第三十一章 放棄
放棄は、決断というよりも、手を離す感覚に近かった。仁はオフィスに一人残り、夜の名駅を見下ろしていた。再開発ビルの光は均一で、どの窓も同じ明るさを保っている。整っている。それが、この街の強さであり、弱さでもあった。
机の上には、最後の調整案が置かれていた。失踪の余波を完全に消すための、合法で合理的な手順。配置を変え、記録を更新し、関係者の線を整理する。ここまで来れば、誰も傷つかない。少なくとも、数字の上では。
仁はペンを取った。署名欄に名前を書けば、すべてが終わる。過去は閉じ、現在は整い、未来は前に進む。そのはずだった。だが、ペン先が紙に触れる直前で、止まった。初期の帳簿に残っていた擦れ、南区の空白、真の沈黙。封筒の中身を知らないまま、それでも同じ形を何度も見てきた。
調整を続ければ、形はさらに整うだろう。だが、その整いが、誰かの居場所を削ることを、仁はもう否定できなかった。善意であれば許されると、ずっと信じてきた。その信念が、初めて揺らぐ。
仁はペンを置いた。書類を閉じ、ファイルに戻す。提出期限は迫っている。それでも、送らない。放棄は逃避ではなく、介入しないという選択だった。何もしないことで、初めて壊れずに済むものがある。
深夜、オフィスの電気を落とす。暗くなった室内で、モニターの黒い画面に、自分の顔が映る。整えなかった自分。それは、これまでにない姿だった。
ビルを出ると、名駅の風が強い。仁は歩き出し、振り返らない。最後の調整を放棄したことで、世界がどう動くかは分からない。ただ、これ以上、形だけを信じて進むことはできなかった。




