第十二章 別の地平
仁は、数字を見る前に、音を聞く癖があった。キーボードの反発、空調の低い唸り、フロアを行き交う足音の速度。順調な日は、音が均一になる。乱れるのは、いつも人だ。
朝、事務所に入ると、机の配置が微妙に変わっていることに気づいた。誰かが夜に動いた形跡。片づけではない。探した痕だ。仁は気づいたが、触れない。触れれば、音が変わる。
モニターを開き、帳簿を走査する。数字は合っている。合うようにしてある。初期に使われていたコードが、補助的な位置に戻されているのを見て、仁は一瞬だけ手を止めた。戻す、という行為は、隠すことと似ているが違う。流れを整えるための調整だと、彼は理解している。
仁の机の引き出しには、古い名刺が束になって入っている。業界団体、金融機関、紹介元。肩書きは変わり、ロゴは更新されるが、名前だけは残る。残すべきものと、残してはいけないもの。その選別は、感情ではなく、速度で行う。
昼、仁は一本だけ電話をかけた。短く、要件だけ。相手は多くを聞かない。聞かないことが、信頼の条件だった。切ったあと、仁は窓の外を見る。名駅のビル群が、陽に白く光る。ここまで来たのは、偶然ではない。
真のことを、仁はよく知っている。幼稚園の砂場で、目を逸らした瞬間。銀行の天井。栄の雨。彼が何かに触れた時、同じ仕草をすることを。だからこそ、仁は待つ。止めない。急がせない。線を引くのは、いつも相手の側だ。
夕方、帳簿に一行だけ、注記を入れる。数字は変えない。意味も変えない。ただ、読む人が読む位置を、半歩ずらすための言葉だ。注記は、正しさの形をしている。
仁はペンを置き、深く息を吐いた。やっていることが正しいかどうかではない。続けられるかどうかだ。続けられなければ、守れない。守れなければ、失う。
夜、事務所を出る前に、仁は真の机を見る。引き出しは閉じている。何も置かれていない。何もない、という状態が、ここでは一番危うい。
仁は電気を消し、鍵をかけた。廊下の蛍光灯が、遅れて点く。彼は振り返らない。別の地平では、同じ選択が、別の意味を持つことを知っているからだ。




