第十一章 一人で踏み込む
真は一人で動くことにした。理由を言葉にすれば弱くなる。だから理由は持たない。持っているのは、足の向きだけだった。
朝の名駅は、夜の顔を薄く残している。清掃車の水が歩道を洗い、ガラスに映る自分の輪郭が揺れる。真は地下鉄に乗り、港区で降りた。倉庫街へ向かう風は強く、潮の匂いが混じる。人の少ない時間帯を選んだつもりだったが、選んだという感覚自体が、すでに遅れている気もした。
シャッターの並ぶ通りで、真は一度だけ立ち止まった。柊木から聞いた噂の場所に近い。だが、目印はない。あるのは、同じ色の壁と、同じ音の反響だけだ。ここで確かめたいのは、事実ではない。自分の感触が、まだ信じられるかどうかだった。
倉庫の一つの脇に、古い掲示板が残っている。張り替えられた紙の下に、剥がしきれない端が覗く。真は指で触れ、めくった。名簿の切れ端。日付と、見覚えのある略号。初期に使われていたコードの癖だ。完全な一致ではない。だが、偶然にしては、近い。
背後で音がした。振り向く前に、真は一瞬だけ、目を閉じた。閉じれば、戻れる気がしたからだ。だが音は風だった。シャッターが鳴り、影が揺れる。真は息を整え、名簿の切れ端をポケットに入れた。証拠と呼べるほどではない。ただの重さだ。
帰り道、真は母の家に寄った。理由は言わない。台所の棚の奥から、古い封筒を見つける。銀行名、支店名、日付。帳簿の一行が、ここでも重なる。母は何も説明しない。説明を待たれていることだけは、分かっている顔だった。
「疲れてるなら、休みなさい」
その言葉は、いつもと同じだった。真は頷きかけて、止まる。喉が鳴り、視線を逸らす。休めば、見なくて済む。だが、見ない選択は、もう選べないところまで来ていた。
夜、名駅へ戻る電車の窓に、街が流れる。真はポケットの中で、名簿の切れ端の角を指でなぞった。角は丸く、使われた時間だけが残っている。
一人で踏み込むというのは、何かを掴むことではない。掴まないまま、戻らないことだ。その覚悟が、胸の奥で、静かに定着していった。




