見えなかった教室
本日も『名前のないレポート』を手に取ってくださり、ありがとうございます。
読んでくださるあなたの存在が、この物語の灯になっています。
私たちは、目に見えるものだけを信じてはいないでしょうか。
記録に残らないこと、呼ばれないこと、書き留められないこと――
そうした“抜け落ちるもの”にも、確かな体温や時間があるはずです。
今日の物語は、そんな“見えなさ”のなかにある声に、耳をすませてみる時間です。
通知表を受け取ったのは、二月のはじめだった。
寒さはまだ校舎の壁の隙間から忍び込んできていて、
手にした封筒の紙の感触まで、少し湿っているような気がした。
教室の中でそれぞれが成績に一喜一憂する中、
僕は、通知表の内容よりも、ある“こと”の方が気になっていた。
「柚希、通知表……もらった?」
放課後、帰り支度をしていた彼女にそう声をかけた。
柚希は、カバンの中をちらりと見て、小さく首を振った。
「まだ。先生、忙しそうだったから、また明日って」
そう言って、すぐに視線を逸らした。
その目はどこか、僕の問いを予測していたかのようだった。
⸻
翌日、僕は何気ないふりをして川谷先生に話しかけた。
「先生、通知表って……全員分、もう配り終えました?」
先生は少し驚いたような表情を浮かべてから、曖昧に笑った。
「ん? いや、まだだよ。何人かは来週渡す予定」
「……十五番も?」
「……そうだったかな。ちょっと名簿、見てみるよ」
その返答は、明らかに“確認の前に記憶にない”という反応だった。
“十五番”が、またも曖昧にされる。
存在しているのに、記憶に残らない。
記録されているのに、読み上げられない。
⸻
その日の放課後、僕は校舎の資料室に立ち寄った。
図書室の横、普段は生徒がほとんど入らないその小部屋は、保健室の過去記録や貸出簿などが保管されている場所だった。
部屋の奥にあった古びた台帳に、「保健室来室記録」と書かれた冊子が並んでいる。
僕は二年生の記録を開いた。
日付、時刻、名前、症状、対応――
整然と並ぶ記録の中に、柚希の名前はなかった。
二学期の間に僕は何度か、彼女が体調を崩して保健室に向かうのを見ていた。
でもそのどれもが、ここには書かれていなかった。
まるで、“来ていないことになっている”かのように。
⸻
さらに、僕は図書室の受付カウンターへ向かった。
いつも昼休みに彼女が座っている、窓際の席。
読みかけの参考書、開いたノート、鉛筆のしなり。
そこには確かに、彼女が“いた形跡”がある。
だから、僕は聞いてみた。
「このあいだ、本を借りた記録って、見せてもらえますか? 自分の調べ物で、ちょっと必要で」
司書の先生はあっさりと「どうぞ」と手渡してくれた。
僕は、花咲柚希の名前を探した。
――なかった。
検索欄には、名前の一部で一覧を絞り込む機能がある。
「花」「咲」「柚」「希」、どの単語でも、彼女の貸出履歴は出てこなかった。
彼女はいつも、本を読んでいた。
参考書だけじゃない、小説や新聞も手に取っていた。
でもその“利用履歴”が、なかった。
ここでも、彼女は“いないこと”にされていた。
⸻
放課後、昇降口で僕は彼女を待った。
制服の肩には、いつものように埃が少し積もっていて、
その手には図書室で見かけた例の古い文庫本が抱えられていた。
「……それ、借りたんだ?」
僕が聞くと、柚希は驚いたようにこちらを見た。
それから、ゆっくりと頷く。
「うん。でも、借りてはないよ。貸出カード、もう処理されてないから。
いつも、返すときに棚に戻すだけ」
「記録、残らないじゃん」
「うん。残らないよ」
その返事が、あまりにも自然で、
それが“日常になってしまっている”ことが、何よりも重かった。
「それって……悲しくない?」
僕がそう聞くと、柚希は少し笑った。
「記録があるからって、幸せとは限らないよ。
忘れられてたほうが、楽なこともある」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
でも一つだけ、強く思った。
僕は、彼女を忘れたくない。
誰にも記録されていなくても、僕だけは、ちゃんと見ていたい。
そう思ったのは、恋だったのかもしれない。
でもそれよりもずっと、叫ぶような衝動だった。
次の日の朝、出席簿が回ってきた。
名前の欄に自分のハンコを押して、次の人に回す。
二年四組では、連絡係が日替わりで出席簿を前に持って行くことになっている。
その日は僕の当番だった。
何気なく出席簿を開きながら、僕はふと、あることを思い立った。
そうだ――柚希の欄、どうなっている?
