闇に閉ざされた神殿で、私が守り続けたもの
――あの日、あのときに言われた一言が、今もわたくしの心に楔として打ち込まれている。
祝福でもなく、優しい温かな言葉でもなく、呪詛のような忌まわしい台詞。
とてもではないけれど、まだ年端もいかない幼子たちに向けるような言葉ではない。
ましてや、慈善活動を是とする神殿にはあるまじき言動。
この世界は歪みきっている。
わたくしは神殿内にある自室でそっと、溜息をついた。
あの子たちがわたくしのもとからいなくなり、かれこれもう三日がすぎていた。
けれど、たった三日しか経っていないというのに、すでに数ヶ月が過ぎ去ってしまったかのような、そんな空虚な気持ちとなっていた。
胸の中にぽっかりと穴が空いてしまったかのような、そんな虚無感。
いつもそこにあったはずの笑顔が陽炎のように消えてしまい、思い出すたびに心が寒くなってくる。
……ダメですね、本当に。
あの子たちと約束したではありませんか。
お互い前を向いて歩いていきましょうと。
わたくしは別れ際に目にしたあの子たちの笑顔と、交わした言葉を脳裏に思い描きながら、薄らと笑った。
そして、両頬を軽く叩いて気合を入れたあと、腰まである長い金髪と神官衣を軽く整えた。
姿見で確認しながら、無理して平静さを装ってみせる。
時刻は朝の七時頃。
本日も業務が立て込んでいる。わたくしは軽く深呼吸してから、自室がある高位の女性神官向け宿舎をあとにした。
部屋を出たわたくしは、その足で朝の礼拝、儀式、たまっていた書類仕事などの雑務をてきぱきとこなし、そのうえで、会いたくもないあの人がいる神殿長室へと足を向けた。
室内に入ると、神殿長補佐官のシュレーゲンや、他のお偉方上位神官の何人かが勢揃いしていた。
彼らは特に興味すらないといった感じでわたくしに一瞥をくれただけで、すぐさま執務机についていた神殿長と業務の打ち合わせを再開する。
ここに集まった彼ら男性神官たちは皆、上級貴族ということもあり、下級貴族出身で、さらに二十三歳と年若いわたくしをどこか軽んじている節がある。
けれど、一応、わたくしの実家が高名な魔術師一族ということもあり、ないがしろにされることはない。
これもすべては、このグローエンヴァルト王国の六大魔術師の一角に数えられる父やご先祖様あってのこと。
自らが築き上げてきた力などでは決してない。
「――で? ジョアンナ・クロイツ。何用だ?」
相変わらず、いつもどおりの横柄な態度を見せる部屋の主、六十近い年の頃の神殿長ガークス・エル・ヨハンセンが、鬱陶しそうにしながらわたくしに声をかけてきた。
どうやら話が一段落ついたらしい。
神殿長の前に並んで立っていた上位神官たちが道を空けてくれている。
「……はい。本日午前の業務がすべて、滞りなく終わりましたことをご報告にまいりました」
「ふん。そうか。まぁ、終わらせるのは当然よな。それくらいのことができなければ、下級貴族出の貴様なんぞ、いる価値などないのだからな」
そう言うと、神殿長は嫌みなほどに表情を歪めて鼻で笑った。
……本当に相変わらずですね、この人は。
こんな男がのさばっているから……。
わたくしはわき上がる怒りを抑えながらも、努めて冷静を装う。けれど、
「まぁだが、貴様も大変よな」
「はい?」
「あんな獣のような下賎な輩どものお守りなんぞさせられて、さぞ大変だったろうと、そう申しておるのだ。あんのクソ女のせいで、どれほど神殿の規律が乱れたことか。ホンに嘆かわしい」
言葉どおり、恰幅のいいこの御仁は大仰なまでに両手を広げて肩をすくめてみせた。ですが、
――あなたが大事にしているのは神殿の規律ではなく、貴族社会でしょうに。
喉まで出かかった言葉を飲み込むのに苦労した。
そんなわたくしの心情など知りもしないで、この男はなおも続ける。
「で、だ。どうだ? お前も疲れていることだろう。いくらでも暇をくれてやるゆえ、実家で休んできたらどうだ? あぁ?」
「はい? ……実家……ですか?」
……なるほど。そういうことですか。
大方、あの一件があったあとだから、わたくしの顔など見たくはないということなのでしょう。
ですがおあいにく様。
それはわたくしも同じ気持ちです。
「……わかりました。ではお言葉に甘えまして、そのようにさせていただきます。期限は……そうですね、ひと月ほどいただけますでしょうか?」
