囚われし少女
「父上、母上……」
スミンは何度、父母を呼んだことであろう。
最初、彼女は助けを求める意味で、その名を口にした。
無残にも男に処女をけがされているあいだでさえ、彼女は助けを乞い続けた。
そのあと、彼女は一人で暗い部屋に閉じ込められ、純真でか弱い小さな心が絶望に染まるにつれ、謝罪をつぶやくようになった。
「父上、母上、ごめんなさい……」
父も母も、スミンの行方を捜しているであろう。特に母は、自分が近くにいながらスミンを見失い、そのために娘が危険な目に遭っているのではないかと、それこそ心臓がつぶれるほどに心配しているに違いない。
だが悪いのはスミンだ。
母の懸念を気に留めず、勝手気ままに歩いて、迷子になった。
彼女に道を教え、花をくれた老婆も、連中の一味だ。スミンを医師ユチャンの娘だと知って、早くから目をつけられていたのを、彼女自身の不用意さと油断で、このように易々と拉致されることになってしまった。
恐らくもう、父母には会えまい。
それを思うと、スミンは父母に対する申し訳なさで自責の念にさいなまれ、幾度も涙した。
時間が、どれくらい経ったのか。
スミンには分からない。石造りの部屋は外部の光や音が全く入らず、隅にトーチが焚かれてそれが唯一の希望のように明度と温度を提供してくれているが、それ以外は一切の情報が入ってこない。時間の感覚が完全に遮断され、今が昼なのか夜なのか、外は晴れているのか雨なのか、そのうち自分は生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなりそうだ。
粗末な筵の上で横たわり、虚無に身を委ねていると、女が一人、重い扉を開けて入ってきた。
スミンははっと上体を起こし、震えながら女の顔を見上げた。
見覚えがある。あの男の隣に控えて、彼女を犯す手伝いをしていた女だ。
「そんな顔をしなさんなよ。取って食うわけじゃないんだ」
女の手にしている盆には陶器の食器がひとつ。肉の煮込んだようなにおいがする。
「ほら、食べな」
スミンが恐れて動けずにいる。女は自ら匙に口をつけ、皿をスミンの方へ寄越した。スミンが毒殺を危惧しているのかと勘違いしたらしく、毒見をしてみせたようだ。
「食いなさいな。食わないと死ぬよ」
スミンはそれでもしばらくじっとしていたが、やがて肉のにおいに誘われ、おずおずと食器を手にした。
獣の脂がたっぷりと浮いた汁が、胃袋にしみわたるようだ。
女は、ゆっくりと、大切そうに食事を味わうスミンの姿に、はかないほどに淡い微笑みを向けている。
「時間だけは、たっぷりあるんだ。よく噛んで食べな」
料理をすっかり平らげたあと、スミンはそばで黙々と煙をくゆらせている女に、尋ねた。
「あの」
「なんだい」
「あなたは……」
「アンタと同じだよ。あの男に飼われる情婦さ」
「私と、同じ……」
スミンには、その事実がまだ受け入れられない。
当然であった。年はまだ12を数えるようになったばかりで、恋すら知らない年頃だ。父母への孝養や、医師として立身し、多くの人を救いたいという志だけがある。世の中をもっと知って、医学を広めたい。
そうした彼女がすべてを奪われ、化け物のような男に飼われる情婦になったなどと、どうして信じられよう。
女は呆然とするスミンをあわれに思ったか、声の調子を明るくした。
「今はそりゃあ死にたい気分だろうけどね、思ってるよりはいい暮らしだよ。尽くしている限りはお天道様は拝めるし、食事だってつく。上等なべべだってね。あの男の望みに応えさえすりゃあ、この世の果てに奴隷として売られるより、よっぽど天国ってもんさ。アンタは果報だよ」
そう言われるとそうなのかもしれない、とこの時点で正気を失っているものなら、容易に信じ込んでしまうものかもしれない。
だがスミンは、まだこの程度の犬の論理に洗脳されるほど、理性と知性の足りぬ少女ではなかった。
「あの人……」
「あぁ、アンタを手籠めにした男かい?」
「……はい。あの人は、どのような人ですか」
「名前はリュウ・ウェン。自分で言ってたように、ここいらじゃ高名な呪術師だよ。役人や豪商にも顔利きでね、裏ではあくどいことも手広くやってる。このへんであいつに目をつけられちゃ、おしまいさ」
「私の父は医師です。父母も、あの人になにかされるのでしょうか」
「さぁ、アンタ次第かもね」
スミンは苦しそうな表情を浮かべ、右手で胸をおさえるようにした。
