第十六章 重ならない線
仁が港区の案件に手を入れたのは、特別な理由があったわけではなかった。数字が鈍っていた。ただ、それだけだ。稼働率、移動時間、夜勤手当。どれも規定内だが、積み上げると僅かな歪みになる。その歪みを放置しないのが、仁の仕事だった。
港区の倉庫街に近い小規模施設。人の入れ替わりが早く、欠勤も多い。理由は単純で、アクセスが悪く、夜が長い。仁は地図を開き、路線と時刻を引き直す。配置を変え、時間帯をずらし、報酬を微調整する。誰も損をしないはずの調整だった。
会議室で説明すると、反対は出なかった。合理的だ、と皆が言う。現場の負担も減る。事故率も下がる。仁は頷き、決裁を進めた。過去の履歴には触れない。触れる必要がないからだ。初期の案件は整理され、コードは統一されている。画面上に、問題は表示されない。
その夜、仁は一人で資料を閉じた。窓の外、港の光が遠く瞬く。倉庫の影が、規則正しく並ぶ。そこに人の顔は浮かばない。浮かばせる必要がない、と自分に言い聞かせる。
知らない、という状態は、安全だ。過去を知らなければ、今だけを最適化できる。仁はそうやって、会社を守ってきた。善意は、全体を滑らかにするための潤滑油だ。多少の摩擦は、見えないところに押し込めばいい。
翌朝、港区の施設から了承のメールが届く。短い文面、感謝の言葉。仁は返信し、タスクを完了にした。胸の奥で、小さな違和感が鳴った気がしたが、理由は分からない。分からないものは、処理できない。
同じ場所で、別の線が引かれていることを、仁は知らない。南区の沈黙、初期の名義、母の棚の封筒。それらが港区で重なろうとしていることを、画面は教えてくれなかった。仁は視線を逸らし、次の数字に手を伸ばす。線は交わらない。交わらないまま、深くなる。