そのくらいあれば、わたくしのもとから巣立っていったあの子たちのために、何かできるかもしれない。
そう思ったのですが、
「ひと月だと?」
「やはり、多いでしょうか?」
「はン。多いも何も、なんなら二度と戻ってこんでもよいぞ?」
そう言うと、これ以上ないといわんばかりの気色悪い笑みを浮かべた。
わたくしは……震える身体を懸命にこらえながらも、適当に誤魔化し、部屋をあとにした。
実家に戻ったわたくしは、早速事の経緯を報告すべく、執務室で仕事をしていた父のもとを訪れた。
「……そうか」
質実剛健、絵に描いたような寡黙な老人。
以前より逐次神殿内の状況は報告していたため、淡泊な父の反応は想定内だった。
この国の貴族社会が腐っていることを誰よりも嫌悪している。
それが父という人間だった。
だから、腹の底が見えない態度しか示さないものの、その短い受け応えの中に秘められた想いがどこにあるのか、わたくしには痛いほどよくわかる。
三人いる兄姉同様、家族を愛してくれている父。
たった一言しか返ってこなかったけれど、それが父なりの不器用な愛情表現だということを誰よりも知っていた。
……本当に、この人も相変わらずですね。
わたくしは薄く笑った。
父への挨拶もそこそこに、久しぶりに戻ってきた自室は、とても掃除が行き届いていた。
埃ひとつ見られない。
一応我が家は名門貴族の端くれ。
侍女なども多く抱えているため、滅多に戻ってこられないわたくしの部屋も、当然のように毎日綺麗にしてくれているのでしょう。
ありがたいことです。
わたくしは広々とした室内をひととおり見渡したあと、広大な中庭が見渡せる大きな窓辺へと歩み寄った。
そしてふと、左手を見る。
部屋の角。そこには、あの子たちから預かった荷物が大切に保管されていた。
「あれも……片付けないといけませんね」
包み紙にくるまれたそれらへと近寄り、丁寧に紐解いていく。
あの子たちが着ていた服。
あの子に読み聞かせてあげていた聖書や学問などの書物、絵本。
そして――
わたくしは一際大きなぬいぐるみを見つけて、懐かしさのあまり、クスッと笑ってしまった。
いなくなってしまったあの子が大切にしていた、たくさんのぬいぐるみ。
その中でも一番不格好で薄汚れていて……ですが、あの子が一番気に入ってくれていた火トカゲのぬいぐるみ。
『これ、ジョアンナがくれた、初めての。だから大事』
いつも笑顔を浮かべながらそう話してくれた、少し変わった女の子。
――オル=レーリア。
わたくしはその赤いトカゲをなでながら、遠い過去の記憶を静かに呼び覚ましていった。
◇
七年前のあの日。
当時十六歳だったわたくしは、神官になったばかりということもあり、慣れない毎日に戸惑うことばかりだった。
当然、まだ位も低く、下位神官として日常業務に忙殺される毎日。
そんなことの繰り返しに、未来を見出せずにいたことを今でも覚えている。
けれど、女神様はおそらく、それを見ていてくださったのでしょう。
ある日、そんな状況の中、わたくしたちが勤める神殿都市ザルツークへと、あの方が姿をお見せになったのだ。
この国が国教と定めるノルド聖教会の総本山、ノルドアイシス聖教国の聖都から巡察しに来られた、教会ナンバースリーに位置する大聖女様が。
当時、すでに神殿長の座に着いて威張り散らしていたガークスだったけれど、さすがにあの方も、自分より遙かに位の高い女性に逆らうことなどできるはずもなく、皆がその場にかしずいた。
彼女が従えていたのは護衛する神官戦士や高位の神官、従属する聖女たち。
その数、五十人は下らないほどの一団だった。
抜き打ちの巡察ではなかったから、事前に見られると困るところはすべて覆い隠し、対策を講じていたけれど、やはりあの方には通じなかったのでしょう。
『神殿内の腐敗、一部の神官たちの日常の乱れや言動』
それらすべてが厳重注意となった。
あのごうつくばりな神殿長ですらまったく反論の余地が与えられず、ただ脂汗を流しているだけだった。
あの当時はただ、緊張することしかできず、そんな神殿長たちの言動になんとも思わなかったけれど、今にして思えばただ、ざまぁの一語に尽きる。
ですが、そんな厳しい人だったけれど、一方では誰に対しても分け隔てのない、公明正大な方だった。
上位神官、下位神官のみならず、平民で構成されていた下働きの侍女官たちにも、公平に接してくださった。
