第十八章 動き出す過去
連絡は、夜明け前に来た。知らない番号。真は一度だけ画面を見つめ、出た。相手は落ち着いた声で名を名乗り、場所を告げた。救急外来。港区ではなかったが、港の匂いがする場所だった。
病室は白く、音が少ない。母は眠っているように見えた。点滴の雫が一定の間隔で落ち、機械が規則正しく息をする。倒れた理由は貧血と脱水、過労。どれも珍しくない言葉だ。珍しくないから、原因は語られない。
看護師が書類を置いた。連絡先の欄に、真の名前は二番目にあった。一番目は、別の名義だった。略称。短い文字列。見覚えがある。真は喉の奥で、あの小さな音を鳴らした。
母は目を開けない。問いかけは届かない。届かないから、聞けない。真は椅子に座り、壁の時計を見る。針は進むが、時間は戻らない。
その日の午後、母の部屋に戻ると、棚の引き出しが一つ空いていた。封筒が消えている。捨てたのか、持ち出したのか。判断できない痕跡だけが残る。床に落ちた埃が、最近動いたことを教えていた。
失踪という言葉は使われなかった。入院中にいなくなることはない。だが、過去は確実に動いた。略称の名義、港の匂い、空になった引き出し。それらが、静まった水面の下で、ゆっくり形を変えている。
真は携帯を握り、仁の名前を一瞬だけ表示した。かけない。まだだ。理由は分からないが、今は違うと分かる。
病院を出ると、空は白み始めていた。真は立ち止まり、息を吸う。気づきかけて、目を逸らす。その仕草が、もう通用しないことを、どこかで理解しながら。過去は、もう止まらない。




