シーと新生の方途
《序章》
──小宇宙=8畳の和室から新生の方途へ──
スタンドライトの卵型のLED電球は、まるでこの8畳の和室の小さな太陽のように、隅々にまで淡くあたたかなひかりを放っていた。ほんものの太陽が、地球のすべての生命の源なら、この部屋の小さな太陽は、オレと愛犬シーズーのシーのかすかないのちのともしびだろう。
オレとシーにとっての小宇宙=8畳の和室。
それは雨も降らず、風もないほのかな灯りに育まれたオレとシーのイーハトーブ。
体毛をススキの穂のように煌めかせ、シーがそのつぶらなひとみでじっとオレを見つめる。オレもシーを見つめると、オレの脳の下垂体からオキシトシンが分泌され、シーの脳からもオキシトシンが分泌される。やがてそれは、種を越えた互いの愛情、絆を永遠なものへと導く。
そして、そのつぶらなひとみの先にあるものは、くもりのないまことの世界。
シーは、じっと宇宙の彼方を見つめる……
本当に暗い、暗い《内部の地獄》をもち、それにけんめいに耐えようとしている者のみが、《新生の方途》について語りえる。
そして今、くもりのない世界を脅かすものとの戦いが始まろうとしていた。
《第1章》
──定められた運命なのか──
病室の広い窓から、春の芽生えたようなやわらかな陽が差し込み、真っ白なシーツに真新しいぬくもりを与えていた。
ようやく2歳になれた頬がふっくらとした幼女は、小さな口をあけ大きな瞳で天井を見つめたまま、人形のようにまったく表情がなかった。
幼女は、生まれてすぐに心臓に病気があると診断された。身体中にうまく血液を送り出せない新生児大動脈弁狭窄……
治療されても泣かない、くすぐられても笑わない、子どもなら抱くはずの感情をほとんどみせない。
さらに1歳の時に、重い宣告を受けた。余命3年……
幼女のまだ30代前半の母親は、その宣告を認めたくない、現実を受け入れられない気持ちから誰にも話さずずっと自分の胸の奥にしまっていた。
無表情の幼女が、いつか笑顔をみせてくれる日が訪れるのを夢みながら……
《第2章》
──管を通した鼻で呼吸をつづけ──
病室の広い窓から、春の新鮮な陽が差し込み、真っ白なシーツに真新しいぬくもりを与えていた。
4歳になった幼女の鼻には生まれた時から管が通され、この県立こども病院から一度も外に出たことはなかった。当然、太陽の光を浴びることも、風が頬をくすぐることも、樹々のざわめきや花の匂いも知らない。
成長するにつれて、少しずつ身体も大きくなり動くようになったが、やはりまだその丸い頬の顔から表情は生まれなかった。
その日もシングルマザーの母親は、仕事のために夜にならないと来れないため、幼女はひとりベットの上で起きていた。広い窓からは、薄青い空が広がり白いふんわりとした雲が流れている。幼女がじっと無表情のまま見つめていると、スズメのさえずりが聴こえて来た。自由に生きる喜びをあらわすかのようなさえずりが……
もちろん幼女も、難病を抱えた小さな身体で懸命に生きている。まだ何も表情も意思も示さないが、スズメのさえずりを聴きながら、生きることを諦めていないし、管を通した鼻で呼吸もつづけている。
しばらくすると、日課となっているセラピー犬の白いゴールデンレトリバーがやって来た。ベットの上に長い顔を乗せ、やさしい眼差しで幼女を見つめる。幼女とセラピー犬は、じっと見つめ合った。
するとはじめて幼女は、セラピー犬の長い顔の方へ、その壊れそうな小さな指を広げ、ゆっくりと手を伸ばした。何事にもまったく反応を示さなかった幼女が、ついにセラピー犬へ小さな手を伸ばし興味を示したのだ。
そしてセラピー犬は、その小さな手を受け止めるかのように、さらにじっとあたたかな眼差しで幼女を見つめつづけた。
《第3章》
──涙が溢れました、よかったですね──
夜の20時過ぎ、琥珀色のスタンドライトの灯りに包まれた部屋の布団に入ると、すかさずシーがベージュの毛布をかけたオレの胸の上に駆け上がり、いつものようにオレの顔中を小さなピンク色の舌で舐めはじめた。
オレはかまわずそのままiPhoneで、Instagramのアプリを開くと、あのシングルマザーからコメントが届いていた。
──今日、あの子がはじめてセラピー犬へ興味を示して手を伸ばしました、と看護師さんから教えていただきました。私はあの子がはじめて何かに反応してくれたことがほんとうに嬉しくて、涙が溢れましたと……
すぐにオレは、──ほんとうによかったですね、大丈夫、希望を持ってください! とコメントを返した。
《第4章》
──宇宙の声が「森」へと伝えられて──