正しい行いをした者には優しい声がけをし、ずるをした者に対しては厳しい姿勢を見せた。
そして、そんな彼女が連れていた当時三歳だった幼子が、例のオル=レーリアと名付けられたかわいらしい白銀の髪の女の子だった――
「――あなたは本当によくできた神官です。駆け出しとのことでしたが、十分によく働き、この国の貴族とは思えないほどの品行方正な振る舞い。信用に足る人物です」
臨時で行われた大聖女様による、民へ祝福を分け与える聖礼の儀の折、わたくしはあの方から唐突に声をかけられた。
あのときは本当に驚いたことを今でも覚えている。
「……もったいないお言葉です。わたくしなど、本当にまだ何もできない未熟者です」
「そのようなことはありません。わたくしの見立てだと、この神殿で唯一まともな貴族はあなたくらいなものではないかしら」
皮肉めいた笑みを浮かべられたあの方はそのようにおっしゃったあと、手を引いてらした小さな子供をわたくしへと差し出してこられた。
「この子の名はオル=レーリア。わたくしが見出した希有な才の持ち主です。おそらく希代の大聖女になれるやもしれぬと、そう期待している娘です」
「希代の……?」
「えぇ。ですから、あなたの真面目さを見込んで頼みます。この子を育て、正しい道へと導いてあげてはくれませんか?」
「え……!」
にっこり微笑む大聖女様と、彼女の右手を握りしめながら、右の人差し指をしゃぶってぽかんとしていた白いローブを着込んだ小さな女の子。
そんなふたりを前に、わたくしが茫然としたのは言うまでもありません。
ザルツーク内で蔓延していた病などがひととおり収束したのを受け、大聖女様たちは次の目的地に向けて、旅立っていかれた。
けれど、当然そこに、オル=レーリアの姿はなかった。
なぜならば……。
「こらっ。どうしてあなたはいつもそうなのですか、オル=レーリア。脱いだ服はきちんとたたみなさい」
次代の聖女を養育するという名目で、多くの神殿で育てられている聖女候補のひとりとして、ザルツークで新たに生活することになった彼女は、あの方の言いつけどおり、本当にわたくしが面倒を見ることになってしまった。
子育ての経験など皆無だというのに、そのうえこの子は一癖も二癖もある食わせ者だった。
すでに面倒を見始めて一週間も経つというのに、一向にここでの生活に慣れる気配が見られない。
今まで大聖女様がどのように接していたのかわからなかったけれど、朝もしっかり起きられなければ、脱いだ服もそのまま。
ましてや自分で着替えることもできず、薄衣のまま、彼女のために用意された真っ白で何もない広い室内を駆けずり回る日々。
食事も自分では取れず、着替え同様、わたくしがすべて面倒を見なければ生活が成り立たないという有様だった。
はぁ……本当に困ったものです。
これでは、わたくしの通常業務にも差し支える。
三歳の子供というのは皆、このように何もできないのでしょうか?
思わず途方に暮れてしまった。
本来なら、聖女候補や上位神官には側仕えとなる侍女官が何名か付くのですが……。
『そのようなものは必要ない。お前がすべて面倒見よ。あのクソ女にそう申し使ったのであろうが』
今回の一件を報告したところ、神殿長はさも嫌そうな顔を浮かべて、それしか言わなかった。
どうやら、大聖女様が連れていた子供と言うだけでなく、出自も明らかではない孤児だったため、貴族至上主義者の彼は、オル=レーリアのことを煙たがっているようだった。
そのせいで、わたくしひとりで面倒を見なければいけなくなったという。
はぁ……。
本当に……。神殿長もそうですが、みなさん、いったい何を考えておられるのか。
つい最近まで親の庇護下にあったわたくしにどうしろと。
育児の大変さを実感し、この上なく辟易しつつも、改めて、ここまで育ててくれた両親への感謝の念が強く込み上げてきた。
わたくしは、「ぶ~ん」と奇怪な声を上げながら部屋中を走り回っている三歳児を見て、そっと、溜息をつくのだった。
――しかし、このときのわたくしはまだ知らなかった。この程度の苦労など、序の口に過ぎないということを。
数日後の午後。
昼食の後片付けから戻ってきたわたくしは、今後どのように養育すべきか考えあぐねながらも彼女の部屋を訪れ、唖然としてしまった。
両腕を大きく広げながら、こちらをゆっくり振り返る幼子。
――木っ端微塵に砕け散った、家財道具だったと思われる大量の残骸。
