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黒羽ノ介 ― 空の異変を深く読み取る
(語り部:黒羽ノ介)
空の“音”が変わった
ある日の朝、わしは伊丹の空の、誰も到達できぬほど高い場所を静かに舞っていた。
そのとき――わしの鋭い耳が捉えた空の「音」は、かつての黄金期のものとは、まるで違っていた。
吹き抜ける風の鳴り方が、やすりで削られたようにざらつき
千切れる雲の裂け方が、ガラスが割れるように鋭く尖り
大気の底から響く空気の震えが、地鳴りのように深く澱み
誇らしげに上昇していた気流が、何かの重圧に負けたように下へ下へと沈む
わしは全身の羽を硬く震わせた。
「……空が、明確に痛がっとる。」
あの眩しかった高度経済成長期の、どこまでも軽やかで優しかった空はもうどこにもない。いまの伊丹の空は、人間たちの欲望のすべてを、無言でその背中に抱え込んで煤けていた。
空の“呼吸”が乱れ始めた
わしはこの地に生きるすべての風の「呼吸」を読み、それを道標にして飛ぶ存在や。
そのわしの目から見ても、この日の空の乱れ方は、ただの天候の悪化や台風の予兆などでは決してなかった。
一定のリズムを刻めなくなった風が、あちこちで衝突し
一度ねじれた気流が、二度と元の滑らかな形に戻ろうとしない
鳥たちが恐れをなしたように、互いの距離を測りながら飛ぶ高度を激しく変え
雲が、見えない刃物で切り裂かれたように不自然に千切れていく
わしは荒れ狂う風の渦中で呟いた。
「空の呼吸が……完全に狂うてもうとる。」
これは自然の気まぐれやない。伊丹の空そのものが命を損なわれかけている、いわば“生命の機能不全”の現れやった。
次世代機がもたらした“不可逆の歪み”
人間たちが「ジェット時代の寵児」と崇めるあの美しく、速く、強大な次世代機。
しかし、あの怪物の放つ一筋の航跡は、太古の昔からこの地を包んでいた空の流れを、根本から、そして不可逆に変質させてしまっていた。
地上のすべてを巻き込むような、ジェットエンジンの強すぎる吸入
音の壁を打ち破らんとする勢いで、空気の層を容赦なく引き裂く暴力
排気熱によって、一瞬で雲の成分を変質させる熱量
自然が何万年をかけて作った風の行く道を、力任せに叩き潰す傲慢
わしはその目に見えない大気の破壊を、全身の羽毛で克明に感じ取っていた。
「あの美しい機体は……この空の秩序を、内側から完全に壊し始めとるんや。」
空の“痛み”が、わしの羽に伝わってきた
わしは、この伊丹の空を何百年、何千年にわたって見守り続けてきた八咫烏や。
空が傷つくということは、すなわちわしの肉体が引き裂かれるのと同じこと。
巨大な銀翼が滑走路を蹴って爆音とともに舞い上がるたび、わしの漆黒の羽は、共鳴するように微かに、しかし激しく震えた。
超高温の熱によって、空気が生々しく裂ける痛み
逃げ場を失った風が、狭い住宅地の間で悲鳴を上げる痛み
逃げようとする雲が、逃げ切る前に力任せに押しつぶされる痛み
わしは胸の奥を激しく抉られる想いで思った。
「空は……もうとっくに、耐えられる限界の際に近づいとる。」
華やかな黄金期の輝かしいスポットライトの裏側で、伊丹の空は誰にも気づかれることなく、静かに、血を流すように傷ついていたんや。
空の“声”が変わった
わしは、この大気が発する微細な「声」を聴くことができる。
その、かつては誇らしげに響いていた声が、この日を境に、完全にその色彩を変えてしまった。
プロペラ機がのんびりと飛んでいた頃の空は――
*『もっと高くへ飛んでこい』『もっと遠くの世界を見せてやる』*と、挑む人間を優しく励ますような、包容力に満ちた声やった。
しかし、いま風の合間から漏れ聞こえるのは、全く別の呻き。
『もう、身体が重くて支えきれない』
『喉が、熱気と煙で苦しい』
『お願いやから、ほんの少しだけでええ、静かにしてほしい』
『これ以上、私を切り裂かないで。休ませて……』
そんな、弱り果てた悲痛な懇願が、ちぎれた風の中に混ざってわしの耳へと流れ込んでくる。
わしはあまりの切なさに胸が締めつけられ、大空の真ん中で声を上げて鳴いた。
「空が……傲慢になった人間たちに、必死で助けを求めとる……!」
そして、わしは“未来の影”を見た
乱れる雲の隙間に向かって、わしが強く目を凝らしたその瞬間。
時空の歪みの向こう側に、これからこの伊丹を襲うであろう、暗く濃い「未来の影」が、はっきりと幻視えた。
地上を埋め尽くす住民たちの、耳を覆うほどの激しい怒号と、さらに増大する爆音
政治の嵐に巻き込まれ、次第にその翼をもぎ取られていく空港の縮小
街を避けるようにして、不自然にねじ曲げられていく新たな航路の迷走
そして、人間の都合に振り回され、ますます回復の兆しを失っていく空の破滅
それは、伊丹の空という存在そのものが、存続の危機という名の暗い奈落へ向かって、真っ逆さまに落ちていく未来の双六やった。
わしは冷たい風を吐き出しながら呟いた。
「森川、少年……あんたらの掴んだ誇りを、木っ端微塵に打ち砕くような、本当の試練の嵐が、もうそこまで来とるぞ。」
それでも、空は二人を信じていた
空の声は、確かに深い苦痛の底で喘いでいた。
しかし――その絶望の呻きの、さらに奥深く、最も純粋な核の部分には、かすかではあるが、絶対に消えない確かな「希望の光」が、灯火のように残されていたのをわしは感じた。
大気は、そのかすかな震えの中で、確かにこう囁いていたのだ。
『……けれど、あの二人なら。あの油に塗れた両手なら……きっと私を、ただ利用するだけやなくて、心から守ってくれる』
森川と少年。
時代がどれだけ荒れ狂い、技術が怪物の姿に変貌しようとも、未だに「空は嘘をつけへん」と信じ、その声に耳を澄まし続ける、愛すべき地上の仕事人たち。
わしは黒い羽を大きく広げ、乱気流を力強く捉え直した。彼らの未来を見つめるわしの瞳に、再び熱い灯がともる。
「どれだけ深い影が街を覆おうとも、あの二人こそが、この試練の先にある『人間と空の、本当の和解』という名の、新しい神話を紡ぎ出す者たちなんやから。」




