第二十三章 確証を捨てる
真は、確証という言葉を頭の中で何度も転がした。数字、書類、証言。積み上げれば形になるはずのものが、名古屋の湿った空気の中では、どれも輪郭を失っていく。聞いてはいけない名前を聞いた夜から、街の音が少しだけ大きくなった。横断歩道の信号、古い冷蔵庫の唸り、遠くの貨物列車。どれも、答えを急かす音に聞こえる。
確証は、守りになる。だが同時に、刃にもなる。真はそれを知っていた。施設の現場で、誰かを守るために出した一言が、別の誰かを切り捨てる瞬間を、何度も見てきた。だから彼は、確証を欲しがり、同時に恐れていた。
昼下がり、古い喫茶店でコーヒーを飲んだ。砂糖は入れない。苦さが残る方が、判断が鈍らない気がした。テーブルの端に、折り畳んだメモがある。名前は書いていない。場所も書いていない。ただ、余白の位置だけが、頭の中の配置と一致していた。そこに線を引けば、すべてが繋がる。だが線は、戻れない道でもある。
携帯が震えた。仁からの短いメッセージだった。進捗確認。事務的で、温度がない。真は返信を打ちかけ、止めた。確証を握ったまま話せば、言葉は武器になる。握らなければ、沈黙は盾になる。彼は後者を選んだ。
夕方、事務所に戻ると、壁のスケジュール表が更新されていた。整然とした文字。期限、担当、数字。仁の仕事だと一目で分かる。正しさが、静かに並んでいる。真はその前に立ち、しばらく動かなかった。正しさの列は、人の形をしていない。そこに母の顔も、消えた派遣の影も、入り込む余地はなかった。
夜、雨が降った。栄の路地は光を弾き、足音が二重になる。真は一つの番号を消した。携帯の履歴から、指先でゆっくりと。確証に至る最短距離だった番号だ。消した瞬間、胸の奥で何かが緩む。代わりに、別の重さが乗る。
確証を捨てることは、逃げではない。真はそう言い聞かせた。これは選択だ。誰かを告発する力も、誰かを守る力も、同じ確証から生まれる。今は、そのどちらも選ばない。時間を買うために、証拠を持たない。
帰宅途中、橋の上で立ち止まった。川は濁り、流れは早い。投げれば沈む。拾えば重い。真は何も投げず、何も拾わなかった。代わりに、川面に映る信号の色だけを覚えた。赤から青へ。変わる瞬間の、短い暗転。
その夜、彼はメモを破り、細かく折って捨てた。名前も場所も、余白の一致も、すべてが紙片になる。確証は消えた。だが、感覚だけが残った。聞いてはいけないと知ったこと、そして、今は言ってはいけないと選んだこと。その二つが、同じ重さで胸に沈んだ。
翌朝、真はいつも通り現場に出た。挨拶、配置、確認。何も変わらない。変わったのは、彼の中の秤だけだ。確証を捨てた分、疑念は澄んだ。澄んだ疑念は、音を立てない。だが、次に動く時、必ず大きな音になる。それを、真は分かっていた。