そう。本来この部屋に備え付けられていたはずの机や本棚、サイドテーブルの類いはどこにも見られず、ただ木片などの残骸だけが、自らを誇示するように、床の上に散乱していたのである。
「いったい何が……」
正気に返ったわたくしは大急ぎで彼女に取りつき、どこも怪我をしていないか確認した。
特注品の小さな神官衣にも身体にも、いっさいの傷は見当たらない。
「オル=レーリア。いったい何があったの言うのですか? この惨状はいったい」
しゃがみ込んでじっと顔を覗き込むも、きょとんとしていた彼女は小首を傾げながら、ただ一言、
「ちゅど~ん」
それだけしか返してこなかった。
意味がわからず、しばらく固まっていたけれど、その言葉の意味を理解したとき、全身に悪寒が走った。
大聖女様が何をもって、この子のことを『希代の大聖女』とおっしゃったのか、ようやくその真意を悟ったからだ。
ノルドの秘蹟と呼ばれる神聖魔法を使う資格が与えられる儀式。
それを受け、初めて行使可能となる数多の奇跡。
「まさか……神聖魔法で分解したとでも言うのですか……?」
自問自答するようにそう問いかけたわたくしに、彼女は相変わらず、ぽかんとするだけだった。
その日以来、わたくしの彼女を見る目が百八十度変わったことは言うまでもない。
とんでもない子供を押しつけられてしまった。
本来、神聖魔法はこのような年端もいかない子供が扱えるものではない。
わたくしは神官であると同時に、魔術師の教養も身につけていたので、そのことをよく理解している。
魔術ですら、五歳くらいから勉強を始め、修練を積んでいかなかければならないというのに。
神の奇跡である神聖魔法はそれ以上に曲者と聞いている。
たとえ、ノルドの秘蹟を受けたとしても、生半可な技量で扱えるものではない。
どこでどのように覚えたのかはわかりませんし、大聖女様が積極的に教育なさったのかもしれませんが、この年ですでに、神聖魔法による攻撃魔法が使えるだなんて……。
万が一取り扱いを間違えたらとんでもないことになってしまう。
どうすればいいか。
大聖女様がどこまで彼女に神聖魔法や神官の教育を施されたのかわかりませんが、慎重に面倒を見なければ、いろいろな意味でまずいことになる。
まずは……そうですね。
魔法や聖女候補としての責務や義務などはまだ教えるような年齢ではないから、とりあえずは、ひとりの女の子として、最低限の常識を教えながら養育することを優先した方がいいのかもしれない。
わたくしはそう自分に言い聞かせるようにし、窓の外を眺めていた視線を後ろへと振り向かせ――そして固まった。
「ごろごろごろ~……」
謎の言葉を発しながら、小さな女の子が文字通り床の上を転がっていたからだ……。
「はぁ……」
気合を入れて彼女の面倒を見ると心に誓ったものの、あれから数ヶ月しても彼女は一向に捉えどころがなく、わたくしに慣れてくれる気配は見られなかった。
彼女の面倒は想像以上に大変だった。
聖女候補としての責務はいっさい考えないとしても、それ以前に、常識がいっさい通じず、まともな受け応えすらままならなかったからだ。
相変わらず着替えもダメ。
お寝坊さんも治らない。
年齢がまだ三歳だからということもあり、ひとりにしては置けなかったから、結果的にわたくしがこの部屋に移ってきて寝食をともにすることになりましたが、隣で寝ている彼女を揺すっても、まったく起きない。
食事だってこの子、とんでもない野菜嫌いで、お肉しか食べないという偏食振り。
そのくせフルーツや菓子類は積極的にほしがる。
その偏食を治そうと試みたものの、それをすると途端に機嫌が悪くなり、暴君と化してしまう。
はぁ……。
溜息しか出なかった。
もしかして大聖女様、これが嫌で手放したのではないでしょうね?
なんだか十分すぎるくらいありそうな気がして怖くなってしまった。
「オル=レーリア。新しいおもちゃを買ってきましたよ。これで遊んでみてはどうですか?」
わたくしはなんとかご機嫌を取ろうと、事あるごとに積み木やパズル、絵本、ぬいぐるみなどを買ってきては、彼女となんとか仲良くなろうと試みましたが、すべて徒労に終わってしまった。
一時は興味深げに眺めているものの、すぐに床に放り投げて、例によってごろごろ転がったり、魔法を詠唱しかけて慌てて止めに入ったりと、そんなことの繰り返し。
……これ、本当にわたくしひとりの手で、育てることってできるのでしょうか?
