遠さの単位
ここまで読み進めてくださって、ありがとうございます。
ふたたび物語の扉を開いてくださったあなたに、心から感謝します。
名前を呼ばれるということ。
それは、存在を受け止められることと、どこかでつながっているのかもしれません。
今日の物語には、
呼ばれなかった誰かと、呼ぼうとする誰かの、
静かで、けれど確かに揺れる距離が描かれています。
その“遠さ”を測るものさしが、
あなたの中にもそっと生まれますように。
文化祭の準備が始まった。
二月の寒さがまだ教室に残っていたけれど、廊下を行き交う声にはほんの少し、春の騒がしさが混じり始めていた。
黒板には、「二年四組文化祭実行委員選出」と太く書かれていて、教室の前方に立つ川谷先生の手には名簿があった。
「それじゃあ、出席番号順に候補者を読み上げていきます。立候補でも構いませんし、推薦でも大丈夫です」
淡々とした口調で、先生は出席番号のリストを読み上げ始めた。
「一番、池田……」
「二番、石原……」
「三番……」
順に名前が呼ばれていくたびに、生徒たちは面倒くさそうに反応したり、黙ったままだったりした。
でも、それはよくある教室の風景で、誰も特に気に留めていなかった。
僕も、そのときまではそうだった。
十四番の名前が呼ばれるまでは。
「十四番、片桐」
「はいはーい、絶対やりたくないけどやるしかないっしょ、ってことで!」
女子の笑い声が小さく湧いた。
そして、先生が次の名前に目を落とした……はずだった。
でも、読み上げなかった。
次の番号、十五番。
花咲柚希。
その名前が、口から出てこなかった。
プリントの中にはきっと書いてあるはずだった。
十四、十五、十六……順番に並んでいるはずなのに、
先生の口から出てきたのは、唐突に「十六番、松田」だった。
最初は、聞き間違いかと思った。
でも、隣で筆記していたクラス委員が、すでに次の番号を書き始めていた。
柚希は、黙って座っていた。
誰も異議を唱えなかった。
驚く様子も、不満そうな顔も、なかった。
まるで“いつものこと”のように。
⸻
「なあ、柚希って委員になったことあるっけ?」
休み時間、僕はなんとなく陸人に聞いてみた。
「えー? ないんじゃね?」
「一回も?」
「うん。たしか、去年も何かの係で名前なかったような……。てか、柚希ってマジで目立たないよな。
なんか、“いるけど記憶に残らない系”って感じ?」
その言葉が、引っかかった。
“記憶に残らない系”。
それは単なる存在感の問題じゃない。
“存在として記録されない”ということなんじゃないかと、僕は思っていた。
⸻
放課後、僕は意識的に先生に近づいた。
「先生、文化祭の名簿、十五番って……読み飛ばしてませんでした?」
川谷先生は、少しだけ表情を曇らせた。
「ああ、あれか……。うん、ちょっと事情があってね」
「事情って?」
「……まあ、これはあまり深く詮索しなくていい話だよ」
「でも、それって不公平じゃないですか?」
先生は少しのあいだ沈黙して、それから笑った。
その笑みは、苦いコーヒーを無理に飲み干したときみたいな表情だった。
「“みんなと同じ”にすることが、必ずしもその人のためになるとは限らないからね」
そう言って、先生は話を切り上げるように職員室へ向かった。
僕はその背中を見つめたまま、動けずにいた。
“その人のため”――
でも、それは“その人に聞いた”わけではない。
大人が勝手に決めた“配慮”という名の、排除なんじゃないのか。
名前が呼ばれないこと。
委員に選ばれないこと。
それを誰も疑問に思わない教室。
その距離が、どれだけの“単位”を持っているのか、
僕はようやく少しだけ分かってきた気がした。
翌日、朝のSHRで、委員の担当が発表された。
「では、以下の人が文化祭実行委員となります。進行係が片桐さん、記録係が松田君と……」
名前が呼ばれるたびに、周囲から軽い拍手や歓声があがる。
でも、十五番――柚希の名前は、やはり呼ばれなかった。
僕はそれを聞きながら、視線をそっと彼女の方に向けた。
柚希は、何も反応していなかった。
背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ていた。
目を伏せることも、首をかしげることもない。
それが余計に痛々しかった。
まるで、“ここにいないこと”が決まっているかのように、
それが“彼女の居場所”として、既成事実になっているかのように思えた。
⸻
昼休み、僕はもう一度、職員室前の掲示板を見た。
そこには、文化祭実行委員の一覧が貼り出されていた。
全クラスの生徒名が並び、クラスごとに役職が割り振られている。
当然、名前のない空欄などない……はずだった。
でも、僕の目はすぐに止まった。
二年四組、十五番――そこだけ、空白だった。
名簿のミスか、あるいは配慮か。
けれどそれはもう、個人の事情ではないと僕は思った。
だって、名前が空欄であることに、誰も何も言わないから。
それは、空欄であることが“最初からなかったもの”として処理されているからだ。
⸻
放課後、僕は勇気を出して柚希に声をかけた。
帰り支度をしていた彼女のそばへ近づき、小さく言った。
「……委員、やりたくなかった?」
柚希は、一瞬だけ目を見開いた。
それから小さく首を振った。
「別に。やれるよ。たぶん」
「じゃあ、なんで……?」
「ねえ、どうして君がそれを気にするの?」
その問いは、やわらかい声だったけれど、真っ直ぐだった。
僕は答えに詰まった。
“好きだから”なんて言えるはずがなかった。
“かわいそう”なんて思っているわけじゃなかった。
ただ、見てしまったからだった。
あの空白を。
誰も気にしないまま進んでいく現実を。
「……気づいちゃったから」
それだけが、僕の精一杯の答えだった。
柚希は、少しだけ目を伏せてから言った。
「私は、委員になれないわけじゃない。
“なっても、呼ばれない”ってだけ」
「それって……どういうこと?」
「クラスの中で、“呼びかけられる名前”と“ただの記号としての名前”は違うってこと。
私はずっと、記号として存在してるだけだから、誰も私を“呼ばない”」
その言葉は、空気よりも薄くて、でも芯のあるものだった。
「それでも、君は私の名前を、呼ぼうとしてくれてる。
それって、たぶん……すごく遠くて、でも、ちゃんと届いてる」
柚希の声は、今まででいちばん強く、静かだった。
⸻
帰り道、僕は名簿の順番を思い返していた。
十五番。
それは、クラスの真ん中あたりにある数字だった。
でも、その“真ん中”にいるはずの彼女は、教室の中では常に“端”に置かれていた。
呼ばれない。
選ばれない。
けれど確かに、そこにいる。
その距離感は、数字では測れない。
でも確かにそこには、“遠さ”が存在していた。
そして僕は、
それを知ってしまった者として、
もうただの“隣の席の男子”ではいられなくなっていた。
読んでくださって、ありがとうございました。
距離というのは、メートルでも秒でもなく、
もしかすると、“呼ばれなかった記憶”の数で決まるのかもしれません。
目に見えないその感覚が、
あなたの中にも、静かに残っていたなら――
この物語はきっと、まだ続いていく意味を持てるのだと思います。
また次のページでお会いできますように。