何も知らない
[今度高校三年のクラスメンバーで同窓会を行います。つきましては……]
未来はため息をついて過去の友人をブロックした。今や未来のブロックリストは何スクロールしても一番下にたどり着かない。未来は机にスマホを放り投げて椅子の背もたれに体を預けた。瞼を閉じたところでピンポンピンポンとチャイムが鳴り響く。彼女が玄関まで行ったところでちょうどドアノブが回った。
「ただいま~!」
「おかえり。随分飲んできたね」
「そ~なの! あのクソ浮気男なんて死んじゃえ!」
「とりあえず上がって。もう夜は寒いから」
彼女――美鶴は足から黒のブーツを剥がし、玄関の片隅に放り投げた。それは近くの傘立てに当たりガコンと音を立てる。倒れこむようにして未来に体を預ける。美鶴からは顔を顰めるほどのアルコール臭が発せられ、その顔も真っ赤に染まっていた。
「……サイアク。私のこと好きだって言ってたのに」
「美鶴、いつもそうやって潰れてくるんならそろそろ男漁りやめたら?」
「ムリ。好きだって言われたら嬉しくなっちゃうもん。好きになっちゃう」
「それいい加減どうにかした方がいいよ。もうすぐ就職でしょ? そうしたら派手な遊びはしない方がいいし」
「遊びじゃないもん」
美鶴は壁に手を這わせながらリビングへと足を進める。よろけながらもたどり着いたソファーに倒れこむ。高い位置で結ばれたツインテールが広がった。彼女は乱雑にピンク色のシュシュを髪から抜き取ると、テーブルへと放り投げた。それはテーブルを通り越してラグの上に落下した。
「で? 今度はどうして浮気だってわかったの」
「……今日さ、あのクソの誕生日だったの」
「ああ、今日は随分うきうきしながら出かけて行ったね」
「サプライズ、しようと思って。マンションまで行ったの」
「うん」
「インターホン押してさ、そしたらガタガタって音がしてドアが開いたの。……ドアが開いた瞬間わかった。クソは普通の部屋着だったけど、シてる時のあの匂いがしたの」
「そう」
「そのあと、奥から裸の女が出てきて私の目の前でクソといちゃいちゃし始めたから、プレゼント投げつけてヤケ酒してた」
「お疲れ。この一年で三回目くらいじゃない? 男運良くないよ絶対」
「もう恋愛なんてしない。いっつも私が惨めになるだけ」
「浮気は病気だからね。不治の病ってやつだよ」
美鶴はフリルのついたスカートを強く握りしめている。こらえきれなかったのか、化粧がボロボロになるくらい涙をこぼしている。全身がズタボロの雑巾になったかのような様相を呈していた。そのまま鞄を漁ったかと思うと、その手にはアルコールの缶が握られていた。
「さすがにやめた方がいいよ」
「やめてよ未来。今日くらいはいいじゃん」
「それより先に風呂! その顔のままでいられると家具に汚れが付くんだけど」
「うん」
化粧を落とし、風呂から上がった美鶴の目は濁っていた。美鶴の脳内には未だに浮気現場の光景が焼き付いていて、どうしようもない劣等感に苛まれていた。未来はふらふらと揺れながら歩く彼女を手招きし、ソファーへと座らせた。いつもはドライヤーで乾かされている髪もまだ濡れたままだ。未来はドライヤーを手に取ると、コンセントにコードを刺す。生暖かい風が美鶴の長くて柔らかな髪を撫でる。未来は美鶴の髪を手に取ると丹念に乾かし始めた。
「ありがとう」
「いえいえ、美鶴がこうなるたびに乾かしているからもう慣れっこだよ」
「そんなに?」
「そんなに」
