第十四章 噂は低い声で
真が噂を聞いたのは、公式な場ではなかった。伏見の小さな喫茶店、昼と夕方の境目で、客もまばらな時間帯だった。古い施設の相談員をしている女が、コーヒーをかき混ぜながら、何気ない調子で口にした。
「最近さ、派遣さん絡みで、変な話が多いんだよね」
変だ、という言葉は便利だ。具体を避け、責任を曖昧にする。真は何も答えず、続きを待った。沈黙は、相手に話させるための道具だった。
南区の名前が出た瞬間、真の指がカップの縁で止まった。事故の話、転倒、軽い怪我。公式に聞いている内容と同じだ。だが、その女は「家族が何も言ってこないのが一番怖い」と付け足した。怒鳴り込みも、補償の要求もない。ただ、連絡が取れなくなったという。
「いなくなる、ってこと?」
真がそう聞くと、女は首を振った。いなくなる、というより、閉じるのだと言う。電話は繋がらないが、解約もされていない。施設側も深入りしない。理由は分からない。ただ、同じ形がいくつか重なっているらしい。
別の噂もあった。港区の倉庫街、夜中に見かけた派遣の顔。フードを被り、誰とも目を合わせず、荷を運んでいたという。確証はない。だが、南区で消えた名前と、名簿の名前が一致する。真は表情を変えなかった。噂は、確かめた瞬間に壊れる。
帰り道、栄の雑踏を抜けながら、真は頭の中で線を引いた。事故、帳簿、沈黙、失踪。どれも単体では説明がつく。説明がつくからこそ、繋げてはいけないと、どこかで誰かが判断している気配があった。
事務所に戻り、共有フォルダを開く。南区の案件、配置変更、手当の付け替え。仁の調整は合理的で、否定できない。だが、噂の輪郭は数字の外側にあった。真はマウスから手を離し、椅子にもたれた。
思い出すのは、幼稚園の砂場だ。譲ったのは自分だった。あの時と同じように、今もまた、目を逸らせば形は保たれる。だが、逸らさなければ、何かが壊れる。
真は携帯を取り出し、登録していない番号を一つだけ眺めた。南区の施設とは別の、古い名簿に載っていた連絡先だ。かけるかどうかは、まだ決めない。噂は低い声で十分だった。確信に変わる前の、この段階でしか見えないものがあると、真は知っていた。




