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息【改稿】

 こんなことがあった。


 確か、秋頃だったと思う。その日は珍しく、自宅に仕事を持ち帰って作業していた。帰宅してから風呂に入り、コンビニで買ったおにぎりを片手に仕事を進めていたら、すっかり深夜になっていた。薄暗い下手の中は、ほんのりと肌寒い。だが、暖房をつけるのもやや勿体なく感じられて、電気毛布を膝掛けにし、煌々と光るノートPCのモニターを眺めながら、カタカタとキーボードを叩く。暗がりで明るいモニターを見続けるのは良くないとわかっているが、この方が集中できる。

 本来は同僚の担当業務だった。だが、定時数秒前に「急用がある!」と宣言するが早いか、オフィスを飛び出していった。あまりの勢いに呆けていた結果、逃げそびれてしまった。今日はノー残業デーと会社が決めている。持ち帰り確定だ。慌ててオフィスを出ようと荷物をまとめて席を立ったところで、上司に捕まった。強烈な圧がある”お願い”をなんとか断ろうとしたが、結局、負けてしまった。我ながら押しに弱い気がする。

 幸い、既に揃っているデータをまとめて入力するだけなので、考える必要はほぼない。文字を打ち込むだけの単純作業は、そこまで苦ではないので、せめてもの救いかもしれない。仕事を押し付けて帰った同僚のことは許さないが。そうして、帰宅して作業を始めてから、おおよそ四時間ほど経った。

 深夜に薄暗い部屋の中で作業をしていると、一人だけ取り残されたような気持ちになる。孤独な時間は好きな方だ。人と関わることが多い仕事をしている反動だろうか。そんなことを考える。

 デスクの上に置いたマグカップを持ち、口をつける。作業する前に淹れたコーヒーは、すっかり冷め切っていて、飲み込んだ瞬間、思わず身体がぶるっと震えた。部屋の空気の冷たさと同時に、薄っすらと尿意を感じた。

 立ち上がり、トイレへと向かう。ドアを開けながら照明のスイッチを押したが、暗い。電気が点かない。何度かパチパチと押してみるが、まったく反応がない。どうやら電球が切れたようだ。

 一瞬だけ迷ったが、わざわざ交換するのも面倒で、そのまま中に入ってドアを閉める。奥の壁に小さな窓が取り付けられているので、夜とはいえ薄っすらと明るい。すぐに、闇の中に白い便器がぼんやりと浮かび上がって見えるようになった。大体の場所は体が覚えてるから手探りでも大丈夫だ。

 便器に腰掛け、暗闇の中で用を足す。長時間モニターを見ていたこともあって、さすがに疲れを感じた。瞼を閉じて、目元を指先で揉む。明日は同僚に文句を言ってやろう、昼飯でも奢らせてやろうか。

 ふと、髪の毛が揺れて耳に当たった。右手を挙げて耳元を触る。そういえば髪もだいぶ伸びた、次の休みに美容室に行くか、と考えたところで、再び髪が揺れたのを感じる。あれ、と思った瞬間、ふう…と音が聞こえた。それからすぐに、すう…っと聞こえてくる。それらは一定の間隔で繰り返されていた。そのたび、耳元の髪の毛が揺れる。とても、聞き覚えがある。最初は何かわからなかったが、何度か繰り返される音を聞いているうちに、ようやく気づいた。


 これは…呼吸だ。後ろに、何かがいる。


 耳の後ろが、ぞわっと粟立った。当然だが、トイレのタンクはあるが、後ろはすぐに壁だ。この薄暗い個室の中には、自分以外にいるはずもない。ありえない、と思っているが、振り向くことができない。耳に意識が集中しているのが自分でもわかる。その時、繰り返される音の間に、する…する…と、衣擦れのような音が聞こえてきた。何かが、動いていた。

 気づけば、左手で自分の口を押さえていた。無意識に、漏れ出そうになる声を抑えようとしたのか。今、少しでも音を立てれば、この得体の知れない存在に気づかれてしまうんじゃないか。そんな考えが過ぎる。背中を、冷や汗が流れ落ちていった。

 音は、だんだんと大きくなり、そして、耳元で…。


 どれくらいそうしていたのか。自分が瞼を閉じていたことに気づいた。ハッとして目を開けると、音は止んでいた。

 急いで立ち上がってドアを開け、トイレを出た。慌てていたせいだと思うが、何故かタンクのレバーを掴んでしっかり水を流した。

 すぐに廊下の電気を点けて呼吸を整える。そして、水の流れる音が止むのと同時に、意を決して振り向いた。

 だが、薄暗がりの中、どんなに目を凝らしても。いつものトイレが、そこにあるだけだった。

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