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大空の第三者 〜八咫烏が辿る、関西80年の銀翼の記憶〜  作者: velvetcondor guild


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関空開港前夜 ― 二つの空が交差する夜

(語り部:黒羽ノ介)


海の島が“呼吸”を始めた夜

1994年9月3日、夜。明くる日の「関西国際空港」開港をひかえ、漆黒の大阪湾にぽつりと浮かぶ巨大な人工島は、まるで長い眠りから覚め、初めて命の産声を上げる巨大な生き物のように、静かに、しかし深く呼吸をはじめとった。


漆黒の闇を鋭く切り裂き、どこまでもまっすぐに伸びる滑走路の誘導灯


幾千の旅人を迎えるために、夜の海原へ眩いほどの光を放つ旅客ターミナル


挑むような冷たさを捨て、島全体を優しく撫でるように吹き抜ける潮風


水面に映る不夜城の輝きに引き寄せられ、祝福の輪を描いて舞う海鳥たち


わしは遮るもののない海の空を大きく滑空しながら、胸の震えを抑えきれずにいた。


「ついにや……。あの豆腐の泥沼が、人間の狂気と執念に折れ、これほど美しい空の器を完成させおった。」


かつてあれほど荒れ狂い、人間を呑み込もうとした海は、もうどこにもおらんかった。数々の沈下の試練を耐え抜いた土の島は、誇らしげに胸を張り、ただ静かに、天高くから銀翼の群れが降りてくるその瞬間を待っていたんや。


伊丹の空は“静けさ”の中で揺れていた

同じ時刻。南の海が歓喜の予感に震えているのとは対照的に、北にある摂津の、伊丹の空は、耳が痛くなるほどの不思議な静けさに包まれておった。


すべての気流が動きを止め、凍りついたようにピタリと止んだ風


月の光をぼんやりと遮りながら、低く重く停滞する薄雲


煤煙の消えかけた大気が、自らの歴史を噛みしめるように硬く沈む空気


滑走路の向こうで、いつもより物憂げに滲んで見える街の灯り


伊丹の空は、知っていたんや。数十年もの間、日本の高度成長をその翼で支え、同時に地上の街と激しく傷つけ合ってきた自らの「ひとつの役割」が、この夜を境に永遠に変わるということを。


深夜の整備場の片隅。老いた職人・森川は、役目を終えようとしている工具を握りしめ、静まり返った滑走路を見つめて深く、重い息を吐き出した。


「……明日から、伊丹はガラリと変わる。この空の匂いも、明日からはもう、同じやないんやな。」


その傍らで、空の風をその肌にまとった陽斗が、じっと夜空を見上げて呟いた。


「おやっさん。伊丹の空はな、寂しがっとるんやない。本当は……『まだここで、もっとみんなの夢を乗せて飛びたい』って、そう言うて激しく震えとる。でもな、自らの宿命(役割)が変わることを、静かに受け入れようとしとるんや。」


わしは格納庫の屋根から二人の背中を見つめ、低く鳴いた。


「陸の空が……数千年の誇りを胸に、静かに新しい覚悟を決めとるな。」


国際線の灯が消える瞬間

時計の針が、深夜0時を告げた。その瞬間、伊丹空港の歴史の半分を形作ってきた「国際線ターミナル」の明かりが、まるで一本の映画が終幕を迎えるように、ひとつ、またひとつと静かに消灯されていった。


幾千万の旅人が、未知なる世界への希望を胸に行き交った出発ロビー


異国の風を運んできた荷物が、無数に通り過ぎた薄暗い税関


別れと再会の涙が、幾度となく床を濡らした出国ゲート


世界中の航空会社のロゴが誇らしげに並んでいた、無人のカウンター


森川は、光を失っていく巨大なガラス窓を見つめながら、誰もいないロビーに響く声で呟いた。


「ここから……俺たちが命を吹き込んだ翼が、世界へ飛んでいったんや。何百回、何万回とな。あの爆音は、俺たちの血の音やった。」


陽斗は森川の肩にそっと手を置き、優しく、しかし確固たる声で言った。


「おやっさん。でもな、空は怒ってへんよ。人間を恨んでもおらん。ただ……街を愛するために、新しい道を選んだだけや。ここにある空は、これからは地上の人の安眠を守る、優しい空になるんや。」


