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伊丹空港 ― 存続の危機と、血の通った対話
(語り部:黒羽ノ介)
1960年代前半:プロペラ機の時代 ― 空はまだ、軽く穏やかだった昭和30年代後半、ジェット機が本格就航する前の伊丹の空には、まだどこか牧歌的な空気が残っとった。
1日の発着回数は約150〜200回飛び交うのは「ブーン」という低いプロペラ音が中心音はすれども、人々の生活を根底から叩き潰すような暴力性はなかったわしは空の高みで、心地よい上昇気流に乗りながら思った。
「空はまだ軽く、風も穏やかや。人間と空が、お互いにちょうどええ距離を保っとる。」森川と少年も、のどかな田園風景の真ん中で、プロペラ機のエンジンカウルを愛おしそうに撫でながら、空を信じ切っていた時代やった
1964〜1969年:ジェット化の狂乱 ― 1日400回の轟音に、空が裂ける1964年、東京オリンピック。日本中が未来へ爆進したその瞬間、伊丹の空は未曾有の“地獄”へと突き落とされた。ボーイング727をはじめとする大型ジェット旅客機が就航したのだ。
騒音のエネルギーは、プロペラ機の数十倍発着本数は瞬く間に跳ね上がり、1日300〜350回、ピーク時は400回を軽く超えた3分に1回、雷鳴を遥かに凌駕する爆音が伊丹、豊中、池田の街を襲う森川は整備場で何度も耳を塞ぎ、顔を歪めた。
「なんやこれ……プロペラ機とは桁が違う。耳の奥まで引き裂かれそうや!」少年は、煤煙で濁り、引き裂かれる大気の粒子を肌で読みながら、胸を押さえた。「風がねじれて、狂ってます。空が……もの凄く痛がっとる。」
1969〜1975年:住民運動と撤去都市宣言 ― 街が空を拒絶した日空が受けた痛みは、そのまま地上の人間たちの「生活破壊」という名の血の叫びとなって空港を包囲した。
1969年、日本初の大規模空港訴訟である「大阪空港公害訴訟」が勃発する。「夜中の轟音で眠れない! 子どもが夜泣きしてノイローゼになる!」「家が四六時中揺れて、学校の授業の音がかき消されてしまう!」
1970年代に入ると、伊丹・豊中・池田などの周辺自治体が、ついに歴史的な包丁を突きつけた。「大阪国際空港撤去都市宣言」――街が、明確に空を拒絶したのだ。森川は「撤去」と書かれた新聞を握りしめ、拳を震わせた。
「俺たちが命がけで整備した機体が、誰かを苦しめとる……。でも、伊丹をなくすなんて、俺たちの誇りはどこへ行けばええんや!」少年は、夕日に染まる滑走路を見つめ、静かに涙を流した。「空は人を運ぶ……でも、近づき方を間違えれば、人を傷つける刃になってしまう……」
1975年〜:門限の導入 ― 空が“眠る時間”を得た1975年、激化する戦いに、国は世界で最も厳しい足枷をはめた。「午後9時から翌朝午前7時までの、一切の離着陸禁止(門限)」の導入である。
これにより、400回を超えていた発着本数は一気に約200回前後へと半減し、夜間便はゼロになった。
遅延による「門限破り」をした航空会社には、割増着陸料という厳しい“罰金”まで科された。
夜9時。すべてのライトが消え、静寂が伊丹の空を包み込む。わしはその漆黒の空を飛びながら、あまりの優しさに胸が熱くなった。
「……静かや。空が、何年ぶりかで自分の呼吸を取り戻して、やっと休んどる。」森川は、静まり返った格納庫で工具を磨きながらぽつりと言った。
「夜間整備は続くけど……空がこうして静かに眠れるようになったんは、ええことやな。」少年は夜風を頬に受け、優しく微笑んだ。
「ええ。空が……ホッとして、深く息を吸い込んでます。
罰なんて望んでへんけど、ただ、静かにしてほしいだけやったんです。」
昭和の終わりから平成へ:血の通った“対話と補償”の儀式街と空が、再び同じ大地の上で生きていくために。国と空港は、日本で最も大規模な、泥臭くも切実な「騒音補償対策」へと乗り出した。
それは、引き裂かれた空と人間が、もう一度歩み寄るための“贖罪の儀式”のようなものやった。
防音工事の全額補助(窓を閉めても生活できる街へ)騒音コンター(WECPNL)に基づき、周辺の家々に国がほぼ全額負担で防音サッシ、二重窓、防音ドア、そしてエアコンを設置していった。
森川は、整備室の窓から見える、二重窓に変わっていく周囲の住宅地を見つめて言った。「住民の痛みを、空が、そして俺たちの技術が全部背負わんといかん。もう一歩も、整備に妥協は許されんぞ。」
移転補償(買い上げと公共施設の移動)最も騒音の激しい地域の土地や家屋を、国が市価より高い価格で買い上げ、住民の移転を支援した。学校や保育園などの公共施設も、静かな場所へと移転していった。
学校の防音化と、取り戻した声小中学校の校舎や体育館に大規模な防音工事が施され、飛行機が通過するたびに授業が中断される悲劇は激減した。
少年は、防音壁の向こうから漏れ聞こえる、子どもたちの元気な笑い声に耳を澄ませた。
「……聞こえる。飛行機の音に負けないくらい、子どもたちの声が、ちゃんと空に届くようになりました。」
森川は少年の肩を叩いた。「固定資産税の軽減や健康調査までやって、街がどれだけ空港を支え、空港がどれだけ街に頭を下げてきたか……。
これが、この伊丹の現実やな。」
1990年代以降:関西空港開港と、伊丹の“現在地”
1994年、大阪湾の沖合に、騒音問題のない完全24時間運航の「関西国際空港」が開港した。
国際線はすべて関空へ移転し、伊丹の発着回数は一時的に約370回から250回へと激減、騒音状況は劇的に改善された。
世間は「これで伊丹は廃止、お役御免や」と噂した。
しかし――伊丹空港は、完全には消えなかった。
便利で、街に近くて、愛着のあるこの空を、人々は最後の手前で手放さなかったのだ。
わしは、美しく整備された現在の伊丹の空を大きく羽ばたきながら、確信に満ちて思った。
「空は、まだ伊丹を必要としとる。そして、地上の人間たちもまた、傷つけ合い、許し合ったこの伊丹の空を、心の底から愛しとるんや。」
伊丹の“門限前後の発着本数と補償”時代発着回数騒音状況主な対策・補償
黒羽ノ介の眼から見た空
1960年代前半150〜200回中程度なし(プロペラ機中心)空はまだ軽く、風も穏やか1964〜1969300〜400回超深刻住民運動の勃発(ジェット就航)轟音に大気が捩じれ、空が裂ける
1969〜1975350〜400回生活破壊公害訴訟・周辺自治体の撤去宣言空が無理をして、泣き叫んでいる1975〜1980約200回劇的改善門限導入・防音工事全額補助夜9時、空がようやく眠る時間を得た
1990年代〜約250回安定・共生関空開港による国際線移転・地域共生人間と空が痛みを乗り越え、共に生きる激動の歴史の激流のなかで、血を流し、怒りをぶつけ合い、それでも「防音サッシの二重窓」を挟んで、お互いの存在を認め合った街と空港。
その中心で、今もなお、森川の大きな手と、少年の風を読む優しい両手は、嘘のない完璧な翼を空へと送り出し続けている。
「あんたら二人の誇りが……この傷だらけで、世界一優しい伊丹の空の未来を、今もずっと照らしとるんやで。」