そんなことを思いながらも、未来に希望が見出せず、途方に暮れながらも、さらにひと月ほどが経過したある日のことだった。いきなり転機が到来した。
いつものように、昼間、部屋の片付けなどをしていたときに、妙な視線を感じた。
オル=レーリアだった。
彼女は本棚の整理をしていたわたくしではなく、棚をじっと見つめていた。
「どうしましたか?」
優しく問いかけると、
「それ、なに?」
ただ一言、それだけが返ってきた。
わたくしは彼女が指さしていた場所を見つめた。
そこにはひとつの小さなぬいぐるみが置かれていた。
「あぁ、これですか? あまりうまくできず、不格好なので気恥ずかしいですが、聖書や聖典を読むときに使っているしおりのアクセントにちょうどいいと思いまして。それで、付けているのですよ」
すぐ側まで近寄ってきて小さなぷっくりとした両手を差し出してきた彼女の掌の上に、しおりに付けていた小さなリスのぬいぐるみを置いた。
彼女は珍しく壊れないように大事に持ちながら、興味津々といった感じで眺めていたけれど、
「これ、ジョアンナ、作った?」
きょとんとしながらそんなことを聞いてきた。
わたくしはにっこり微笑むと、
「えぇ。そうですよ。あまり手先が器用ではありませんから、うまくできませんでしたが」
そう苦笑してみせましたが、
「ううん。十分。これ、かあいい。リアも、こういうの、ほしい」
そう言って、彼女はにこっと笑った。
わたくしはそのときの笑顔を、生涯忘れることはできないでしょう。
なぜなら、彼女がわたくしに向けてくれた、初めての愛らしい微笑みだったからです。
きっかけとは本当に恐ろしいもの。
『何が転機となるかわからないからこそ、人生とは面白い』
おそらく、偉大なる父であれば、そう言うでしょう。
今だったら少しだけ、理解できる。
しおりに付けたぬいぐるみの一件以来、オル=レーリアとの距離が急速に縮まったように思える。
今まではどこか信用されていない感じで、彼女の方から近寄ってくることはなかったけれど、数日経った今では、特に用がなくても、彼女自らが歩み寄ってきてくれることの方が多くなっていた。
わたくしが手作りしたあのような出来損ないではなく、買い与えたクマのぬいぐるみなどの方が余程出来映えがいいというのに。
あれのどこに興味を持ってくれたのかはわかりませんが、やはり人とは感性が違うということなのでしょうか。
そんなことを思いながらも、机に向かって、神聖魔法の教本である聖典を勉強していると、
「ジョアンナ」
ひょこひょこ歩み寄ってきたオル=レーリアが、じっと見つめてきた。
「どうかしましたか?」
「ん。前に言ってた、お人形、リアも作りたい」
「え……」
一瞬何を言われたのかわからず茫然としていると、彼女はにかっと笑って、短い両腕を目一杯広げた。そして、
「こ~んな、おっきい、お人形、作りたい。ここに来るとき、見た、魔物のお人形」
「え……!? ま、魔物……ですか?」
「そ、魔物。よく知らないけど、かっこよかった。だから、あれほしい」
「……かっこいい、ですか……?」
この子の感性がどうなっているのか、改めてよくわからなくなってしまった。
魔物とは、万物に宿る魔力の残滓が寄り集まって生まれ出てくる、化け物者たちの総称のこと。
凶暴で、誰彼構わず襲いかかり、この世界に住む人族だけでなく、すべての種族に忌み嫌われている存在。
それをかっこいいとか、人形にしたいとか、普通の精神状態ではない。けれど、
「そう……ですね。うまくやれるか不安ですが、一緒に作ってみましょうか」
この子が何を考えているのか、どのように接すればいいのか、これを機に、何かつかめるかもしれない。
そんな、打算めいたものがありましたが、
「ん! 作るっ」
そう応じて、見たこともないくらいのキラキラした瞳を向けてくる彼女の笑顔を見ていたら、自然と、わたくしの胸のうちからは、それまであった彼女への不安のすべてがかきけされていった。
それからの毎日は、暇さえあれば、人形作りに時間を費やした。
一針ずつ、細断された生地を丁寧に繋ぎ合わせ、オル=レーリアが作りたいというものを誠心誠意、愛情込めて作り上げていった。
真剣な顔をして、一生懸命縫い合わせている彼女の手元は、やはり幼子ということもあり、とても危なっかしかった。
指を刺してしまい、泣いてしまったこともあった。
それでも、都度、魔法で治癒し、最大限抱き締めて慰めてあげたからか、それとも、持ち前の負けん気が彼女を突き動かしたのか。
それで心が折れて投げ出してしまうようなことはなかった。
そうして、さらに数日がすぎた頃、目一杯綿を詰め込んだ、ふたりで作った初めてのぬいぐるみが完成した。
