2‐6
外からはセミの鳴く声がかすかに聞こえる。冷房が効きすぎているためか、少し肌寒いぐらいに感じられる室内で、ハルカの良く通る声だけが響き渡る。
「あの頃、私はあまり家庭環境が良いとは言えない状況で何かと理由をつけては学校に残ることが多かったの。ある日、教室で一人でいる私をたまたま見かけた別の学年の先生が声をかけてくれた。それが、塚越章先生だったの」
「ショウくんのお父様は学校の先生だったんだね」
ハルカは一つ頷くとまた話し始めた。
「章先生は、私の取り留めのない話をとても楽しそうに聞いてくれたわ。私にはそれが嬉しくて先生と話すその時間がかけがえのないものになっていったの」
リュウは、敏感にハルカの表情を読み取って複雑そうにしていたが特に何も言わなかった。ハルカは、そんなリュウの様子に気づくことなく話を続けた。
「でも、そんな楽しかった日々は急に終わってしまったの。章先生の奥様がお子様を産んだから。それが翔君なんだけど・・・」
「それって、ショウが生まれたからハルセンセに構ってられなくなったってこと?」
ハルカは首を横に振る。
「そういうことではなかったと思う。章先生は、翔君が産まれてからも変わらず学校に来ていて、時間が許す限り私の話も聞いてくれていたわ。ただ、日に日に元気がなくなっていくのはわかったの。その当時の私には何があったのかは分からなかったけど、だからこそ、今度は私が何か役に立ちたくてあの日・・・」
そこで、ハルカは苦しそうに息を吐くと震える声を絞り出した。
「あの日、章先生は珍しくお休みだった。私は他の先生に頼み込んで先生の家を教えてもらいお見舞いに行ったの」
その日、ハルカは無性にツカゴシの事が気になって仕方がなかった。最近のツカゴシは少し元気はなさそうだったが、変わらずハルカに優しく接してくれていた。しかし、昨日のツカゴシは違っていた。ハルカが声をかけてもまるで目に入っていないかのようで、触れようとすると虫でも払うようにあしらわれた。
「先生、大丈夫かな・・・」
教えられた住所を確認しながら着実にその場所へと近づいていた。そして、近づいていることをハルカは本能的に気がついていた。それと言うのも、明らかに進む先の空気が澱んできているのがわかったからだ。
「な、に、この空気・・・」
鼻を衝く異臭にハルカは顔を顰めるが、不思議なことに、他に歩いている人たちは特に気にしている風でもなかった。そのことが余計にハルカの心配を助長した。
(なんだか嫌な予感がする。先生に何も悪いことが起こってませんように・・・)
ハルカは、心の中でツカゴシの無事を祈りつつ、その足は先を急くように小走りになっていった。
その家は、ハルカには真っ黒に塗りつぶされているように見えた。表札を確認する。そこには確かに『塚越』と書かれていた。
恐る恐るハルカは呼び鈴に手をかける。震える指で何とか押すと、遠くの方で無機質な音が響いたのが聞こえた。
しばらく待ってもなんの反応もない。ハルカは、今度はしっかりと押してみた。再び呼び鈴の音が聞こえたが、それ以外の音は消えてしまったかのようにシンと静まり返っていた。
近づくには勇気がいったが、恐る恐るドアに近づくとノブに手をかけてみた。すると、ドアノブはなんの抵抗もなく開いた。その瞬間、耐えきれないほどの悪寒がハルカを襲った。思わずその場にしゃがみこんでしまったが、ツカゴシを心配する気持ちが勝り、ゆっくりと立ち上がった。
「先生・・・」
掻き消えるようなか細い声で中に問いかける。
「先生」
今度は、もう少し大きな声を上げたがそれでもなんの答えも返って来なかった。
「先生!入りますよ!」
意を決して大きな声を上げて中に声をかけてから、思い切って扉を大きく開いた。その瞬間、目に目えない何かがハルカの横を通り過ぎて行ったかのように感じた。一瞬後ろを振り返ったが、特に変わったことはなかった。ただ、不思議なことに先ほどまであった不快感が収まっていた。それよりも、中から感じられる別の異様な気配の方が気になった。震える足を何とか動かして、ハルカはそのまま中へと入っていった。
