路地
こんなことがあった。
その日は友人宅での飲み会があった。終電までには帰るつもりだったが、いつの間にか時間も過ぎていて歩くのも面倒になり、始発までダラダラと過ごしていた。
眠気で重い瞼を擦りながら部屋を出る。日の出もまだの薄暗い道を、一人で歩く。タバコに火をつけようとして、ライターを忘れてきたことに気づく。箱に戻しながら、ため息をついた。
十分ほど歩けば最寄駅なのだが、この日は、気づくと何故か、まったく見慣れない路地に踏み入れていた。
何度も通っているはずの場所だが、まったく見覚えがない。どこか曲がる場所を間違えたろうか。そう思い、しばらく引き返してみるも、これまた見知らぬ道へと出てくる。スマホの地図アプリを開くが、今いる場所と表示される地図がどう見ても合っておらず、明らかに民家を突き抜けているように表示される。
何かで読んだ、磁場が狂っている場所、ということなんだろうか。それにしても、いつもの道を、いつも通りに歩いていただけのはず。周囲に見えているのは何の変哲もない住宅ばかりだ。だが、かれこれ三十分ほど迷い続けている。
歩き回っていて、喉が渇いてきた。コンビニや自販機を探すが、視界に入るのは民家だけ。さすがに座って落ち着きたいと思って、ベンチがありそうな公園を探しながら歩く。だが、行けども行けども同じような景色が続くばかりだ。
ここらで心が折れて、友人に電話した。寝起きの不機嫌そうな声が返ってくるが、仕方ない。状況を説明して、迎えにきてもらえないかと頼んだ。最初は面倒そうにしていたが、こちらがあまりにも必死に頼むので、折れてくれたらしい。十分もかからないと言って電話は切れた。正直、少しほっとした。とりあえず自販機はないだろうか。きょろきょろと周りを見渡してみる。
その時、後ろの方から微かに、話し声が聞こえてきた。
振り返ると、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。横には膝丈くらいの生き物もいるようで、おそらく犬の散歩中のようだ。少し気恥ずかしいが、ここがどこか聞いて、あわよくば道案内してもらいたいと思い、一歩踏み出しかけた。が、すぐに止めた。
前方から歩いてくるのは、犬用のリードを手にした老人だった。頭が異常に大きい。その重さを支えられないようで、ぐらぐらしているように見える。そして、その手に持たれたリードの先につながっているのは…人間だった。中年男性のようだ。薄汚れたように全身が黒ずんでいて、とても痩せ細っていてた。
それだけでも異様だったが、二人とも、瞼が閉じられていて、黒い小さな線がついていた。近づくにつれ見えてきたが、黒い糸で、瞼をしっかり縫い合わせられており、目を開けることができない状態になっていた。
しきりに犬の方が臭いを嗅ぐように、ふんふんと鼻を鳴らしている。老人の方は、ほぉう、ほぉうと、どこから出ているのかわからない、不思議な音を出していた。
立ち尽くしていると、だんだんと近づいてきて、すぐに五メートルほどの距離にまできた。すると、犬の方が何かに気づいたように唸り出した。声というよりは音に近い、んぐーんぐーと、声にならない音を立てる。何かを探している。
それを聞いて、老人は歩みを止めた。瞼の縫い合わせられた頭を、ぐるり、ぐるりと重そうに回す。近くにいる何かを探していると気づいて、思わず息を止めた。音を立てたら、どうなってしまうのだろうか。もし、見つかったら。
老人はその場で頭を回していたが、しばらくして再び、ほぉう、ほぉうと音を立てながら進み始め、手にしたリードを乱暴に引っ張った。犬人間は痛そうに、ぐぐぅうと唸り声をあげたが、ずりずりと引きづられていく。そのまま、老人と犬は横を通り過ぎていった。振り向くことはできなかったが、足音と共に唸り声は遠くなっていき、そして、聞こえなくなった。
立ち尽くしたまま、どれくらいが経ったか。不意にスマホが振動する。画面を見ると友人からで、慌てて出る。
「おい、こっちだこっち」
指示された方を見ると、老人たちが去っていった道の先から、友人が自転車でやってくるのが見えた。思っていた以上に身体が強張っていたらしく、一気に力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
友人と歩いていると、すぐにいつもの道が見えた。何故こんなとこで迷ったのか、友人はしきりに首を傾げていた。
ここが地元で古くから住んでいる友人に、それとなく噂や曰くがないか聞いてみたが、ピンとこないらしい。
もしあの時、老人に見つかってしまっていたら。きっと恐ろしいことになっていた気がする。以来、友人宅には遊びに行っていない。