にそうなら、僕の餓死はひとまず凌げることになる。
よし、ここは一つ実験だ。
「――喉が渇いたなあ」
わざとらしく独り言をいいながら、喉の渇きをイメージした。すると、足元にまた、地面をすり抜けるようにして、ぬっ、と紙パックが現れた。
牛乳だった。脱脂粉乳の混じっていない生乳百パーセント。
…………。
喉が渇きを訴えているのに対して牛乳を飲むなんて行為は、焼けるように熱い夏の海辺で鍋を頬張るにも等しい『現在の環境にそぐわない行為』だと思うのだが、でも一応は飲み物を差し出してくれた。
ここで敢えてもうひと実験。
「牛乳はまた喉が乾くから、オレンジジュースが飲みたいなあ」
すると、牛乳入りの紙パックはすり抜けるようにして地面に引っ込み(?)、すぐさま代わりに容量五百ミリリットルのペットボトルが出現した。一目見て確認できる中の液体は、オレンジ色だ。
慌ただしくそれを掴み、僕はキャップを開けて中身を一気に煽る。
よく知る果実の程よい甘みと酸味! 間違いなく、オレンジジュースだ!
これで一つ確信が持てた。この部屋は僕の要望を受けて食べ物を差し出してくれる。今度お腹が空いた時には、もっと複雑な食べ物が頼めるかを試してみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、急に走った寒気。否、寒いのだ。
十一月末の今。季節は冬に近づきつつあり、自宅ではパジャマ姿でぬくぬくと暖房の世話になっていた僕は、オレンジジュースですっかり身体を冷やしてしまっていた。
「しくじったな……」
これでは風邪を引いてしまう。
〝僕一人しか〟この空間に居ない以上、体調を崩してしまうのは非常に危険だと言えた。
「……寒っ」
僕がぶるっ、と体を小さく震わせた時、いきなり背後で金属の箱が落ちて地面に叩きつけられたような、派手な音が鳴った。僕は今度は寒さではなく驚きに身体を強張らせる。
振り向くと、投げ捨てられたかのように乱暴に、石油ストーブとおぼしき物体が転がっていた。
さっきの音から予想するに、上から落下してきたのだろう。天井までの高さは目測で二メートルほどあるから、ストーブの質量も手伝って落下の衝撃はそれなりに大きいものと言えた。
故障していないだろうか。少し心配だ。
それにしても、この部屋は食べ物だけではなくストーブも提供してくれた。つまりは、食べ物に限らずなんでもかんでもこの部屋は僕の〝想像〟したものを差し出してくれるということだ。つまり僕の想像次第では、理想の快適空間をここに形成できるかもしれない。
しかし、また問題が発生した。
「――これ、プラグはどこに挿せば?」
そう、単純な疑問。この部屋に電気なんて概念があるのか。
いや、その気になれば最悪、発電機とタップを〝想像〟すれば使えないことはないのだろうけれど、たかだかストーブを稼動させるのにゴツい発電機で部屋のスペースをとってしまうのは勿体無かった。だが、そんな考慮も杞憂に終わっていた。
何故ならプラグは、既に壁に刺さっていたからだ。
挿し込まれているのではなく刺さっている。
コンセントも何もなかった壁に。
ざっくりと。
「…………」
もう意味が分からない。
食べ物が出現しだした辺りだが、この部屋には論理というものが存在しない。
理屈も常識も、既存のものはまるで通用しない。
質量も体積も何もかもを無視して、当然現れる食べ物や機械。おまけにこちらの要望を聞き入れてくれるとまできた。
にしてもどうなってるんだ。このプラグは。
僕はプラグを引っこ抜いた。壁にはやはりコンセントが形成されていた訳でもなく、やはりただ白い壁のままだった。
僕はプラグを挿し込んだ。挿し込むってどこにだよ、ということに発想が至ったのだが、それもやはり杞憂に終わり、僕はプラグを壁に〝刺す〟ことができた。
ストーブの電源を入れていた。スイッチに反応して電子音が鳴り、ストーブから熱風がどんどん吐き出されていく。
電気も通っている。
だからどうなってるんだこのコンセント。
