他人様の作品を、なぜ、一々ディスるんだろう
私は人の作品に否定的な評価を下すのが嫌いだ。
私の両親は教師だった。教員になる道を考えたことはない。なぜなら、私は通知表をつけるのが嫌だったからだ。
勉強に関してもそういう側面はあるようだが(この子はできる子だ、と、教師から期待された子どものほうが成績の伸び率がよい)、図画工作、美術。そういった科目に関しては、たまたま褒められた子どものほうが“そうなんだ、得意なんだ”と自己肯定感が満たされて伸びてゆく傾向がとりわけ顕著だと思う。
だから、良いところを見つけて伝えるのは私は好きだ。が、評価というのは、ある程度割合があるので――あまり良い評価をつけることができないこともある。私はそれが嫌だった。点数としてハッキリ出るものはまだいい。だが芸術に関しては、そうとう、見る側の主観が入ってくる。評価基準というのも実際には曖昧であると思う。
美術なんて最たるものだ。生前は見向きもされなかった画家が巨匠として後世に名を残し、かたや画壇で持て囃された画家でほとんど名前が残りもしない、後世においては(そんな人いたんだ?)という扱いをされる人も少なくないようだ。
芸術、作品の評価なんてそんなものだろう。
いま評価されなくても、後から評価されることはあるのだ。その可能性を、いったい誰が否定できるだろうか?私は人の自信をへし折って潰すことをしたくはない。
その人の未来の伸び代を、正しいかもわからない自分の主観ごときで断ち切るとしたら、ひどい話だと思うのだ。
これは絵に限らない。
小説の作品についても同じことを思っている。
通知表とは違って、評価について割合やバランスを考える必要はない。そんな義務も、立場的な制約も、どこにもないのだ。
それなのになぜ、他人様の作品を、わざわざ批判するのだろうと思ってしまう。
好みではないのなら、放っておけば良い。せっかく良いところがあるのに、そのせいで台無しになっていると思い、相手のために伝えるのなら、具体的な箇所を指摘して、ここはもっとこうすると良くなる、という表現をすることもできるはずだ。
相手に「現実を教えてあげている」つもりなのか。
言い方次第だろうが、それは多くの場合、ありがた迷惑なのではないかなと思う。
人を不必要に傷つけ不安にさせていることのほうが多いのではないか?せっかくの趣味の場所、その人の作品作りの楽しみを、傍若無人な態度をもって、土足で踏み荒らす行為のように私には思えてしまう。
その批評をする人が「その作品を書籍化するかどうかを左右するような立場の人物」ならば、確かに酷評も有益な場合はあるかもしれないが、実際はそうではないだろう。
酷評する人にとってはゴミみたいな作品なのかもしれない。それを読んでイラついたかもしれない。そうだとしても、それを面白いと感じる人がいて、評価をする人もいる。それならば、その作品には相応の価値があるのだ。それで良いではないか。
「小説とはこうあるべき。こういう書き方をするのが正しい。」というのは、そんなに言わなければならないほど、絶対的なルールなのか。
酷評する人たちも、自分より強い相手、怒らせたら後々困りそうな相手、自分のプライベートに関係してくる相手には同じことはしないのではないだろうか?するというのなら、私もその態度について批判的なことを言うつもりはない。
だが、気分を害すると後々面倒なことになりそうな相手にはしないのに、顔が見えない相手にはするというのなら、自分がどういう気分で人様の作品を批評しているのか、自身を振り返ったほうが良いんじゃないかなと思ってしまう。
もし本気で相手の目線に立つのなら、「ここはもっとこうしたほうがいいよ」と具体的に伝えるはずであるし、不必要に傷つけぬよう、自信を喪失させぬように、よい部分とセットにして誉める話も挟みながら、言葉を選ぶはずだ。
それが本当に、相手のための批判なら。
そうでない批判は、自分がスッキリしたいからではないのか。
見ず知らずの相手、顔が見えない相手だからできる。やり返してこないとわかっているから。敵対しても困らないから。
だからって、何を言っても良いことにはならないはずだ。そうして書き込んだ否定の言葉は、単語としては暴言ではなかったとしても、実質的には、言葉の暴力と変わらないのではないだろうか。
否定してはならないと言うつもりはない。けれども、相手をむやみに傷つけないよう配慮することは忘れるべきではないと私は思う。