手振り【二つ目】
また、肌寒い夜だった。
この日は散歩に出ていた。若干残っていた酒は抜けた気がする。
ブラックな弊社にしては珍しく二連休で、溜めに溜めた家事をこなしてしまおうと意気込んでいたものの、昨夜は仕事帰りに同僚に誘われ、久しぶりに飲みに行った。奢りと言われて行ったのだが、久しぶりのアルコールですっかり気分が良くなってしまい、いつの間にか眠り込んでいた。気づくと自分一人になっており、朝五時の閉店に合わせて追い出された。そのまま外へ出ようとしたところ、「お会計まだですよ」と、やや迷惑そうな若い店員に声を掛けられた。やってくれた。
すっかり軽くなった財布をポケットにしまい込み、人もまばらな始発電車に乗って帰宅した。玄関ドアを閉めて、鍵を掛けたところまでは記憶があるが、そのまま玄関で寝てしまったらしい。次に起きた時には午後になっており、ひどい頭痛にやられて二度寝した。その次に目が覚めた時には、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
酒に飲まれた己と、あまりの生産性の無さに、ひとしきり凹んだ。起きて歯を磨き、シャワーを浴びて一息ついた後、ファミレスにでも行くか、と思いついた。一日中寝ていて腹が減っていたし、この時間でやっているのがファミレスか牛丼屋くらいで、その時は無性にハンバーグを食べたかった。わざわざ二駅隣の店に行こうと思ったのは、着替えて、電車に乗って外出すれば、自堕落に浪費した今日という時間を少しは取り戻せる気がしたからだ。まったくの気のせいだが、そうでも思わないと虚無感にやられそうだった。
会計を終えて店を出る頃には、深夜二時を回っていた。
食事を終えた後もすぐに帰る気にもなれず、ドリンクバーでお代わりし続け、スマホで動画を観ながら、だらだらと粘ってしまった。ちなみにハンバーグはグリルの故障だとかで提供できないと言われた。チキンステーキを食べたのだが、店を出たすぐ向いの牛丼屋の前に立てられた幟に、『新!ハンバーグ定食!』と書かれているのが目に入って、肩の力が抜けた。虚無感半端ない。
終電が無くなってしまったので、自宅に向けて歩き出す。手に持ったスマホが微かに振動した。画面を見ると、同僚からだった。メッセージを開くと動画が送られてきていた。映っているのは、明らかに泥酔している自分の姿をした男だった。わざわざこんなもの送ってくるな、そもそも動画を残すな、と返事をする。しばらくこのネタでいじってくるつもりだろう。
暇なのか、何通も届く同僚からのメッセージに、適当に返信し続けながら歩く。あまりにしつこいので、昨日の飲み代のレシートの写真を撮って送りつけた。既読は付いたが、ぱったりとメッセージが来なくなった。このやろう。深いため息が出た。
気がつくと、川沿いの遊歩道まで来ていた。あれから一度も通っていない。少し迷ったが、意を決して道を曲がった。
白髪の老人が、満面の笑みを浮かべて、こちらへ手を振っていた。
身長は百八十センチ前後だろうか、ひょろひょろとした体型をしていて、異様に手足が長く見える。全身黒づくめだが、この寒いのに半袖だ。手には、軍手のようなものをしている。肩にかかるくらいの長さの白髪が、街路灯の灯りを反射して光って見えていた。笑顔のまま、こちらを向いて、ぶんぶんと音がしそうなほど大きく手を振っている。
それが見えた瞬間、間抜けだが、一瞬、知り合いでもいるのかと思い振り返った。もちろん、誰もいない。視線を前に戻す。
笑顔の老人が、手を振りながら、こちらに全力疾走してきていた。
「おわっ!」
思わず声が出た。全身の毛が逆立つ感覚。腰が引けて動けない。
老人は走ってきている。その動きは、なんとももめちゃくちゃだった。足がぐにゃぐにゃと左右に捩れてもつれているが、よろけても、倒れる前にどちらかの足が地面に着いて、無理やり進んでいるように見えた。だがその上半身はまったく微動だにせず、真っすぐこっちを向いて手を振り続けている。異様だった。例えるなら…人間の動きに慣れていない、とでも言うのか。
老人の口元からだらだらと涎が垂れているのが見える距離になって、ようやく、力の入らない脚もつれさせながら、大慌てで通り沿いの道へと走った。一度転びそうになって手をついたが、そのまま無理やり立ち上がって走った。とにかく走り続けた。追いつかれたらどうしよう。頭の中はそれだけでいっぱいだった。
そのまま一〇分ほど走ったろうか。横っ腹の痛みが限界になり、思わず立ち止まる。うまく息が吸えない。後ろを振り返った。
誰もいない。ただ、薄暗い闇が広がっている。先ほど地面に着いた手のひらから、じわりと血が滲んでいた。
それ以来、その遊歩道は一度も通っていない。
実は、走った時に靴が片方脱げてしまったのだが、拾いに行く勇気は、無かった。