第三十章 開封
夜明け前、雨は止みきらず、街の音だけが戻ってきていた。真は台所の椅子に座り、封筒を机に置く。紙は古く、角が柔らかい。母の手癖が残る折り目。開ける理由は十分にあった。だが、理由はいつも、開けないためにも使えた。
封は静かに切れた。音はしない。中身は数枚。紙の厚みと、触れたときの硬さだけが、確かにそこにある。真は一枚ずつ取り出さない。重ねたまま、位置を確かめる。日付の角度、インクの滲み、余白の幅。言葉を読む前に、形だけを受け取る。
窓の外で、始発が走る。名古屋の朝は早く、誰かの生活がもう動いている。真は視線を落とし、また上げる。何が書いてあるかは、分かってしまった気がした。だから、読まない。封筒は開かれたが、内容は語られない。紙は元の順で戻され、封はそのままに置かれる。
同じ頃、仁はオフィスで監査の控えを見返していた。余白は埋まり、番号は揃っている。だが、端に残った擦れが目に入る。初期に使われていた紙質。誰かの判断が、そこに触れた跡。仁はページをめくる手を止め、理由を考えない。考えれば、形が崩れる。
真は封筒を引き出しにしまい、鍵をかける。鍵の音が小さく鳴る。聞こえたのは自分だけだ。母の部屋には、いつもの匂いが戻っている。倒れた日のままの花瓶、水は替えられている。過去は動いたが、名前は動かない。
二人は別々の場所で、同じ選択をした。見たが、読まない。開いたが、語らない。名古屋の空が明るくなる。封筒は開かれ、事実は形のまま残る。言葉にされない限り、世界は動き続ける。それが、ここまで二人を運んできた方法だった。