真っ赤な生地でできている、頭からしっぽにかけてトサカの生えた、火トカゲのぬいぐるみだった。
「できたぁぁ!」
オル=レーリアの身体以上に大きなぬいぐるみ。
結果的に、わたくしが想像していた実物とはかけ離れた見た目の、彼女にお似合いなかわいらしい簡略化されたデザインだった。
彼女は両手でそれを高く掲げたあと、嬉しそうにぎゅ~っと抱き締め、そこら中を走り回った。そして、最後にわたくしのもとへと戻ってくると、
「ジョアンナ、ありがと。これ、いっしょ、だいじする。ジョアンナ、大好きっ」
そう言って、彼女はぬいぐるみを持ったまま、床にしゃがんでいたわたくしの首もとへと抱きついてきて、そのまま白銀の髪をわたくしの頬へとすり寄せてくるのだった。
わたくしはなんとも言えない気分となり、胸の中に広がる温かな何かを感じながらも、ただただ、小さな彼女を笑いながら抱き留めた。
そんなことがあってから数年間は、わたくしとオル=レーリアの生活は、相変わらずちぐはぐなところも多かったけれど、いたって平穏な日々を過ごしていた。
五歳を迎えてからは、多少なりとも物事の分別がついている――のかついていないのか、よくわかりませんでしたが、ともかく、聖女候補の教育も少しずつ始めていった。
一方で、この頃にはすでに、彼女はわたくしが室内で業務に励んでいるときには空気を読み、まったく手のかからない子供へと成長していた。
あれだけ何を与えてもひとりでは遊べなかった子供が、今ではすっかり別人のようになっている。
別のぬいぐるみや積み木などを買い与えても放り出すことはなく、積極的にそれで遊んでくれている。
教えたはずのない文字の読み取りまで、いつの間にかできていて、勝手に絵本を読んでいることもあった。
果ては、聖書や聖典までベッドに寝転がりながら眺めている有様。
まだ教える予定になかったため、「今は読まなくても大丈夫です」と笑いながら告げましたが、「読みたいから読む」の一点張り。
本当によくわからない。
興味ないことにはいっさい目を向けないというのに。
これもある意味、彼女の才能なのでしょうか?
呆れていいのか喜んでいいのかいまいちよくわからない。
ですが――
わたくしは椅子に座ったまま、聖典に向けていた視線を背後へと向けた。
大理石の床の上に敷かれた毛足の長い絨毯の上で、うつ伏せに寝転がりながら本を読んでいた愛らしい少女。
ふふ。
すっかり親心が芽生え始めていたわたくしは、この幸せが末永く続いてくれればと静かに願った。
けれど、運命とは残酷なもの。
天性の才を持った彼女を、時代が放っておくことはなかったのです。
オル=レーリアが七歳となった頃、かつて大聖女様がこの地を訪れたときがそうであったように、ザルツークの町には不穏な空気が流れ始めていた。
未知の流行病の階。
かつての疫病ほどではなかったものの、一部の富裕層や貧民の中から得体のしれない病にかかる者たちが出始めた。
それにかかったが最後、錬金術による投薬もいっさい効かず、すべての病を治すことができるとされるこのノルド聖教会ですら、対応に追われた。
一時的な痛み止めなどはできたけれど、根本的な治療を施すことができない。
このときすでに上位神官になっていたわたくしはもちろんのこと、神殿内にいた他の上位神官もオル=レーリア以外の聖女候補たちも、誰ひとり、治すことができなかった。
もしかしたら、神殿長であれば治癒が可能だったかもしれませんが、あの方は自らが治癒することをこの上なく嫌っている。
そのため、わたくしがここに着任してきて以来、一度も魔法を使っているところを見たことがない。
そういった経緯もあり、どちらにしろ、手立てがなかった。
「神殿長、このままではまずいことになりますぞ。やはりここは、総本山に応援要請し、聖女を送り込んでもらった方がよいのではないか?」
神の祝福と称して信者へ治療を施す聖礼の儀の最中、お偉方のひとりが奏上した。
大聖女様や聖女であれば、治せない病はないと言われているけれど、残念ながら、なぜかこの神殿にはひとりもいない。
「そんな心配はせんでよい。所詮ただの流行病にすぎん。下手に大騒ぎする方が、かえって問題がややこしくなるのだ。よいか? 下らんこといっとらんで、さっさと治療の応援に行け」
鬱陶しげにそう告げると、厄介払いとばかりに手をひらひらさせた。
集まっていた神官たちは皆が肩を落としながら、散っていく。
そんな様子を遠くから眺めていたわたくしの側には、いい勉強になるからと連れてきたオル=レーリアがいた。
彼女はまだ正式に神聖魔法を行使する立場にない。