テレビすらついていない静かな室内にドライヤーの音が鳴り響く。穏やかな時間が流れている空間に電子音が混ざる。未来が音のした方を見ると、美鶴の鞄がある。美鶴は気にせずといった風にドライヤーの催促をした。しかし何度も何度も鳴る電子音に耐えられなくなったのか、美鶴はソファのそばに置いていた鞄を足で蹴とばした。
「それは良くないよ」
「だってうるさいんだもん」
「多分、例の彼だね」
「きっとそう。ぜったい私がまだ好きで『別れないで』って言ってくるって思ってるもん。冷めたら無理なんだけど」
「すぱっと諦められるところはいいと思うよ。最初から捕まらない方がもっといいけどね」
「でも彼氏欲しいし……友達の紹介だし好きって言ってくれるもん。どうせ浮気するけど。この人はもしかしたらってやめらんない。」
「まあマッチングアプリよりは堅実よね。大学で見かけて気になってました~とか、よくある話だもの」
「は~あ、浮気しない優しい彼氏が欲しいな~!」
「難しいかもね」
未来は乾ききった髪にナイトパックを塗った。サラサラの髪は未来の指からスルスルとこぼれ落ちていく。未来がドライヤーを片付けていると、美鶴が思い出したというように口を開いた。
「そういえば、未来は来週から旅行に行くって言ってたけどさ、詳しい話なんも聞いてないんだけど」
「あ、言い忘れてた。一泊するだけだから気にしなくていいよ」
「一泊で旅行ってなんもできなくない?」
「目玉は夜にやるから。それにもう卒業寸前って言ってもまだ授業がいくつかあるから、なるべく休みたくはない」
「ふーん。何やんの」
「ちょっとね。あんまり言いたくない。しいて言うなら過去の清算ってところかも」
「因縁でも付けられてんの? まあ未来はそういう人じゃないから誤解とか? 私も元カレの女に被りだって誤解されてストゼロぶつけられたことあるけどさ。本当誤解は早めに解いといた方がいいよね」
「まあそんなとこ。そろそろ夜も深いし寝ない?」
「いいよ。ガスとかの確認しよっか」
美鶴の勝手に納得したような様子に、未来は胸をなでおろした。二人はガス・電気・鍵・窓を確認したのちに、それぞれの部屋に戻る。人の居なくなったリビングにはまだ少しアルコールの匂いが漂っていた。
揺らめく炎が未来の顔を照らす。炎が発する光が当たっているはずなのに、未来の目は黒く塗りつぶされたかのようだ。大きなキャンプファイヤーの周りには、同じように目が昏い女性たちが未来を含めて十人並んでいる。二十代の女性たちが一様に炎を見つめている光景はかなり異様だ。パチパチと火花の散る音だけが辺りに響く。キャンプファイヤーの中には二十冊ほどの黒塗りがなされた本が燃えている。二十個の眼球は全てそこを凝視していた。
「お土産、食べるでしょ」
「うん」
美鶴は未来の手にあった包みを受け取り、中を改めた。そこには『薬膳粥』と書かれており、満面の笑みを浮かべていた美鶴の顔からは表情が消えた。
「なんでおかゆ? もっといろんなものあったくない?」
「あったけど、最近美鶴飲み過ぎだから。健康に気を使いましょう。いいね?」
「えー、そんな健康とか気にしてないんだけど」
荷物をキッチンに置いた未来はそのまま冷蔵庫の扉を開いた。そこには酒の缶が見えるだけでも十数個ある。食品はほぼ無く、エナジーゼリーや煮卵のパックや調味料くらいしかない。そのまま野菜室の引き出しを開けても中身はほぼ空だった。冷凍庫にかろうじて冷凍うどんの余りがあったので、未来はそれを二個取り出した。
「晩御飯どうするつもりだったの」
「あ~、実は合コンの予定を入れててさ、そっちに行こうと思ってたから。でもパアになったからどうしよっかなとは思ってた」
「買い物位しなよ。お酒は買ってきているんだから」