父と母を守るためには、自分があの男に飼われるほかないのではないかと、彼女はそのように思い始めている。
「私は、私はこれから、なにをされるのでしょうか」
「アタイがされたこと、これまで見てきたことで言うと、そうだねぇ」
「…………」
「まずは、一日に何度か、あの男の相手をする。好みに合うように教え込まれて、それからは……」
女はそこで止めた。
もったいぶっているわけでも、恐怖させるためでもない。
単に、言葉にするのがはばかられたのであろう。
「まぁ、言わないのが功徳ってところだろうねぇ」
女の予言のとおり、リュウ・ウェンはよほどスミンが気に入ったらしく、日に何度となく彼女を呼び寄せては、淫楽の相手となることを強要した。
そのたび、スミンの体はおびただしく出血したが、男の欲求は血の乾く暇すら与えてはくれない。
「すぐに気分がよくなる」
とリュウ・ウェンは繰り返し諭し、スミンの膣口に謎の軟膏を塗るが、痛みが和らぐでもなく、快楽が湧くでもない。ただただ毎度、内臓をえぐり回されているような苦痛と恥辱と絶望を味わわされるだけだ。
恐らく、あの軟膏はただの偽薬であろう。実はどのような成分も配合されてはおらず、単に気休め、あるいは洗脳のために使っているだけの小道具だ。
数日、スミンはリュウ・ウェンの相手を務めた。
それ以外の時間は、もはや悲しみを抱くことすらなくなり、虚無に陥って、与えられた部屋で横たわっているだけだ。まばたきと呼吸はしているが、そのほかは死体と変わるところがない。
例の女も、食事を運ぶたび、目に見えてスミンが憔悴してゆくので、さすがに不安を覚えたらしい。
「アンタ、気をしっかり持ちなさいな。まだ生きるのをあきらめる年じゃないだろ」
スミンはぐったりと横になったまま、身動きもしない。女の持ってきた食事にも見向きさえしなかった。
女は何度もスミンの口に食事を運ぼうとしたが、顔を床に向けて拒否するので、文字通り匙を投げた。
「アンタ、死ぬよ」
冷たい声で言い残し、女は去った。
だがその言葉も、スミンの虚ろな心には届かず、どのような変化も与えはしない。
リュウ・ウェンも、彼の淫らなあしらいにもはやどのような反応も見せようとしないスミンに辟易した。これではまるで死体を犯しているかのようだ。
彼は興を失い、行為を中断して、衣服を整えた。
腹立たしげに、スミンの監視役である大男に命じる。
「秘薬を用意せよ」
「はい、しかしただいまは切らしており、明日の船荷を待たねばなりませんが」
「かまわん。それまでに、飲み食いをさせよ。肌が乾いている」
「娘が、頑として口にいたしません」
「顎をこじ開けてでも、飲み食いさせよ」
「承知しました」
スミンは聞いているのかいないのか、やはり全身の力を失って倒れている。
連中が引き揚げてから、食事係の女が再びスミンを訪ねた。
様子が違う。
「アンタ、起きな」
スミンが無視していると、女は無理に彼女を抱き起して、その頬をひっぱたいた。
「起きな、アンタこんなとこにいちゃいけないよ」
スミンの瞳にわずかに生気が宿る。
女はさらに声を励まして、
「次、あの男がここに来たら、アンタに北方の秘薬を吸わせる。薬漬けにされたら、もう何もかもおしまいだよ」
「……私は、どちらにしてももうおしまいです」
「アタイが逃がしてやるよ」
「えっ……?」
「今度、アタイが食事を持ってきたら、あのデカブツの喉笛をかっさばいて殺してやる。アンタは闇にまぎれて逃げるんだよ」
「でも、そんなことをしたらあなたが……」
「へっ、こんなときに人の心配するなんて、殊勝な娘じゃないか。アタイに任しときな。アンタは、すぐに逃げられるように、体力をつけるんだよ。そのためにも、今はこれを食いな」
スミンはここへきて、ようやく生きるために必要な希望を得た思いだった。
いったいどれくらいぶりだろう。仔牛の煮込みをすすりながら、彼女はその希望を一握の光明のように大事に、大事に胸にしまって、逃亡の機会に備えた。
しかし、この悪の巣窟のような場所から、うまく逃げおおせるものだろうか。
あのリュウ・ウェンという男は、恐ろしい人だ。
白い顔と、その奥に闇をまとったように黒く光る瞳。
あの男の恐ろしさを、スミンは未だ成熟しきってはいないその体で思い知っている。あと数日もすれば、彼女は北方の秘薬とやらを吸わされ、体だけでなく精神までをも完全に、あの男に支配されるようになっていたかもしれない。
そうなる前に。
とにかく、とにかく逃げなければ。