聖女候補生として育てられていたけれど、他の成人女性と違って、まだ十歳にも満たないため、修行は積んでいても公務を執り行う許可が出ていなかったのだ。
それはひとえに、教会というより神殿長個人の問題だった。
オル=レーリアは出自もわからない孤児だという。
そして、能力すら定かではない。
そんな子供に治療させて万が一のことがあったら、厄災が降ってくる。
どうやら神殿長はそう考えているらしい。
浅ましいの一語に尽きるけれど、ある意味、管理職としては正しい判断でもあるため、わたくしが反論することはなかった。
ただ、そんな理屈はこの小さな女の子には関係なかったらしい。
「あ……待ちなさい、オル=レーリア!」
ふと目を離した拍子に、手に負えないとさじを投げられ、床に寝かせられていた重病患者のもとへと歩いていってしまった。
「へーき、へーき。リアも、やる。任せる」
そんなことを言ってにかっと笑う。
「まさか、治癒魔法を施す気ですか……!?」
慌てて止めに入ったけれど、ときすでに遅し。
聞いたことのない意味不明な文言を唱えて、詠唱を完成させてしまった彼女。
床に座りながら全身を青白く光り輝かせていたのも束の間、すぐにそれが雲散霧散され、目の前の患者が白く光った。
そして、わたくしが辿り着くと同時にそれが消えたとき、あれだけ苦しげに唸り声を上げていた年老いた男性が、何事もなかったかのようにむくりと上半身を起き上がらせてしまったのだ。
「おろろ? なんか、さっきまでの胸の苦しさが嘘のようじゃわい。ひょっとして、嬢ちゃんが神の奇跡を施してくれたんかの?」
きょとんとする老人に、オル=レーリアは言葉もなく、ただ笑顔でVサインを見せるだけだった。
本当に信じられないことだったけれど、誰も治せなかった病をこんな幼子があっさりと治してしまった。
――由々しき事態だった。
本来、聖女でなければ治せないレベルの病だったはずなのに、それを……。
こんなことが世に知られたらどうなるか。
容易に想像できる答え。
信者すべてが彼女を崇め讃え、奇跡の子供とすら大騒ぎすることだろう。
そうなったらまずいことになる。
貴族社会の恩寵を最大限に享受している、この神殿内の空気がおかしくなる。
貴族が占める上位神官ですら治せなかった病を、孤児が治してしまったのだから。
わたくしは周囲を見渡した。
幸い、本日の聖礼の儀は少し混乱していたため、こちらの動きに気づいている神殿関係者も信者たちもほとんどいなかった。
けれど、当然、例外も存在する。
「――おい」
どうやら人一倍この状況にピリピリしていた、もっとも気づかれてはいけない御仁に悟られてしまったらしい。
怒りを多分に含ませた小声を発しながら、神殿長がこちらに近寄ってきた。
その側には補佐官のシュレーゲンもいる。
「今のは見なかったことにしてやる。だがその代わり、貴様も今回の治癒に加われ、よいな? こちらが指示した者だけを治癒するのだ。それがもしできぬとあらば、即刻この場から退去せよ」
そう静かに告げた神殿長がオル=レーリアを見る視線は、恐ろしいほどに冷酷無残なものだった。
この神殿で働くようになってから四年間経ったけれど、今までに一度たりとも見たことのないような、視線だけで人を殺せそうな目つき。
逆らったら間違いなく、殺される。
思わず生唾を飲みつつも、慌ててオル=レーリアに目を向けた。
普段の彼女の言動からすれば、拒絶してもおかしくないような命令。だけれど、
「ん。わかった。リア、いっぱい、治療する。人の役に立つ。女神様の思し召し」
予想外にそんなことを言って、きょとんとするのだった――
今回の一件は、神殿長が言っていたとおり、本当に追求されることはなかった。
というよりむしろ、予想どおり、公にしたくなかったというのが本音なのだと思う。
『誰も治せなかった病を、出自も明らかではない子供が治してしまった』のだから。
たとえそれが、結果的に『どんな病でも治せる教会』という権威を保つことに役立ったとしても、その事実が世間一般に広まったら、間違いなく、神殿――もっと言えば、貴族社会が揺らぐ。
だから彼は、それを封殺すべく、患者の選別という手段を講じて、すべてを隠蔽した。
ふたり一組となった神官たちの前に、どんな病にかかっているのかわからない信者たちを並ばせ、手当たり次第に治癒させていった。
けれど、当然ここにからくりが存在する。
今回の一件を知る数少ない選別官に、治せない重病患者をすべて、オル=レーリアの列に並ばせたのだ。
そのうえで、治せる重病患者は別の列に並ばせ、軽傷者は均一に配置。
これにより、それ以降は特に混乱は起きず、本日の聖礼の儀は終了となった。