「いやお金ないもん」
「合コンの会費は?」
「いや実はね? 主催にさ『美鶴ちゃんを呼んで欲しいって男の子がいるの。だから会費はタダでいいから来てくれない?』って言われてたから。なんでもあのクソと別れたのを知ったからフリーならアプローチしたいんだって!」
「うん。あれ? でもパアになったって言ったよね」
「なんか、参加メンバーのうち三人くらい一気に恋人が出来たっぽい。ヤバいよね? ちなみにその男の連絡先は送ってもらった。今やりとりしてる」
「そんなことあるんだね。どう、いい人そう?」
「なんかね~高校が同じだったっぽくて意外と話は弾んでるとこ。ずっと見てましたって言われたし今回は一途そうだからいいかもって感じ。今はシェアハウスしてる人と晩御飯してますって送った」
「浮気しないが前提条件だからね。高校の頃から好きだったってことなら今度こそいい彼氏、捕まえられるかもね」
「ね~。てか一緒に写真撮ってくれない? なんかシェアハウス相手は男じゃないのかみたいなこと言われてるから」
「それは無理。美鶴の写真を撮るのなら協力するけど」
「それじゃ意味ないじゃん。顔が映るのが嫌なら手だけでもいいよ。ネイルしてるし女の子だってわかるよね」
「それならいいけど」
そういうと美鶴は慣れた手つきで未来の手を顔のそばに近づけた。カシャッとスマホのカメラが鳴る。美鶴はバッチリネイルが映ったことを確認したのち、そのまま男とのトーク画面にその写真を貼った。
「加工しなくていいの?」
「加工した写真送ったときに嫌がられた。まあ今回のこれは未来が女の子ってことをわかってもらうためのやつだし?」
「結構束縛強めだね」
「そのくらいの方が安心する。いままで浮気クソ野郎しかいなかったから」
美鶴はそう言うと、スマホを少し強めに握った。美鶴が未来を見つめているときも、美鶴のスマホから鳴る電子音が止まる事は無かった。鍋から噴きこぼれたお湯が炎を消し、大きな音を立てる。美鶴は目が覚めたかのように申し訳なさそうにした。
「ねえ! 一か月持ったんだけど!」
美鶴は嬉しそうな顔で未来の隣に座った。いきなりソファに腰かけたので、その揺れで未来の体も傾いた。手にしていたマグカップをテーブルに置くと、咎めるような眼差しで美鶴を睨んだ。
「急に何。というかいまホットココア持ってたからね? こぼしたら大惨事になるところだったよ」
「ごめんごめん。でも聞いて! 太一くんと付き合って一か月記念を無事迎えられたの。凄くない? いままで一か月記念を迎えられたのなんてほぼないもん。でね、昨日お泊りの時に一か月記念だねって言われて、次は一年記念だねって言われた! ラブラブなんだけど~!」
「良かったね」
「ちょっと嫉妬深いのが玉に瑕だけど、かっこいいし最高の彼氏できちゃったな~って感じ!」
「あー、確かに前、私とでも出かけるのをやめて欲しいって言われてたんだっけ?」
「そう。まあ未来は一緒に住んでるし。しょうがないところはあるって言ったけどね。てか最近あんま一緒に出掛けてくれなくない? 前まで晩御飯の買い物とか一緒に行ってたじゃん」
「ああほら、そろそろ私もこの家から出ていかなきゃなって思ってたから。美鶴に自立してもらおうと思って」
「なんで?」
「彼氏と住むでしょ。だってこの家、美鶴の家だし。出ていくなら私だと思うのだけど」
「え~まだ全然良くない?」
「話聞いている感じだと、そろそろ彼氏に同棲持ちかけられているんじゃないの?」
「なんでそれを。てかわかるの?」
