第十章 話す範囲
誰に話すか。どこまで話すか。 真の頭の中で、その二つは別の問いとして並んでいた。答えを出せば、もう戻れない。だが、答えを出さないままでも、時間は同じ速度で進む。
最初に思い浮かんだのは、仁だった。共同経営者であり、幼馴染であり、ここまで一緒に来た相手だ。だが、その選択肢は、浮かんだ瞬間に沈んだ。話せば、整理される。整理されれば、数字になる。数字になった瞬間、この違和感は「処理」されてしまう。真が抱えているのは、まだ処理してはいけない種類の感触だった。
次に浮かんだのは、現場の施設長たちだった。南区、港区、金山。だが彼らは忙しく、そして弱い。派遣会社との関係が崩れれば、困るのは現場だ。噂話の段階で巻き込むには、代償が大きすぎる。
三つ目の名前が、自然に残った。柊木玲奈。外部の人間で、内部を知っている。距離があり、しかし完全には無関係ではない。真は名駅裏の喫茶店に入り、窓際の席を選んだ。外を歩く人の足元だけが見える位置だ。
柊木はコーヒーを一口飲み、真の顔を見た。
「全部じゃなくていい」
言われる前から、そう決めていた。真は、帳簿の話をした。コードの違和感、初期に使われていた番号、意味だけが合わない行。失踪については、事実だけを置いた。港の倉庫街の噂は、伏せた。
柊木はメモを取らない。ただ、聞く。沈黙が挟まっても、急かさない。その態度が、逆に怖かった。
「これ、まだ名前がないね」
彼女はそう言った。事件とも、不正とも、呼ばない。名前がつかないうちは、扱いを間違えやすい。
真は頷きかけて、止まった。喉が鳴り、視線が逸れる。ここまでだ、と身体が判断する。これ以上話せば、線が引かれる。
「今日は、ここまでにする」
柊木は何も言わず、カップを置いた。その音が、やけに大きく聞こえた。
店を出ると、名駅の人波が押し寄せる。真は流れに逆らわず歩いた。話した分だけ、世界が少し軽くなった気がしたが、同時に、もう一段深い場所に踏み込んだことも分かっていた。
誰に、どこまで話すか。その線引きが、次に越えられる準備を、静かに整えていた。