ざっと見た感じで一階には誰もいなかったし、何も変わったものもなかった。やはり、先ほど目に目えない何かが外に出たからなのか、体の芯を震わせるような感覚はない。すると、急に二階から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「オギャーオギャー」
その泣き声に導かれるように、ハルカは二階へと上がった。
泣き声が聞こえる部屋の前に到達する。中から微かに泣き声以外の声も聞こえてきた。
「先生!」
思い切って扉を開けると、放心状態で赤ん坊を腕に抱いているツカゴシが立っていた。
「・・・先生?」
ツカゴシに近寄りそっとその腕に手をかけた。
「・・・消えてしまった・・・消えてしまった」
ツカゴシはブツブツと同じ言葉を繰り返してる。
「先生?何が消えちゃったの?」
そこにハルカがいることを認識はしていないようだが、ツカゴシは機械的に答えた。
「妻が・・・香織が・・・」
ハルカは、部屋の中を見回してみた。そこは、寝室のようだった。大きめのベッドの横に可愛らしいベビーベッドが置かれている。落ち着いた内装で普段だったらとても安らげる場所なのだろう。
ベッドを観察すると明らかに誰かが寝ていた形跡があった。だが、異様だったのは女性物の寝間着だけがそこに残されていたことだった。そっとその寝間着に触れてみるとほのかに暖かい。まるで直前まで誰かがそれを着て寝ていたかのように。
「先生?香織さんって先生の奥さん?」
「そうだ、私の妻だ。昨日からどんどん小さくなっていってついさっき消えてしまった・・・」
「・・・小さく?・・・消えて?」
ハルカには全く理解ができない言葉だった。
「何でこんなことに・・・?何でこんなことに!」
ツカゴシが大きな声を上げると、泣き止んだばかりの赤ん坊が再び泣き始めた。
それでも構わず「何でだ何でだ」と続けるツカゴシをハラハラとした思いでハルカは見ることしか出来なかった。ついには、自分が赤ん坊を抱いていることする忘れたように手を離して頭を抱えようとする仕草を見せたので、すんでのところでハルカがその手をガシリと捕まえて止めた。
「先生!落ち着いて!赤ちゃん落ちちゃう!」
そこでようやくツカゴシの視線がハルカを捉えた。
「ああ、神谷さんですか・・・。どうしてここに?」
「先生が心配だったから」
「私が、心配?」
「そうだよ!だからとりあえず赤ちゃんをベッドに寝かせて!」
ハッとしたようにツカゴシは自分の腕の中で泣いている赤ん坊を見た。
「ああ、ああ、翔・・・。翔、しょ、う・・・」
ツカゴシの目から涙が溢れ出した。そして、腕の中のショウをぎゅっと抱きしめた。
「翔、すまない。不甲斐ない父で、すまない・・・」
ハルカはただ黙ってことの成り行きを見守っていた。
少し落ち着いたのか、ショウを抱きしめていた腕の力を緩めると改めてハルカに向き合った。
「神谷さん、ありがとうね。先生のこと心配してわざわざ来てくれたんだね。君が来てくれて良かったよ」
そこにはいつもの優しいツカゴシの笑顔があった。
「それから私が卒業するまで章先生は今までと変わらないように見えたわ。私にも常に優しくて、話し相手にもなってくれた。だけど、私にはやっぱりどこかが決定的に違うと感じられていたの。それが何なのかはわからなかったけどね」
「あなたが卒業するまでに、その日以外にツカゴシショウに会ったことはあるんですか?」
ハルカは俯いたまま首を横に振った。
「ハルセンセ・・・」
リュウが気遣うようにハルカの肩に手を乗せる。しかし、ハルカはその手をそっと外して「大丈夫。ありがとう」とだけ言った。
「じゃあハルカ先生が今年わたしたちの担任になったタイミングでショウくんと再会したってこと?」
「いいえ。彼はとても中途半端なタイミングで転入してきたの」
「中途半端なタイミングって何故ですか?」
「わからない」とハルカは力無く首を横に振る。
「じゃあさ、ツカゴシと再会したのはいつなんだ?」
「それは・・・」
しばらく考えるように視線を宙に漂わせていたハルカだが、ハッとしたように目を見開いた。
