最終話 有罪、そして別件有罪
それでも証拠は残った。
幸いなことに、亡霊の話がどれだけ余計でも、鍵の記録と送金履歴と医師の所見は消えない。
真実はときどき、当事者の言動より丈夫である。ハムレットが何を叫ぼうが、帳簿は帳簿のままだし、署名は署名のままだ。数字と紙は、人間のようにブレない。
最終弁論が終わり、法廷は判決の日を待った。
数週間後。
冬の朝だった。空気が冷たく、息が白い。デンマーク地方裁判所の階段を上る人々の足取りは重く、しかし目は鋭かった。
傍聴席は前回以上に埋まっていた。立ち見まで出ている。歴史的な判決になるかもしれない、と誰もが思っていた。
裁判長が入廷した。
「静粛に」
法廷が水を打ったように静まった。
「被告人クローディアスに対する判決を言い渡す」
全員が息を止めた。
「主文。被告人を有罪とする」
法廷の空気が揺れた。
「鍵の貸出記録、医師の所見、薬品商への送金履歴、および当夜の被告人の行動に関する証言を総合し、被告人が先代国王を毒殺した事実を認定する」
クローディアスの顔から血の気が引いた。
弁護側が何か言おうとしたが、裁判長は続けた。
「なお、被告人の法廷での弁明は極めて不自然であり、特に"深夜の耳掃除"に関する説明は到底採用できない」
傍聴席で小さな笑いが漏れた。不謹慎だが、仕方ない。耳掃除の弁明は無理がありすぎた。
ガートルードは青ざめていた。
自分が再婚した相手が、亡き夫の犯人だった。その事実の重さが、今になってすべての重量でのしかかっている。
ホレイショーは胸をなで下ろした。長かった。帳簿を一冊ずつめくった日々が報われた。
ハムレットは拳を握った。
父の無念が、ようやく形になった。復讐は、ずいぶん現代的で地味な形になったが、いちおう果たされたのである。剣ではなく帳簿で。血ではなくインクで。
弁護士は静かに目を閉じた。
依頼人としては最悪寄りだったが、真実は真実だ。
* * *
ただし、そこで終わらないのがこの男だった。
裁判長は続けた。
「なお、ハムレット殿下については別件」
「別件?」
「ポローニアスに対する傷害、城内設備の損壊、複数回の騒擾行為について」
「そんな」
「執行猶予付き有罪相当」
「そんな!」
「そんなです」
傍聴席がどよめいた。
原告側が勝ったのに、原告側の中心人物も別件で有罪。こんな判決は見たことがない。
弁護士は小さくうなずいた。
当然である。ポローニアスを刺したのは事実だし、コピー機を壊したのも事実だし、城内で何度も騒ぎを起こしたのも事実だ。
叔父の有罪が確定しても、自分の罪が消えるわけではない。正義と免罪は別物だ。
* * *
裁判所の階段で、ハムレットは膝をついた。
冬の日差しがまぶしかった。階段の石が冷たかった。勝ったのか負けたのか、自分でも分からない状態だった。
「私は……勝ったのか……?」
ホレイショーが肩を叩いた。
「半分な」
「厳しい」
「いや、妥当だ」
「叔父を法的に倒したのに!」
「倒したのは主に検察と弁護士と書類だ」
「夢がないな」
「法廷に夢を持ち込むな」
そこへ弁護士がやってきた。
「お疲れさまでした」
「先生……私はどう評価されるのでしょう」
「依頼人としては最悪寄りです」
「率直」
「ただ、最初に剣で全部片づけようとしなかった点だけは良かったです」
「父上には復讐せよと言われました」
「実際には?」
「相談予約しました」
「そこだけは満点です」
弁護士は初めて、ほんの少しだけ笑った。
笑ったのを見たのは初めてだった。たぶん、これが彼女の最大限の称賛なのだろう。
* * *
ハムレットは遠くを見た。
「生きるべきか、訴えるべきか……」
「次回からは迷わず先に相談してください」
「はい」
「あと執行猶予中は大人しくしてください。次に何かやったら実刑です」
「怖い」
「怖がってください。それが一般的な市民感覚です」
日が傾いてきた。裁判所の影が長く伸びている。