ただ、儀式は無事終わったものの、神殿内に新たな火種が生まれたことだけは間違いなかった。
出自不明=卑賤として蔑まれ気味だったオル=レーリアに対する風辺りがさらに厳しくなった。
取り扱いも難しくなり、どんなに疎んじていたとしても、即刻追い出すと不利益が生じると判断されたこともまた事実。
大聖女様が連れてきたということもそこに拍車をかけている。
――どうにかしてこの子を守り抜かなければ。
後片付けを始めている小神殿内を眺めていたわたくしは、側できょとんとしていた幼子を見つめた。
今まではただ、大聖女様から預かった、癖のある愛らしい少女だからという義務感だけで面倒を見てきた。
けれど今はもう違う。
なんとしてでもこの子を守りたい。
今回の一件に対する神殿長たちの態度がそうであったように、いずれ、必ず何かしらの厄災にまみれてしまうであろうこの子を守れるのは、自分だけなのだから。
わたくしはそう、決意も新たに、愛おしげに彼女の頭をなでるのだった。
すべての治療が終わり、部屋へと戻ってきたわたくしたち。
すっかり日も傾き、窓の外は夕闇に包まれていた。
「さぁ、本日の業務はもうおしまいですので、夕飯時までは自由行動となります。存分に本日の疲れを癒やしてください」
そう声をかけたのですが、窓の外を眺めていたオル=レーリアはどこかぼうっとしながら、「誰かの呼ぶ声、聞こえる」と、意味不明なことを言い始めた。
何を言っているのかよくわからず、わたくしも首を傾げながら彼女と同じように窓の外を眺めた。
しかし、そこには誰もいない。
本殿とこの聖女殿を繋ぐ、裏庭と長い通路があるだけ。
それでも彼女は呟く。
「よく、わからない、けど。三年後、かわいい子と、出会う、言われた。よくわからないけど、楽しみ?」
最後はそう、自問自答するように首を傾げながらわたくしを見つめてきた。
にこっと笑っている彼女の言動が、わたくしには理解できない。
けれど、大聖女様が認めるほどの希代の力を秘めていることが今回のことで証明された。だったら、その神聖は明らかだ。
そして、普段から挙動がおかしくはあるものの、ひとりの愛らしい少女であることは疑いようもない真実。
わたくしは笑って彼女の肩を抱きながら、「そうですね。楽しみですね。早くそのかわいい子と会えたらいいですね」
そう告げると、彼女は「ん!」と、最上級の愛らしい笑顔を浮かべた。
わたくしはそんな彼女の頭をなでながらも、もう一度、窓の外を眺めた。
視線の先、そこにはこの町特有の格差社会が生み出してしまった闇の部分とでも言うべき貧民街がある。
雨雲が広がる方角。そこに、それはある。
オル=レーリアが示唆した謎めいた言葉が、自然と心の奥底へと浸透していく。
『三年後に会える』
わたくしは漠然とながらも思った。
もしかしたら、この子には未来を見通す力すらも宿っているのかもしれませんね、と。
◇
――リア……それから……。
遠い過去から現実へと引き戻されたわたくしは、薄汚れた火トカゲのぬいぐるみを大切に棚の上に置いた。
あの幼いふたりから預かった私物のすべてを綺麗にしまい終えてから、改めて眺めてみる。
七年前に出会ったあの白銀の愛らしい少女と、そして、数ヶ月前に知り合ったあの幼子。
彼女が予言したとおり、数奇な出会いを果たすことになったあのふたり。
あの子たちのことを考えると、今でも心が苦しくなる。
あの日、絶対に守ると誓ったのに結局守れなかった。
自分の力のなさが悔やまれてならない。
けれど、わたくしたちは約束したのです。
もう一度、生きて元気な姿を見せ合うと。
ですから、どうかお元気で。
そして無事に辿り着いてください。大聖女様のもとへと。
わたくしもひとりの神官として、そして魔術師として、あなたたちの前に立ちはだかる苦難を払いのけられるよう、全力を尽くす所存ですから。
わたくしはすべての迷いを打ち消すように、そう強く想いながらも、窓の外を眺めた。
北の空には、澄み切った青い冬空が広がっている。
どこまでもどこまでも続く、美しい空。
それはまるで、巣立っていったふたりの旅路を祝福するかのようだった。
―― 了 ――
最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。
本作は、現在連載中の別作『転生魔女と天才聖女 ~居場所をなくした私たち二人が、最強の相棒となって幸せを見つけにいく物語』に登場する女性神官、ジョアンナに焦点を当てた物語となっています。
本編では、こちらで語られなかった部分の多くが掲載されていますので、そちらもぜひ、応援、ご愛読くださればと思います。
本編へのリンクは下部に貼っておきます。




