第二十二章 聞いてはいけない名前
雨上がりの名駅西は、昼でも薄暗い。再開発から取り残された路地に、古い福祉用具の看板が傾いていた。真は、傘を畳む指先の湿り気を拭いもせず、その店の引き戸を押した。鈴が鳴らない。音の出ない仕掛けに、胸の奥が一度だけ縮む。
店内は狭く、棚に並ぶのは型落ちの車椅子や、初期に使われていた固定具の部品だった。埃の積もり方が、使われた順を示している。奥に、背中を丸めた老人がいた。名を名乗る必要はなかった。噂の中で、彼はずっと無名のままだったからだ。
「福祉派遣の……」と真が切り出すと、老人は手を上げた。聞くな、とも、聞いていい、とも言わない仕草。沈黙が先に来る。
「昔はな、」と老人は独り言のように言った。「帳簿より先に、顔を見た。顔色と、歩き方。あとは、家の匂いだ」
真は、質問を飲み込む。代わりに、資料で見た様式の断絶を思い浮かべる。ある年を境に消えた紙。老人の視線が、棚の一番下に落ちる。そこにあるのは、同じ規格の固定具が二つ。片方だけ、摩耗の仕方が違う。
「その年、」老人は続けた。「一人、抜けた。誰も辞めたとは言わなかった。いなくなっただけだ」
名前は出ない。だが、名古屋の古い現場では、それで十分だった。真の脳裏に、母の封筒の重さが重なる。中身を見ていないのに、重さだけが一致する。
「派遣は、良くなったよ」と老人は言う。誉め言葉の形をしているが、声は平坦だ。「整って、静かになった。だから余計に、昔の音が聞こえる」
真は、聞いてはいけない名前を聞かなかった。その代わり、聞いてはいけない一致を見てしまった。棚の固定具の刻印——初期ロットの番号が、資料の余白と同じ位置にある。
外に出ると、雨は止んでいた。アスファルトに残る水たまりが、空を映す。真はそれを跨いだ。跨げたことに、理由はない。
背後で、引き戸が静かに閉まる。音はしない。名駅西の路地は、何事もなかったように人を飲み込み、噂だけを、少しだけ現実に近づけていた。