「そう、あれは、ちょうど兼田幸生君たちがいなくなった日だわ!色々重なって冷静に考えられていなかったけど、確かにあの日だった」
「コウたちがいなくなった日・・・」
「リュウ、どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
心配そうにリュウに視線を送ったリンだったが、気を取り直したようにハルカに焦点を合わせた。
「その日、何があったのですか?」
「あの日、兼田君たちが登校してこないから、まずはご家族に連絡したの。でも、なかなか連絡が取れなくて・・・」
「あー、うちの親二人ともバリバリ働いているから、仕事中だと気づかねーだろうな」
リュウの言葉にハルカは頷く。
「私はとにかく、できることがないかと思って、ご家族に連絡しつつ、事故にでもあってないか確認するために、警察や消防に問い合わせたわ。でも・・・」
「特に目立った事故も事件もなかったと・・・」ハルカは頷く。
「私はいてもたってもいられなくて外に探しに行こうとしたの。そしたらそこに章先生がいて」
ハルカは、焦っていた。自分のクラスの生徒が二人も無断欠席しているのだ。二人ともそんなことをするような子供ではない。まず疑ったのは、事故だった。ただ、警察も消防も近所で事故や事件が起こったという情報は入っていないという。そのこと自体には安堵した。しかし、だったらなぜ二人は登校していないのだろうか?気だけが焦る。何かしていないと落ち着かないので、休み時間になったタイミングで外へと探しに出ようとした。
「神谷先生」
校門から飛び出そうとしていたハルカを呼ぶ声に足が止まる。
「神谷悠佳先生」
その人物はもう一度ハルカの名を落ち着いた声で呼ぶと近づいてきた。ハルカはその一瞬で子供の頃に戻ったように感じた。
「章先生!」
「先生はやめて下さい。私はもう教師ではありませんから。今ではあなたのほうが立派な教師ではないですか。それより何かあったのですか?」
「いえ、あの・・・」
「ああ、すみません。教師のあなたがおいそれと部外者に話せないこともありますよね。では、私は今から部外者ではなくなります」
「?」
不思議そうにこちらを見るハルカにツカゴシは静かに頭を下げた。
「本日から私の息子がこちらの小学校でお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
頭を上げたツカゴシは、イタズラが成功した少年のような笑顔を見せると両手を広げて言った。
「さあこれで部外者ではなくなりました。話してください」
「えっと、それは・・・。それより、息子さんがお世話になるって・・・」
ツカゴシは、一つ頷くと「そうです。あなたもご存知でしょう?私の最愛の息子の翔です」と言った。
ハルカは一瞬であの日の光景が頭に蘇った。そして、ツカゴシに対して僅かな違和感も感じていた。
「先生はあの後、どうされていたのですか?私が卒業した後、連絡を取ろうと思ったのですが、誰も先生の連絡先を知らなくて・・・。私、先生の家までーーー」
そこで、ハルカは言葉を止めた。ツカゴシの顔が目に入ったからだ。
「あの・・・。せん、せいーーー?」
ツカゴシの顔から表情は消え、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「神谷先生。私のことはいいのです。それより、何があったのですか?もしかして、生徒がいなくなった、とか?」
ハルカは息を呑んだ。ツカゴシの瞳の奥に何か暗いものを見たからだ。
「い、いいえ。何があったわけではないんです」
ハルカは、あれだけ信頼していたはずのツカゴシに話すことが出来なかった。いや、話してはいけないと感じていた。そんなハルカの様子をじっと見ていたツカゴシはフイと顔を背けて踵を返した。
「まあいいでしょう。そのうちにわかることですから。それよりもーーー」
ツカゴシは、ハルカに背を向けたまま顔だけこちらに向けて含みのある笑顔を見せた。
「神谷先生。翔のことを気にかけてやってください。頼みましたよ」
そう言い残してツカゴシは去っていった。