壁全面コンセントか。
論理の通じない部屋。
白い部屋。
常識を超えた部屋。
見識を超える部屋。
想像を現実にする部屋。
想像を創造する部屋。
謎は深まるばかりだった。
食べ物、ストーブと来て、次はテレビを頼んでみたが、頼んだ液晶のテレビは天井から地面に派手に叩きつけられ、その画面には蜘蛛の巣のような無残なヒビが入ってしまった。
「…………」
まあ、それはともかくとして。
それからの僕の行動は素早かった。ベッドやバスタブ、それにともなう水道やキッチン、しまいには部屋まで増設できた。もう要は想像さえできればなんでも造ってくれるらしい。
僕は着々と、意味の分からない空間で過ごす為の生活空間を創り上げていく。
当初の『窒息するのではないか』という疑問はすでにどうでも良くなっていた。
「……酸素が欲しい」
こうすれば解決するからだ。
***
時計を手に入れた日、つまりは僕がこの〝箱〟に来てから、既に十日が過ぎた。部屋は増設に増設を重ね、真っ白な部屋はもう真っ白な家になっていた。でも、未だに僕はこの空間の〝外〟には出たことがない。
真っ白な家はもはやちょっとしたショッピング施設だった。ここには僕の生活空間だけではなく、映画館やゲームセンターやファストフード店など、僕が住んでいた地域のショッピング施設を出来る限り、想像して再現していたからだった。
だが、足りなかった。どれだけ物に満たされても、どれだけ空間を広くしても、このだだっ広い空間には自分だけしか居ないという孤独感は拭えなかった。
青空は見えないし、星は輝かない。草花は生い茂らないし、太陽が眩しくない。そんな場所には動物も居ない。
勿論、人も居ない。
誰一人として居ない空間。
幾らゲームをしても忘れることができない、幾ら寝ても振り払うことの出来ない。
孤独。
独り。
ぼっち。
嫌だ。
正直、とっくに気は狂っているのだろう。ただ僕が狂っても、狂ったという認識をしてくれる人が誰もいないだけだ。
いやだ。いやだ、嫌だ。
嫌だ嫌だ。
寂しい。悲しい。苦しい。
この時、僕は既に解決策を見つけていたのだけれど、なかなか踏み出すことが出来なかった。僕が高校生に至るまでに育ててきた、倫理とか道徳が、僕にその行動を起こすのを躊躇わせていた。
でも、限界だった。
もう、独りは嫌なんだ。
僕が、創るしかないんだ。
僕は創造してあった本屋に入り、一冊の図鑑を手に取った。
それを何度も何度も見て、読んで、声に出して、出来るだけ知識を多く脳に詰め込んでいく。イメージが完璧に作り上げられるように、何度も何度も読む。
そして。
僕は想像して呟いて。
「――猫が欲しい」
――創造した。
足元で聞こえてきた、「にぃ」という泣き声。
見下ろすと、そこには確かに現れていた。
猫が。
イメージと寸分違わない、三歳の三毛猫が。
可愛らしい、可愛らしい三毛猫が。
とうとう、僕は想像した。
〝生命〟を。
***
月日が流れて、八十年。
儂はすっかりおじいさんになった。
あの後も、儂は想像――創造を続けている。
猫に続いて植物と動物、そしてそれらが生育できるような環境も作っていった。太陽だって月だって創った。
足りない知識は本で補完して、また創造した。
儂が〝創造した者たち〟は、儂の創造を模倣し、自身たちの創造と発展への礎とした。
儂が創造した者たちは、いつしか儂の作った世界を『地球』と呼ぶようになった。
儂の創造から生まれた者たちから、また一人、一人と生命が生まれ、育まれていく。
創りだした儂の手元から世界は独り立ちし、そして、世界は巡っていく。
そして。
おめでとう。
これを読んでいる君が、記念すべき七十億人目の、この部屋の〝人間〟だ。
「この世界が最初はただの真っ白な箱だったと言えば、君は信じるかい?」
閉じられた真っ白な世界は、これからも広がっていく。
[広がる〝部屋〟と想像する青年の話] お終い
貴方が立っているそのセカイは、ほんの小さな箱の片隅かもしれませんね。