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9/14

椅子

 こんなことがあった。

 この日は、出不精の自分には珍しく、仕事終わりに劇場に芝居を観に行くことになっていた。大きなホールでの公演ではない。知人からオススメされた、小劇場で上演されている作品だ。

 チラシの画像が送られてきた時、正直、気が乗らなかった。なんというか…若干、デザインがダサい。尚且つ、そこに載っているあらすじや出演者の写真が、これまた微妙に、外している感じがする。個人の感想だが。

 知人は、出演している俳優のファンだという。若い子なのかと思っていたが、よくよく聞くと四十代くらいの中堅どころらしい。映像作品には出ていないが、舞台では超売れっ子で、今一番の推し、だそうだ。そこそこ生きてきても、知らない世界があるものだ。

 結局、強烈な誘いを断りきれず、観劇しに行くことになってしまった。チケット代も四、五千円ほどしたので、月末の給料日前のお財布には大打撃だった。その分、しっかり楽しませてもらおう。

 下北沢で知人と落ち合う予定だったが、体調を崩して来れなくなってしまった。迷ったが、せっかくここまで来たので、予定通り観劇することにした。駅から目的の劇場へ向かう道中にも、いくつか劇場があるが、大体この辺りは一つのグループの経営する劇場がメインで、系列の劇場が複数あるらしい。

 すぐに目当ての場所に辿り着いた。入り口から階段を降りて、人が二人すれ違えるか怪しいほどの狭い通路に設置された受付で予約の名前を伝えて、一人来れなくなってしまったことを謝る。特にキャンセル料などは必要ないと言われて、少しほっとした料金を支払い、チケットを受け取る。中へ進むと、薄暗い場内に、年季が入ってクッションが薄い椅子がびっしりと並べられていた。すでに座っている人たちの足を踏まないように気をつけながら進む。客席は五十席あるかないかで、全体がL字になっており、列が多く並んだ席が少ない方と、列が少なく横に数が多い席があった。観やすかろうと思い、列が少ない方を選ぶ。三列あるうちの、二列目の半ばに座った。それとなく周りを見渡すと、開演時間までもう間も無くといったところだが、前の方の座席も客はまばらだった。夜とはいえ、平日の木曜日だ。なかなか集客は大変そうだなと思う。

 流れていた音楽が少し弱まり、一人の男性が出てきた。色々な冗談を交えながら、上演前の注意事項を説明する。客席の空気がやや温まったように感じた。

「それではまもなくの開演です、最後までごゆっくりとお楽しみください」

 そう言って一礼し、男性は奥へと引っ込んでいった。ゆっくりと音楽が大きくなり、照明が落ちていく。

 そうして始まった芝居は、非常に面白かった。粗い部分もあったが、脚本が良かった。役者の力量はばらつきがあるが、それも観ているうちに味のように感じられてきた。

 一時間ほどしてからだろうか。ひそひそと、囁き声のようなものが聞こえてきて、そこまでかなり集中できていたのだが、現実に引き戻されてしまった。やや残念な気持ちになる。

 それでも無視して目の前の芝居に意識を戻すのだが、その囁きは途切れることがなかった。気のせいか、声は大きくなってきていた。苛立ちが募っていく。チラッと周囲に視線を送るが、集中して観ていたり、奥の方の座席で寝てしまっているだけだった。気になっているのは自分だけだろうか。

 だが、終盤の静かなシーンで、後ろから聞こえてくる声に含み笑いのようなものが混じってきて、我慢ができなくなった。衝動的に振り向いてしまった。

 誰もいなかった。空席が並ぶばかり。

 文句を言いそうになっていた口から、変な空気が漏れる。慌てて左右を見たが、三列目の座席には誰もいない。綺麗に並べられたパンフレットが置いてあるだけだった。

 混乱しながら前を見る。隣の席に座っていた年配の女性から、やや迷惑そうな空気を感じて、居た堪れない気持ちになった。

 そのままラストシーンが終わり、すぐに終演後のカーテンコールが始まる。じっと前を見続けるが、何も頭に入ってこない。挨拶が終わり、客席の明かりが点いた。そこまで我慢していたが、急いで客席を立ち、劇場の外へと出た。狭い場内を無理やり通り抜けたので、迷惑そうな顔をされたが、早くあの場を離れたかった。

 先ほどのカーテンコールの最中、主演の男性の挨拶の間、また声が聞こえていたのだ。だが今度は、はっきりと内容が聞き取れるほどの大きさになっていた。


「見て、こっちを見て」


 もう、振り向く勇気はなかった。

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