オレが、小学校を卒業するまで住んでいた東北地方太平洋沿岸の小さな農村の、国鉄官舎のすぐ裏には、樹々が濃密に茂る「森」があった。
朝陽が「森」を包み、白い靄がかかった「森」では、朝を迎えた小鳥たちのさまざまなさえずりが響き、風に揺れる樹々がざーと音を立てていた。
「森」の中心にある樹々の樹冠からは、白く丸い太陽の輪が、皆既日食のダイヤモンドリングの瞬きのような光の帯を、あたりを覆う雑草にまで届けていた。
まだ幼いオレは、この「森」が樹々の梢をアンテナとして宇宙と交信をし、宇宙の声が「森」へ伝へられていると感じていた。そしてこの「森」から飛び立った鳥たちが、この地球の他のさまざまな森へその意思を伝へているのだと。
そして今オレは、いつの日か、この「森」を中心として、くもりのない世界を脅かすものたちとの戦いがはじまるだろうと思っている。
その戦いには、愛犬シーズーのシーを中心に動物や鳥や昆虫たちが集うとともに、何人かの儚い運命を背負った人間の子どもたち ──もちろんセラピー犬に励まされているあの難病の幼女も── も参戦し、力を合わせて戦うだろうとも……
さらにそれら人間の子ども中に、ひとりの黒人のような縮れた短い髪に異様に大きく発達したひたいの少女がいて、その容姿からは想像もできないような儚くもかなしく美しい声で歌いはじめると、有象無象の輩で汚れてしまったこの世界が、清浄な空気に満たされて行くであろうことも……
ラーララララー
ラーララララー
ラーララララーララー
ラーララララー
ラーララララー
ラーララララーララー
やがてその歌声を「森」の樹々が共鳴し、地球のさまざまな森へと伝たわって行く。
すべてを清浄な地へと導くように……
《第5章》
──初夏のあたたかな太陽の日差しの中で──
その日の午前中も、初夏のあたたかな日差しが病室へ注ぎ、白いシーツがやわらかくあたためられ、スズメたちの無邪気なさえずりも聴こえていた。
母親が仕事のため、今日もひとりで寝ていた幼女も、心なしか気持ち良さそうだった。母親がいない平日は、看護師さんが入れ替わり立ち替わり様子を見に来たが、幼女はやはりセラピー犬の白いゴールデンレトリバーが来るのを心待ちにしていた。
すでに幼女にとっては、なくてはならない存在になっている。
ようやくセラピー犬のゴールデンレトリバーがやって来ると、幼女はとても嬉しそうに小さな手足をさかんに動かしはじめた。
そしてやわらかな陽が差し込むベットに、セラピー犬が長い顔を乗せて幼女を見つめると、幼女はその小さな手をセラピー犬の方へ伸ばしながら、生まれてはじめてにっこりと笑顔を浮かべた。声は発しないものの、丸い頬の顔には喜びに満ちた笑顔がみられる。
看護師さんたちから、──笑った、笑った、奇跡よ、奇跡よ! という歓声が上がり、セラピー犬は幼女の笑顔に応えて、彼女の小さな手を何度も何度も舐めつづけた……
《終章》
──白いゴールデンレトリバーの仔犬とともに、そして愛犬シーズーのシーとともに──
春を迎え、ようやく静かな湖のような落ち着いた気持ちがもてるようになりました。そして、あの子がその短い人生で戦いつづけ、最後にみせてくれた笑顔を胸に、これからの人生を生きて行ける気がいたします。
あの子の短い人生を支えてくださったセラピー犬には本当に感謝しております。
お礼の言葉も言い尽くせないほど……
そして私も、あの子の心のよりどころであったセラピー犬と同じ白いゴールデンレトリバーの仔犬と、暮らすことにいたしました。
この仔犬が、あの子の生まれかわりだと思い、ともに懸命に生きて行くつもりです。
本当にありがとうございました。
──Instagramへ届いたあのシングルマザーからのコメント。
今夜も、スタンドライトの卵型のLED電球は、まるでこの8畳の和室の小さな太陽のように、隅々にまで淡くあたたかなひかりを放っていた。
ほんものの太陽が、地球のすべての生命の源なら、この部屋の小さな太陽は、オレと愛犬シーズーのシーのかすかないのちのともしびだろう。
オレとシーにとっての小宇宙=8畳の和室。
オレはこれからもシーとともに生きて行く。
──シー! いつもありがとう。
紺碧色の夜空には、はるか彼方から何億光年も旅した星たちが粛然と煌めいていた。
シーは赤いリードを引っ張るように走り出す。オレも赤いリードをけっして離さないようにしっかり握って伴走する。
短い両脚を伸ばしやや寸胴の身体を精一杯躍動させ、シーはくもりのないまことの世界へ向かって走りつづける……
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