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名前のないレポート  作者: 山神錦采
第一章 見えない名簿
3/8

見えなかった教室

本日も『名前のないレポート』を手に取ってくださり、ありがとうございます。

読んでくださるあなたの存在が、この物語の灯になっています。


私たちは、目に見えるものだけを信じてはいないでしょうか。

記録に残らないこと、呼ばれないこと、書き留められないこと――

そうした“抜け落ちるもの”にも、確かな体温や時間があるはずです。


今日の物語は、そんな“見えなさ”のなかにある声に、耳をすませてみる時間です。

通知表を受け取ったのは、二月のはじめだった。


寒さはまだ校舎の壁の隙間から忍び込んできていて、

手にした封筒の紙の感触まで、少し湿っているような気がした。


教室の中でそれぞれが成績に一喜一憂する中、

僕は、通知表の内容よりも、ある“こと”の方が気になっていた。


「柚希、通知表……もらった?」


放課後、帰り支度をしていた彼女にそう声をかけた。

柚希は、カバンの中をちらりと見て、小さく首を振った。


「まだ。先生、忙しそうだったから、また明日って」


そう言って、すぐに視線を逸らした。

その目はどこか、僕の問いを予測していたかのようだった。



翌日、僕は何気ないふりをして川谷先生に話しかけた。


「先生、通知表って……全員分、もう配り終えました?」


先生は少し驚いたような表情を浮かべてから、曖昧に笑った。


「ん? いや、まだだよ。何人かは来週渡す予定」


「……十五番も?」


「……そうだったかな。ちょっと名簿、見てみるよ」


その返答は、明らかに“確認の前に記憶にない”という反応だった。


“十五番”が、またも曖昧にされる。

存在しているのに、記憶に残らない。

記録されているのに、読み上げられない。



その日の放課後、僕は校舎の資料室に立ち寄った。

図書室の横、普段は生徒がほとんど入らないその小部屋は、保健室の過去記録や貸出簿などが保管されている場所だった。


部屋の奥にあった古びた台帳に、「保健室来室記録」と書かれた冊子が並んでいる。

僕は二年生の記録を開いた。


日付、時刻、名前、症状、対応――

整然と並ぶ記録の中に、柚希の名前はなかった。


二学期の間に僕は何度か、彼女が体調を崩して保健室に向かうのを見ていた。

でもそのどれもが、ここには書かれていなかった。


まるで、“来ていないことになっている”かのように。



さらに、僕は図書室の受付カウンターへ向かった。


いつも昼休みに彼女が座っている、窓際の席。

読みかけの参考書、開いたノート、鉛筆のしなり。

そこには確かに、彼女が“いた形跡”がある。


だから、僕は聞いてみた。


「このあいだ、本を借りた記録って、見せてもらえますか? 自分の調べ物で、ちょっと必要で」


司書の先生はあっさりと「どうぞ」と手渡してくれた。

僕は、花咲柚希の名前を探した。


――なかった。


検索欄には、名前の一部で一覧を絞り込む機能がある。

「花」「咲」「柚」「希」、どの単語でも、彼女の貸出履歴は出てこなかった。


彼女はいつも、本を読んでいた。

参考書だけじゃない、小説や新聞も手に取っていた。

でもその“利用履歴”が、なかった。


ここでも、彼女は“いないこと”にされていた。



放課後、昇降口で僕は彼女を待った。

制服の肩には、いつものように埃が少し積もっていて、

その手には図書室で見かけた例の古い文庫本が抱えられていた。


「……それ、借りたんだ?」


僕が聞くと、柚希は驚いたようにこちらを見た。

それから、ゆっくりと頷く。


「うん。でも、借りてはないよ。貸出カード、もう処理されてないから。

いつも、返すときに棚に戻すだけ」


「記録、残らないじゃん」


「うん。残らないよ」


その返事が、あまりにも自然で、

それが“日常になってしまっている”ことが、何よりも重かった。


「それって……悲しくない?」


僕がそう聞くと、柚希は少し笑った。


「記録があるからって、幸せとは限らないよ。

忘れられてたほうが、楽なこともある」


その言葉に、僕は何も返せなかった。


でも一つだけ、強く思った。


