第11話 黙っていれば勝てた男
弁論は順調だった。
驚くほど順調だった。
ハムレットが何もしていないからである。
人はときどき、何もしないことで最大の貢献をする。何もしないでいるだけで事態が好転するという経験は、普通の人生ではなかなかない。
だがハムレットに関しては、何もしないことが最善手なのだ。
検察側の追及は正確で、弁護側の反論は苦しかった。証拠が積み重なるたびに、クローディアスの顔色が曇っていく。
法廷の空気は「有罪」の方向にゆっくりと、しかし確実に傾いていた。
休廷中、弁護士がハムレットに近づいた。
「いいですか」
「はい」
「もう何もしゃべらないでください」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
「立ち上がらない」
「はい」
「叫ばない」
「はい」
「叔父を睨みすぎない」
「……努力します」
「亡霊の話をしない」
「しません」
「その"しません"が一番信用できません」
「ひどい」
「これまでの実績です」
実績。
確かにハムレットの実績は惨憺たるものだった。ネクタイを頭に巻き、植物を尋問し、芝居で嫌がらせをし、人を刺した男の実績だ。信用残高がマイナスになっている。
弁護士は静かに言った。
「あなたは黙っている時が一番真実に貢献しています」
「そんな主人公がいるか」
「ここにいます」
ハムレットは唇を噛んだ。反論したかったが、反論すること自体が弁護士の主張を裏付けてしまうので、黙った。
* * *
午後の審理が始まった。
検察側の追及が最終段階に入る。
「以上の証拠を総合しますと、被告人には動機、機会、手段のすべてが揃っています。鍵の記録が機会を、送金記録が手段を、王位継承が動機を示しています」
検察官は落ち着いた声で締めた。
「被告人は先代国王を毒殺し、王位と王妃を奪ったものと考えられます」
法廷が静まった。
クローディアスの額には汗が浮かんでいた。弁護側は最終弁論で反論を試みたが、勢いがなかった。証拠の壁は厚かった。
あと少しだった。
あと少しで詰む。
ホレイショーは安堵の息を吐きかけた。
弁護士は次の手続きの準備をしていた。
傍聴席は固唾を呑んでいた。
そして――
その時だ。
ハムレットが勢いよく立ち上がった。
「裁判長! 一言よろしいでしょうか!」
弁護士が青ざめた。
ホレイショーが目を見開いた。
傍聴席がどよめいた。
「座ってください!」弁護士が小声で叫んだ。小声で叫ぶというのは矛盾しているが、法廷ではそういう不自然な発声が求められることがある。
「しかし真実を!」
「あなたは黙っている時が一番真実に貢献しています!」
「しかし――」
「座ってください!」
それでもハムレットは止まらない。
この男のブレーキは、最も重要な場面でこそ機能しない。平常時には弁護士の助言を守れるのに、感極まった瞬間に全ての約束を忘れる。
「私は最初から確信していたのです! なぜなら父の亡霊が――」
法廷が凍った。
完全に凍った。
裁判長が眼鏡を外す。
「今、何と?」
検察官がペンを落とした。
ホレイショーは顔を覆った。両手で覆った。五本の指の隙間からでも見たくなかった。
弁護士は静かに机へ額をつけた。
「額をつける」という行為は通常であれば眠気か疲労の表現だが、この場合は明らかに「絶望」だった。
傍聴席が騒然となった。
「亡霊?」
「亡霊って今言った?」
「ほら、やっぱりおかしい人だったんだ」
そしてクローディアスだけが、ほんの少しだけ元気になった。
追い詰められていた男の目に、生気が戻った。この裁判が始まって以来、初めて彼が微かに笑みを浮かべた瞬間だった。
「ほら見ろ! あいつは妄想に取り憑かれている!」
クローディアスが叫んだ。弁護側が息を吹き返した。
「違います! 妄想ではなく父上です!」
「その説明はなお悪い!」
「父上が現れて全部教えてくれたんです!」
「見えない人の話を証拠にするつもりか!」
裁判長が木槌を打つ。
「静粛に!」
バンッ!
「静粛にと言っています!」
法廷は静かになったが、静かになっただけで、空気は完全に壊れていた。
「今の発言はどういう意味ですか」
裁判長がハムレットを見た。穏やかな目ではなかった。
弁護士が立ち上がった。
「裁判長、当方依頼人は強い精神的負荷のもと、比喩的表現を――」
「比喩ではありません!」とハムレット。
「黙ってください!」と弁護士。
「ほんとうにいたんです!」とハムレット。
「今それを主張する必要がどこにあるんですか!」と弁護士。
「でも父上が――」
「お父さまは証拠の中にいらっしゃいます! 帳簿と診療記録の中に! テラスの霧の中にはいません!」
弁護士の声が大きくなった。彼女がここまで声を荒げたのは初めてだった。
法廷は、あと一歩で美しく終わるはずだったものが、依頼人本人の自爆により台無しになるという、弁護士としてあまり見たくない典型例に包まれた。
裁判長が整理する。
「弁護人、依頼人の発言はどう整理されますか」
「精神的に極度の緊張下にあり、表現が不適切になったものです。証拠に基づく主張には何ら影響ありません」
「被告側は」
「原告側の中心人物が"亡霊に会った"と公言しています。これは原告側の信用性に重大な疑義を生じさせます」
弁護士は歯を食いしばった。
クローディアスの弁護団が勢いづいている。ハムレット一人の発言が、何週間もの準備を揺るがしかけていた。
だが、証拠は消えない。
「裁判長」
弁護士が冷静に言った。
「証拠は物的なものです。鍵の記録は紙です。送金履歴は数字です。医師の所見は専門家の記録です。告発者の個人的な精神状態がどうであれ、証拠の客観性は影響を受けません」
その通りだった。
証拠は証拠だ。帳簿は帳簿だ。ハムレットが亡霊を見ようが見まいが、鍵の記録は消えない。
裁判長はしばらく考え、うなずいた。
「証拠の審理は継続します」
弁護士が席に戻った。
ハムレットに目もくれなかった。
休廷後、弁護士はハムレットの前に立った。
「先生、すみません」
「謝罪は受け取ります。ですが、あなたが法廷で『亡霊』と叫んだ事実は消えません」
「証拠は大丈夫ですか」
「証拠は大丈夫です。あなたの評判は致命傷です」
「つらい」
「あなたは黙っている時が最も有能です」
「さっきも言われました」
「何度でも言います。事実なので」




