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名前のないレポート  作者: 山神錦采
第一章 見えない名簿
2/8

遠さの単位

ここまで読み進めてくださって、ありがとうございます。

ふたたび物語の扉を開いてくださったあなたに、心から感謝します。


名前を呼ばれるということ。

それは、存在を受け止められることと、どこかでつながっているのかもしれません。


今日の物語には、

呼ばれなかった誰かと、呼ぼうとする誰かの、

静かで、けれど確かに揺れる距離が描かれています。


その“遠さ”を測るものさしが、

あなたの中にもそっと生まれますように。

文化祭の準備が始まった。


二月の寒さがまだ教室に残っていたけれど、廊下を行き交う声にはほんの少し、春の騒がしさが混じり始めていた。

黒板には、「二年四組文化祭実行委員選出」と太く書かれていて、教室の前方に立つ川谷先生の手には名簿があった。


「それじゃあ、出席番号順に候補者を読み上げていきます。立候補でも構いませんし、推薦でも大丈夫です」


淡々とした口調で、先生は出席番号のリストを読み上げ始めた。


「一番、池田……」

「二番、石原……」

「三番……」


順に名前が呼ばれていくたびに、生徒たちは面倒くさそうに反応したり、黙ったままだったりした。

でも、それはよくある教室の風景で、誰も特に気に留めていなかった。


僕も、そのときまではそうだった。

十四番の名前が呼ばれるまでは。


「十四番、片桐」


「はいはーい、絶対やりたくないけどやるしかないっしょ、ってことで!」


女子の笑い声が小さく湧いた。

そして、先生が次の名前に目を落とした……はずだった。


でも、読み上げなかった。


次の番号、十五番。


花咲柚希。


その名前が、口から出てこなかった。


プリントの中にはきっと書いてあるはずだった。

十四、十五、十六……順番に並んでいるはずなのに、

先生の口から出てきたのは、唐突に「十六番、松田」だった。


最初は、聞き間違いかと思った。

でも、隣で筆記していたクラス委員が、すでに次の番号を書き始めていた。


柚希は、黙って座っていた。

誰も異議を唱えなかった。

驚く様子も、不満そうな顔も、なかった。


まるで“いつものこと”のように。



「なあ、柚希って委員になったことあるっけ?」


休み時間、僕はなんとなく陸人に聞いてみた。


「えー? ないんじゃね?」


「一回も?」


「うん。たしか、去年も何かの係で名前なかったような……。てか、柚希ってマジで目立たないよな。

なんか、“いるけど記憶に残らない系”って感じ?」


その言葉が、引っかかった。

“記憶に残らない系”。


それは単なる存在感の問題じゃない。

“存在として記録されない”ということなんじゃないかと、僕は思っていた。



放課後、僕は意識的に先生に近づいた。


「先生、文化祭の名簿、十五番って……読み飛ばしてませんでした?」


川谷先生は、少しだけ表情を曇らせた。


「ああ、あれか……。うん、ちょっと事情があってね」


「事情って?」


「……まあ、これはあまり深く詮索しなくていい話だよ」


「でも、それって不公平じゃないですか?」


先生は少しのあいだ沈黙して、それから笑った。

その笑みは、苦いコーヒーを無理に飲み干したときみたいな表情だった。


「“みんなと同じ”にすることが、必ずしもその人のためになるとは限らないからね」


そう言って、先生は話を切り上げるように職員室へ向かった。

僕はその背中を見つめたまま、動けずにいた。


“その人のため”――

でも、それは“その人に聞いた”わけではない。

大人が勝手に決めた“配慮”という名の、排除なんじゃないのか。


名前が呼ばれないこと。

委員に選ばれないこと。

それを誰も疑問に思わない教室。


その距離が、どれだけの“単位”を持っているのか、

僕はようやく少しだけ分かってきた気がした。


翌日、朝のSHRショートホームルームで、委員の担当が発表された。


「では、以下の人が文化祭実行委員となります。進行係が片桐さん、記録係が松田君と……」


名前が呼ばれるたびに、周囲から軽い拍手や歓声があがる。

でも、十五番――柚希の名前は、やはり呼ばれなかった。


僕はそれを聞きながら、視線をそっと彼女の方に向けた。


柚希は、何も反応していなかった。

背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ていた。

目を伏せることも、首をかしげることもない。


それが余計に痛々しかった。


まるで、“ここにいないこと”が決まっているかのように、

それが“彼女の居場所”として、既成事実になっているかのように思えた。



昼休み、僕はもう一度、職員室前の掲示板を見た。


そこには、文化祭実行委員の一覧が貼り出されていた。

全クラスの生徒名が並び、クラスごとに役職が割り振られている。

当然、名前のない空欄などない……はずだった。


でも、僕の目はすぐに止まった。


二年四組、十五番――そこだけ、空白だった。


名簿のミスか、あるいは配慮か。


けれどそれはもう、個人の事情ではないと僕は思った。

だって、名前が空欄であることに、誰も何も言わないから。


それは、空欄であることが“最初からなかったもの”として処理されているからだ。



放課後、僕は勇気を出して柚希に声をかけた。

帰り支度をしていた彼女のそばへ近づき、小さく言った。


「……委員、やりたくなかった?」


柚希は、一瞬だけ目を見開いた。

それから小さく首を振った。


「別に。やれるよ。たぶん」


「じゃあ、なんで……?」


「ねえ、どうして君がそれを気にするの?」


その問いは、やわらかい声だったけれど、真っ直ぐだった。


僕は答えに詰まった。

“好きだから”なんて言えるはずがなかった。

“かわいそう”なんて思っているわけじゃなかった。


ただ、見てしまったからだった。

あの空白を。

誰も気にしないまま進んでいく現実を。


「……気づいちゃったから」


それだけが、僕の精一杯の答えだった。


柚希は、少しだけ目を伏せてから言った。


「私は、委員になれないわけじゃない。

“なっても、呼ばれない”ってだけ」


「それって……どういうこと?」


「クラスの中で、“呼びかけられる名前”と“ただの記号としての名前”は違うってこと。

私はずっと、記号として存在してるだけだから、誰も私を“呼ばない”」


その言葉は、空気よりも薄くて、でも芯のあるものだった。


「それでも、君は私の名前を、呼ぼうとしてくれてる。

それって、たぶん……すごく遠くて、でも、ちゃんと届いてる」


柚希の声は、今まででいちばん強く、静かだった。



帰り道、僕は名簿の順番を思い返していた。


十五番。


それは、クラスの真ん中あたりにある数字だった。

でも、その“真ん中”にいるはずの彼女は、教室の中では常に“端”に置かれていた。


呼ばれない。

選ばれない。

けれど確かに、そこにいる。


その距離感は、数字では測れない。

でも確かにそこには、“遠さ”が存在していた。


そして僕は、

それを知ってしまった者として、

もうただの“隣の席の男子”ではいられなくなっていた。

読んでくださって、ありがとうございました。


距離というのは、メートルでも秒でもなく、

もしかすると、“呼ばれなかった記憶”の数で決まるのかもしれません。


目に見えないその感覚が、

あなたの中にも、静かに残っていたなら――

この物語はきっと、まだ続いていく意味を持てるのだと思います。


また次のページでお会いできますように。

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