第三十二章 見る
朝の光は、選ばない。名古屋の街を均等に照らし、良い顔も悪い顔も同じ明るさで浮かび上がらせる。真は母の部屋に立ち、引き出しを開けた。封筒はそこにある。昨夜、鍵をかけたままの位置に。
真は椅子に腰を下ろし、封筒を取り出した。今度は、目を逸らさない。開封の音は、やはりしない。紙を一枚ずつ取り出し、順に並べる。日付、施設名、署名の癖。文字の意味より先に、配置が語る。母の時代、南区、夜勤、裁量。帳簿の空白と、倉庫で見た番号が、同じ形で重なる。
読む。だが、声に出さない。言葉にすれば、形が別のものに変わると分かっているからだ。ここに書かれているのは、誰か一人の罪ではない。判断の連なり、善意の選択、沈黙の積み重ね。責任は散らばり、だからこそ、逃げ場がない。
真は紙を戻し、封筒を閉じる。閉じた瞬間、理解は終わった。迷いはない。残るのは、どう生きるかだけだ。携帯が震える。仁からの不在着信。真は折り返さない。今は、言葉が要らない。
午後、南区の施設の前を通る。出入りする職員の足取りは、いつもと変わらない。世界は続いている。真は立ち止まり、目を逸らさずに見る。合わせれば決まってしまう線も、壊れたままの余白も、そのまま受け取る。
夕方、名駅の人波に混じる。幼稚園の砂場、銀行の天井、倉庫の白線。すべてが一本の線になるが、真はそれを指でなぞらない。語らない選択は、忘却ではない。見続けるための姿勢だ。
夜、部屋に戻り、灯りを落とす。封筒は引き出しに戻され、鍵はかけない。真は初めて、目を逸らさずに見た。その事実だけが、静かに残った。