1994年9月3日、24時。伊丹の空は、幾多の血と汗、そして怒号と祈りに満ちた『国際線の大いなる時代』を、静かに、そして気高く閉じたんや。


海の空が“目覚める”瞬間

伊丹の国際線の灯が消え去ったまさにその瞬間、南へ50キロメートル離れた関空の人工島では、まるで魂が入れ替わったかのように、海の風が劇的な変化を起こしていた。


それまで島を包んでいた夜霧が一気に晴れ、鏡のように穏やかになる群青の波


数百羽の海鳥たちが、一斉に天に向かって羽ばたき、歓喜の声を上げる洋上


水平線の彼方まで見通せるほど、クリスタルのように一瞬で澄み渡った大気


そして、深海から湧き上がるように、エメラルドグリーンに妖しく光る海面


偉大なる大阪湾の海は、世界中のすべての空の道を受け入れるため、その巨大な胸を大きく開いて吼えた。


『来たれ、世界の銀翼よ! 空よ! わしはここに、お前たちのための完璧な揺り籠を作った。何も恐れるな、この海へ、新しい世界へ、真っ直ぐに降りてこい!』


わしは洋上でその声を全身に浴び、あまりの神聖さに鳥肌が立つほど震えた。


「海の空が……数万年の眠りから、今、完全に目覚めおった……!」


陽斗、空の“二つの声”を聞く

その時、伊丹の滑走路の真ん中に立っていた陽斗の身体が、びくりと大きく震えた。彼は目を閉じ、まるで遠くの地鳴りを聞くように、激しく流れる夜風の中に指を突き立てた。


「……聞こえる。おやっさん、聞こえるよ。南の海が、狂ったように新しい空を呼んどる。ものすごい力で、世界中の風を引き寄せとるんや。」


森川は目を見開き、息子の横顔を凝視した。


「陽斗……お前、ここから関空の空の音が聞こえるんか……?」


陽斗は静かに目を開け、その瞳に夜明け前の星の光を宿して頷いた。


「伊丹の空は、これからこの街の暮らしに寄り添う『街の空』になる。そして関空の空は、どこまでも世界へと突き抜けていく『世界の空』になるんや。空はひとつやない。今、この夜を境に、美しく二つに分かたれたんや。」


わしは夜空の底から陽斗の姿を見下ろし、深く感嘆した。


「陽斗……あんたはもう、わしら神の使いの手を借りずとも、天の意志を、空の未来をその身ひとつで読み取れる、真の『語り部』になったんやな。」


伊丹の空が“影”から抜け出す瞬間

午前4時。夜明けの直前。


国際線という重荷をすべて海の島へと引き渡した伊丹の空は、まるで長年の呪縛から解き放たれたように、ゆっくりと、しかし劇的にその身体を軽くしていった。


煤煙を帯びた重苦しい大気が去り、どこまでも爽やかに吹き抜ける朝の風


街を押し潰すように低かった雲が、遥か天高くまで一気に吸い上げられ


爆音に怯えていた小鳥たちが、夜明けを祝福するように一斉に歌い始め


街の二重窓の向こうで、人々が窓を開け、清々しい朝の空気を吸い込む


伊丹の空は、何十年ぶりかの澄み切った声で、地上の人間に向かって微笑むように囁いた。


『私は……まだ終わらない。世界へ飛ぶ翼は譲ろう。けれど、この街の人々を乗せて、日本の空を繋ぐ役割は渡さない。私は、この街に愛される空として、新しく生まれ変わるのだ。』


わしは漆黒の大きな羽を広げ、朝焼けに染まりゆく滑走路へ向かって真っ直ぐに滑空した。


「そうか……。伊丹を苦しめ続けたあの長い『公害の影』は、消え去るための影やない。この輝かしい二つの空の時代を迎えるための、夜明け前の、一番に深い影やったんやな。」


夜明け ― 二つの空の時代が始まる

ついに、生駒の山の向こうから、燃えるような巨大な朝日が姿を現した。


その最初の光が関西の大地を照らし出した瞬間、南の「海の空」と、北の「陸の空」が、寸分の狂いもなく、まったく同じ黄金色の光の中に包み込まれたんや。


新しい世界の玄関口として、朝日に眩しくギラギラと輝く関空の島


激動の歴史を乗り越え、優しく、誇らしげに光を照り返す伊丹の滑走路


海と陸、二つの異なる宿命を持った空が、一本の美しい光の帯で結ばれた瞬間


わしは関西の天の最高峰へと舞い上がり、二つの空港をその両眼に焼き付けながら、高らかに声を枯らして呟いた。


「今日、この瞬間から――人間と空が紡ぐ、誰も傷つかない『二つの空の時代』が始まるんや!」


1994年9月4日。関西国際空港は堂々とその産声を上げ、伊丹空港は優しき街の港としての新しい命を得た。


古代から不変だった空の神話は、人間の情熱と自然の受容によって、この交差する夜を境に、完全に、そして最も美しく書き換わったんや。


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