レアティーズが近づいてきた。怒りの帰還を果たした男は、判決を聞いて少し落ち着いていた。
「殿下」
「レアティーズ」
「父の件は……まぁ、複雑だが」
「すまなかった。本当にすまなかった」
「ああ。だが父も盗み聞きなんかするからだ。あれは自業自得の側面もある」
「そういうことにしていいのか」
「よくない。だがそういうことにしないと話が進まない」
二人は妙な間で黙った。許しとは言えないが、拒絶でもない。そういう曖昧な距離感が、現実にはよくある。
オフィーリアは少し離れたところに立っていた。
「オフィーリア」
「……お疲れさまでした」
「お前にも迷惑をかけた」
「迷惑っていうか、もう人災ですけどね」
「返す言葉もない」
「返さなくていいです。今後気をつけてください」
「気をつける」
「本当に?」
「……努力する」
「その正直さだけは嫌いじゃないです」
オフィーリアは小さく笑った。疲れた笑いだったが、悪意はなかった。
* * *
夕暮れの向こうに、父王の亡霊がふっと現れた。
最後まで出る。出番が多いのである。死後の労働時間を考えると、かなりブラックな亡霊だ。
「ハムレットよ……」
「父上!」
「なんか思っていた復讐とはずいぶん違ったが……」
「すみません」
「剣での決闘を期待していたが、帳簿で決着がつくとは」
「時代です」
「ずいぶん地味な復讐だったが……」
「地味ですか」
「だが、全員死ぬよりは良い」
亡霊は少し笑った。
「原作だとここで、お前も死ぬし、あの子も死ぬし、あいつも死ぬし、ほぼ全員死ぬのだが」
「全員死ぬんですか原作」
「悲劇だからな」
「現代法のおかげです」
「あとお前、途中かなり邪魔だったぞ」
「父上まで」
「亡霊の証言が使えないのは仕方ないが、お前が自分で余計なことをするたびに事態が悪化していた。見ていてはらはらした」
「死んでるのにはらはらするんですか」
「する。死んでも心配は消えない」
亡霊は遠くを見た。死んでいるのに遠くを見る表情ができるのは、演技力なのか習慣なのか。
「まぁ、よくやった」
「ありがとうございます」
「思っていたのとは違うが、わしの無念は晴れた」
「はい」
「帳簿で晴れるとは思わなかったがな」
「帳簿は強かったです」
「強かったか」
「剣より強かったです」
亡霊は少しだけ笑い、霧の向こうへ消えた。
今度こそ、最後の退場だった。たぶん。
* * *
ハムレットはしみじみと言った。
「迷いながらでも、法に持ち込めば、何とかなることもあるんだな」
ホレイショーは首を振った。
「いや、お前はかなり"何とかならない側"だった」
「うるさい」
「真実には辿り着いたけど、手段の九割が事故だったな」
「事故?」
「事故だ。狂人のふりは事故。芝居は事故。ポローニアスは事故。法廷の亡霊発言も事故。正解に辿り着いた過程の大半が事故だ」
「名探偵では?」
「迷探偵だよ」
ハムレットは苦笑した。
「迷探偵か」
「迷探偵だ」
「でも、解決はした」
「解決したのは検察と弁護士と帳簿だ。お前は解決を妨害しつつ偶然ゴールに辿り着いた」
「言い方」
「事実だ」
二人は笑いながら裁判所の階段を下りていった。
長い戦いだった。
優雅ではなかったし、かっこよくもなかった。
途中で何度も転び、何度も怒られ、何度も失敗した。
だが、全員が生きている。
原作では大半が死ぬ物語を、誰ひとり死なせずに終わらせた。
それだけで、十分だ。たぶん。
* * *
翌日。
デンマーク地方裁判所の掲示板に、新しい張り紙が貼られた。
【お知らせ】
庁舎内で亡霊を見かけても、供述調書の作成はできません。
また、亡霊の証言は証拠として採用されません。
亡霊に関するご相談は、お近くの心療内科または宗教施設をご利用ください。
デンマーク地方裁判所 庶務課
その張り紙の横に、誰かが小さく書き足していた。
「でもたまに、亡霊の言うことは本当です」
筆跡はハムレットのものだった。
デンマーク地方裁判所は、今日もだいたい平和だった。
――了