「はは、ほら凄く嫉妬深くて私を目の敵にしてるって話を美鶴経由で聞かせて貰っているからね。そのくらいは推測できる。でもいいじゃない。美鶴は結構メンヘラなところあるから、そのくらい溺愛してくれるくらいがちょうどいいと思うよ」
「なんかやけに同棲を薦めるじゃん。私と住みたくないの? 私のこと嫌いになった?」
「そういうわけじゃないけど」
興奮で赤らんでいた美鶴の顔はいつの間にか普段のそれになり、ハイトーンだった声も低くなっていた。美鶴は拗ねたように未来の肩に頭を乗せた。未来は美鶴の頭に手を乗せると、優しく頭を撫でた。美鶴が目を閉じ、眠りに落ちるまでその行為は続き、美鶴はうとうととしたまどろみの中で電子音を聞いた。
「なんで?」
美鶴が帰って来た時には既に、未来の荷物は全て撤去されていた。テレビ台のそばにあったはずのツーショット写真が入っていた写真縦も無くなっている。未来が好きでよく冷蔵庫にストックしてあったドレッシングも無い。未来の物だけでなく、未来を連想させる物も全て無くなっていた。鞄を落とした小さな音が美鶴の耳を通り抜けて消えていった。美鶴が呆然としていると、場に不釣り合いな玄関のチャイム音が大きく鳴り響く。よろよろとした足取りで閉めたはずの鍵が開いている扉に違和感を抱くことなく、美鶴は扉を開けた。そこには大きな口をニヤつかせた太一が立っている。美鶴の手首を大きな手で掴むと、もう片方の手で美鶴の髪を撫でた。
「美鶴ちゃん。今日から同棲してくれるんだよね。凄く嬉しいよ。ずっとこの日を夢見てたからね」
「は……?」
「あれ、三河さんから聞いていないかな。俺が美鶴さんと住みたいんです、って直談判したから同居人の座を譲ってもらったんだ。嬉しいだろ?」
「何……どういうこと」
「だーかーらー、今日から美鶴ちゃんは俺と住むんだよ。今までの男は別々で住んでただろ? で、女連れ込んで浮気してたわけだ。だから最初っから一緒に住めば浮気の心配いらないからな。って言っても俺は美鶴ちゃん一筋だし。荷物全部運んだって聞いたから空いたスペースに俺の物置こうな。ああ、寝室は一緒にしよう。俺、美鶴ちゃんを抱きしめて眠るのが好きなんだ」
太一はとろんとした表情で美鶴の耳を撫でる。そのまま首筋、背中と手を下げていき、最後には腰に手を回して包み込むように美鶴を抱きしめた。玄関の扉は閉じられ、いつの間にか鍵をかけられている。パニックを起こしている美鶴をなだめるように、太一は美鶴の耳に愛を囁いた。
「もう、心配はいらないぞ。これからは一緒に暮らすんだ。なんでも言ってくれ。美鶴ちゃんのワガママなら何でも聞くからな。ずっと一緒だ。愛している……ああ嬉しくても涙が出るもんな。俺の胸で沢山喜びの涙を流してくれて構わないからな。……ああ、幸せだ」
「今川未来様、ね。どこで知ったんだか」
美鶴が未来の肩で眠っている。未来が頭を撫でているうちに寝落ちしてしまったようだ。未来が操作するスマホの画面には、あなたと友だちではないユーザーと表示されていた。美鶴の笑顔がアイコンのそのアカウントからは未来に対する要求と、もしそれを守らなかった場合の対応や未来の秘密について記されていた。
「随分怖い男につかまっちゃったんだ。私にアポとれるくらいだし、もしかして今まで美鶴の元カレにもアポ取ってたりして」
未来のため息が美鶴の寝息と混ざって消える。そのままスマホを操作し、美鶴と繋がっているアカウントを消去した。美鶴とのトークや写真フォルダも全て空にした。男のアカウントに返事をすると、すぐさま返答が来る。
「そろそろリセットしたかったし、ちょうどいい頃かもね」
未来はそう独り言をこぼすと、この世で一枚だけの未来が映る写真へと目を向けた。