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鳴き声

 こんなことがあった。


 犬の鳴き声が聞こえてきて、目が覚めた。

 真夏の、深夜だった。この頃は、五階建ての古いマンションに住んでいた。おそらく一つ下の階の老婦人の飼っている犬だろう。以前から時々、夜中に吠える声が聞こえることがあった。このマンションはペット禁止だが、四階に住む彼女だけは犬との同居を許されている。以前、引越しの際に挨拶したことがあり、その時に介助犬だと聞いた覚えがあった。エレベーターもない古い建物の階段を昇り降りするのは大変だろうと言うと、「でもねえ、今更どこにも行けないのよねえ」と静かに笑っていたことを思い出す。

 夜中にうるさいなあとは思ったが、わざわざ文句を言いに行くほど大きな音でもない。そのまま目を閉じ、明日の仕事のことを考えていたら、いつのまにかぐっすりと寝てしまっていた。


 しばらく経ったある日の夕方。茹だるような暑さの中、仕事から帰ってきて、汗だくになりながらマンションの階段を登り始めると、ふと、どこからか異臭を感じた。少し甘いような、それでいて思わず顔を顰めてしまう臭い。これは…腐敗臭だ。我慢しながら階段を登る。三階に差し掛かると、玄関ドアの前に黒いゴミ袋が置いてある部屋があった。たぶんこれが原因だろう。回収の曜日は決まっているのでゴミ捨て場に置けないのは分かるが、この真夏に外に放置は危険だ。

 自分の部屋がある五階は何故か階段に窓がない。他の住人から、後から無理やり増築したような話を聞いたことある。窓がないせいで、下の階から空気が温められて上がってくると、そのまま滞留してしまう。階段を登るたび空気が澱んでいくのが感じられ、五階の自室の前にたどり着いた時には、案の定、腐敗臭が充満していた。

 これはきつい。急いでドアを開けて玄関に滑り込み、素早く閉めた。靴を脱いで部屋の中に入り、急いで窓を開ける。生ぬるいが、強い風が吹いていて、少し楽になった。

 明日も放置されていたらさすがに管理会社に電話しよう。そう思いながら、タバコを取り出し火をつけた。

 その夜も、犬の鳴き声が聞こえた。何故か気になってしまって、その日は熟睡できなかった。

 

 翌日。三階の部屋の前からゴミ袋は無くなっていたが、酷い腐敗臭は残ったままだった。げんなりとしながら仕事に向かう。

 夜になって帰宅した時にも状況は変わらず、階段全体が澱んでいるように感じられた。気づけば蝿も飛んでいる。仕方なくドラッグストアで消臭剤をいくつか買ってきて、空間にスプレーするものをこれでもかとぶち撒け、置くタイプの蝿対策グッズをドアの前に置いた。これで少しマシになれば…と思った。


 だが、それから一週間。薄まるどころか臭いはどんどん強くなり、蝿の数はさらに増えていった。

 今では、自室の玄関に立つと臭いが感じられるほどになったし、階段や踊り場に蝿の死骸が落ちていて、さすがにこれはおかしいと思い始めた。これだけでも頭が痛いのだが、最近、ほぼ毎晩のように犬の鳴き声が続いていて、夜中に目が覚めてしまって熟睡できていない。これもきつい。

 さすがに管理会社に電話するか、引っ越しするかと悩んでいて、その日は仕事しながら同僚に愚痴った。

「それきついねー気遣うし…必要なら言って、友達の不動産屋紹介するから!」

 そう言いながら親指を立てる同僚の顔を見て、思わず泣きそうになるくらいには、異臭と寝不足に追い詰められていた。

 明日は休みだし、まずは管理会社に相談してみよう。どうしようもなければ引っ越しすることにして、しばらくホテルか実家に泊まろう。

 そんなことを考えながら帰宅すると、マンションの前に、白と黒が基調の車が停まっていた。パトカーだ。そのすぐ横に立って、警察官と誰かが話しているのが見えた。眼鏡をかけた初老の男性で、確か三階の住人だったはず。何かあったのだろうかと思って眺めていると、こちらに気づいた警官に声をかけられた。

「すみません、こちらに住んでいる方ですか?」

「そうですけど…何かあったんですか?」

「四階の田原さん、亡くなってたんですって!」

 眼鏡の老人が口を挟んできた。タハラさん、が誰かピンとこなくて、曖昧な反応をしてしまった。この興奮が共有できなかったことに対して、やや苛立ちを覚えたのか、老人はさらに強めに捲し立てる。

「ほら、犬飼ってた婆さんいただろ? あの人、亡くなってたん…」

 興奮した様子の老人に向かって、横に立っていた警官が「すみません、あまり大きな声で話されるのは…」と困り顔で話しかけ、それ以上話そうとするのを制した。それからこちらを見て警官が口を開いた。

「最近、見かけられたこととか、お話しされたことってありますか?」

 そう言われてみてよく考えれば、ここ数週間、見かけてないかもしれない。

「そうですか…事件性はないと思われるんですがね、念のため皆さんにお話伺ってるんですよ」

 あの腐敗臭は、老婦人のものだったのか。たまに見かければ挨拶する程度だったとはいえ、身近に住む人が亡くなったと聞かされると、腹の中にずしんとした重みを感じる。

「連絡がつかないって親族の方から管理会社に連絡があったそうで…それで通報を受けたんですよ」

 人が良さそうな顔をした警官は、そう教えてくれた。そういえば、と気づいて、彼女の犬がどうなったか聞いた。

「ああ…」と言って一瞬思案したような表情をした。それから、本当はあんまり言っちゃいけないんですけどね、と前置きして、

「一緒に亡くなってたみたいです。寄り添ってて、主人想いの良い子だったみたいですね」

 と言った。その話ぶりが、なんとなく彼も犬を飼っていて可愛がっているように感じられた。

 そこでちょうど、別の住人が外に出てきたのが見えた。また何かあればお話を伺うかもしれませんと言い残し、警官はそちらに向かっていった。

 部屋に戻るか。歩き出そうとすると、それまで静かに立っていた老人がまた話しかけてきた。

「犬も一緒に死んじゃうなんてねえ…最近はすっかり静かだったもんねえ」

 最近、静かだった? 思わず口から言葉がこぼれた。神妙な顔をしながら、老人は答える。以前は、犬の足音や、介助のために椅子を引く音がよく聞こえていたという。もちろん夜中に犬の鳴き声が聞こえることもあったそうだ。老人は新聞配達で深夜に起きるという。だが、ここ数週間はまったく音も声も聞こえなくなったので、引っ越したのではないかと思っていたらしい。

 当たり障りのない返事をしてその場を離れた。階段を登っていく。四階に差し掛かって、自然と足が止まった。三部屋あるうち、一番奥にある部屋のドアには、黄色と黒の立ち入りを禁じるテープが貼られていた。あそこにはもう、誰もいない。


 その夜、電気を消してベッドに横になっていると、しばらくして、犬の鳴き声が聞こえてきた。

 その声に、じっと耳を澄ます。主人が倒れたのを知らせるためなのか、何をしても動かな主人に語りかけていたのか。老婦人も犬も、いつまで生きていたのかは分からない。すぐに声をかけに行けば、助けられたかもしれない。あるいは。

 目を閉じて、そんなことを考える。答えは見つからない。闇の中で、犬だったものの鳴き声は変わらず聞こえてくる。

 その声が遠く消えていくのを、夜が明けるまで、ただじっと、聞き続けた。

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