僕は、彼女を忘れたくない。

誰にも記録されていなくても、僕だけは、ちゃんと見ていたい。


そう思ったのは、恋だったのかもしれない。

でもそれよりもずっと、叫ぶような衝動だった。


次の日の朝、出席簿が回ってきた。


名前の欄に自分のハンコを押して、次の人に回す。

二年四組では、連絡係が日替わりで出席簿を前に持って行くことになっている。


その日は僕の当番だった。


何気なく出席簿を開きながら、僕はふと、あることを思い立った。

そうだ――柚希の欄、どうなっている?


ページをめくると、やはり十五番の名前はあった。

名前の横に小さく「花咲 柚希」と、他の生徒と同じように書かれている。


でも、その欄だけ、判子の押されている日が極端に少なかった。


週に二日、あるいは三日。

間が空いていたり、連続で空白が続いていたりする。


確かに、彼女は“毎日来ている”わけではない。

でも、記憶の限りでは、ここ最近はほぼ毎日教室にいたはずだった。


なら、なぜ押されていない?


印鑑が回ってくる前に教室を出るから?

誰かが彼女の欄を飛ばしている?

あるいは――最初から“押すべき欄ではない”と、暗黙に処理されている?


ただの印鑑一つなのに、その空白があまりにも多くを語りすぎていて、

僕は出席簿を閉じた手が、少しだけ震えていることに気づいた。



放課後、僕は図書室ではなく、保健室へ向かった。


一度だけ、柚希がふらつくようにして廊下を歩いていたのを見たことがある。

保健室で何が起きていたのか、記録されていない以上、知る術はない。


でも、その時に、たまたま対応していた養護教諭が、僕にだけ話しかけてきたことがあった。


「あなた、柚希さんと仲良いの?」


「え……いえ、隣の席なだけです」


「そう。じゃあ、もし何かあったら、気づいてあげてね」


その言葉の意味が、そのときは分からなかった。


でも今なら少し、分かる気がする。


“何かが起きても、先生たちは知ることができない”。


彼女はきっと、声を上げない。

上げられないのではなく、“上げない”という選択を、ずっと続けている。


なぜなら、記録されることが、彼女にとっては“危険”なのかもしれないから。


記録に残れば、家庭が問われる。

支援が入れば、本人の意思を超えて生活が変えられる。

それが、彼女にとって一番の恐怖だったのかもしれない。


でも――それでも――


僕は、知ってしまった。


彼女の空白の裏には、意図的に“何かを避けている意思”と、

それでも“ここにいる”という静かな抗いが、確かに存在している。



帰り道、僕はまた、彼女と歩いていた。


会話はない。

けれど、沈黙は苦ではなかった。


交差点の信号待ちで、ふと、彼女が言った。


「“存在する”って、どういうことだと思う?」


唐突な問いだった。

でも、僕にはすぐに分かった。

それは、彼女がずっと、自分に投げかけ続けてきた問いだということが。


「……見えること、かな。誰かの目に、映ること」


彼女はその答えを聞いて、少しだけ笑った。


「じゃあ、記録に残らなくても、見えてたら、それでいい?」


「うん。たとえ、学校のどこにも名前がなかったとしても、

僕の中にあれば、それでいいと思う」


柚希は何も答えなかった。

でも、そのときの彼女の横顔は、

これまで僕が見てきた中で、いちばん静かで、いちばん泣き出しそうな顔をしていた。



名前がなくても、ここにいる。

記録されなくても、確かに存在している。


でもそれを“証明”するのは、誰の目で、誰の言葉で?


僕はまだ、答えを持っていない。

けれどその問いの前に立つことだけは、もう逃げずにいたいと思った。


それが、彼女の隣にいるということだから。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


何も書かれていない欄。何も言われなかった時間。

それでも、そこに確かに在った誰かの姿を、

この物語を通して、少しでも想像していただけたなら嬉しく思います。


見えないままでいたものが、

あなたの目の奥に、そっと映りますように。


また、静かなページの中でお会いしましょう。

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