ページをめくると、やはり十五番の名前はあった。
名前の横に小さく「花咲 柚希」と、他の生徒と同じように書かれている。
でも、その欄だけ、判子の押されている日が極端に少なかった。
週に二日、あるいは三日。
間が空いていたり、連続で空白が続いていたりする。
確かに、彼女は“毎日来ている”わけではない。
でも、記憶の限りでは、ここ最近はほぼ毎日教室にいたはずだった。
なら、なぜ押されていない?
印鑑が回ってくる前に教室を出るから?
誰かが彼女の欄を飛ばしている?
あるいは――最初から“押すべき欄ではない”と、暗黙に処理されている?
ただの印鑑一つなのに、その空白があまりにも多くを語りすぎていて、
僕は出席簿を閉じた手が、少しだけ震えていることに気づいた。
⸻
放課後、僕は図書室ではなく、保健室へ向かった。
一度だけ、柚希がふらつくようにして廊下を歩いていたのを見たことがある。
保健室で何が起きていたのか、記録されていない以上、知る術はない。
でも、その時に、たまたま対応していた養護教諭が、僕にだけ話しかけてきたことがあった。
「あなた、柚希さんと仲良いの?」
「え……いえ、隣の席なだけです」
「そう。じゃあ、もし何かあったら、気づいてあげてね」
その言葉の意味が、そのときは分からなかった。
でも今なら少し、分かる気がする。
“何かが起きても、先生たちは知ることができない”。
彼女はきっと、声を上げない。
上げられないのではなく、“上げない”という選択を、ずっと続けている。
なぜなら、記録されることが、彼女にとっては“危険”なのかもしれないから。
記録に残れば、家庭が問われる。
支援が入れば、本人の意思を超えて生活が変えられる。
それが、彼女にとって一番の恐怖だったのかもしれない。
でも――それでも――
僕は、知ってしまった。
彼女の空白の裏には、意図的に“何かを避けている意思”と、
それでも“ここにいる”という静かな抗いが、確かに存在している。
⸻
帰り道、僕はまた、彼女と歩いていた。
会話はない。
けれど、沈黙は苦ではなかった。
交差点の信号待ちで、ふと、彼女が言った。
「“存在する”って、どういうことだと思う?」
唐突な問いだった。
でも、僕にはすぐに分かった。
それは、彼女がずっと、自分に投げかけ続けてきた問いだということが。
「……見えること、かな。誰かの目に、映ること」
彼女はその答えを聞いて、少しだけ笑った。
「じゃあ、記録に残らなくても、見えてたら、それでいい?」
「うん。たとえ、学校のどこにも名前がなかったとしても、
僕の中にあれば、それでいいと思う」
柚希は何も答えなかった。
でも、そのときの彼女の横顔は、
これまで僕が見てきた中で、いちばん静かで、いちばん泣き出しそうな顔をしていた。
⸻
名前がなくても、ここにいる。
記録されなくても、確かに存在している。
でもそれを“証明”するのは、誰の目で、誰の言葉で?
僕はまだ、答えを持っていない。
けれどその問いの前に立つことだけは、もう逃げずにいたいと思った。
それが、彼女の隣にいるということだから。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
何も書かれていない欄。何も言われなかった時間。
それでも、そこに確かに在った誰かの姿を、
この物語を通して、少しでも想像していただけたなら嬉しく思います。
見えないままでいたものが、
あなたの目の奥に、そっと映りますように。
また、静かなページの中でお会いしましょう。