第十五章 古い名の影
噂は、時間を逆向きに流れることがある。真がそれを感じたのは、南区の話から数日後、母の家で古い棚を開けた時だった。目的はなかった。ただ、帳簿の外に残る感触を、どこかで確かめたかった。
埃を被った封筒がいくつか出てきた。公共料金、保険、見覚えのない団体名。母は台所にいて、鍋の蓋が小さく鳴る音だけが続く。真は一枚を開き、日付に目を走らせた。古い。だが、消えていない。
差出人の欄に、短い名称があった。港区。倉庫街に近い住所。法人名は、すでに解散している。業務内容の記載は曖昧で、福祉とも物流とも取れる言葉が並ぶ。真は喉の奥で、あの小さな音を鳴らした。視線を上げかけ、すぐに手元へ戻す。
母に尋ねることはしなかった。代わりに、棚の奥から通帳を一冊抜き出す。入金は不定期で、金額は小さい。だが、一定の期間、同じ名義が続いている。名義は略称で、帳簿なら別コードに振り分けられる種類のものだった。偶然だと言える余地はある。真はそう数え直し、数え直すたびに、形が揃っていくのを感じた。
台所から母の声がした。「それ、捨てないで」。理由は言われない。いつもそうだ。父の話も、過去の仕事も、名前だけが欠けたまま残る。真は封筒を戻し、頷いた。
帰り道、港区の倉庫街を遠回りした。夜は早く、シャッターの隙間から白い光が漏れる。噂で聞いたフードの影が、視界の端をかすめる。確証はない。ただ、南区の沈黙と、母の棚の封筒が、同じ低い温度を持っている。
事務所に戻り、共有フォルダを開く。初期の案件、初期に使われていたコード。画面の行と、封筒の文字列が、わずかに重なる。真はマウスを離し、深く息を吸った。ここで繋げれば、過去は現在になる。
母の背中が浮かぶ。鍋の音、言葉を選ばない沈黙。真は立ち上がり、窓の外を見る。名古屋の夜景は、どこまでも続く。
気づきかけて、目を逸らす。その仕草が、幼い頃から変わっていないことを、真は知っていた。




