泥の舟
「客が来る。おまえは顔をあわせてはいけない。すぐにここを出て家に帰りなさい」
夕方から胸騒ぎがして、夕餉もろくにのどをとおらなかった。易を立ててみると【坎】と出た、いわゆる水難の相だ。山の中にあるこの庵で、水難とはまた不可解な卦が出たものだ。それだけに逃げられないということか。外に出てみると麓に松明の灯りが一瞬だけ見えた。片付けをしていた下働きがまだいたので、中に戻ってもう一度易を立ててみる。彼だけでも逃げられないか。【晋】と出た。よかった、彼は助かる。彼の家は松明とは反対の方角だ、すぐに帰せばいい。
「片付けはいいから、はやく帰りなさい。大切な話なんだ。聞かれては、少々困るのでね」
彼は納得して帰っていった。
わしの術で誰がきたのかを知るには、山の麓ではまだ遠すぎる。わしは、来訪者が感知の術の範囲に近づいてくるのを静かに待つ。誰が来るにしても覚悟は決めなければならない。【坎】という卦は、そう簡単に出るものではない。易において四つある難卦のひとつで、濁流が渦巻いて何もかもを呑み込み、すべてを流していってしまう、そういう卦象だ。抗ったとしても、もがき苦しみ、吞み込まれてしまう。大々凶。流れにまかせるしか手はない。
と、感知の範囲に誰か入った。感知といっても誰がきたのかという特定まではいかないが、その者がもっている特徴や気配、人数ならわかる。四人だ。そしてその中のひとりは、知った者だ。
宇佐美か。なぜいまさらあいつがやって来るのか。
ほかの三人は、多少腕がたつようだが、喧嘩するならもっとマシなものたちを連れてくるだろう。察するところ、陰陽師見習の同僚のなかでも強そうな者を連れてきた、というところだろう。
今の世に、我らが先達様の血を受け継ぐものはたったひとりだけだ。先達様の孫にあたられる。先達様が失せられたとき、まだ赤子であった。わしは、先達様からその子を託されたが、天涯孤独の身であったわしに赤子の世話は重荷であった。そんなおり、宮中からお召しがあり、心安くしていた同僚と一緒に、一品の宮様の退魔の儀を執り行うことになった。
一品の宮様を苦しめていたのは、とても強力な病魔であった。優秀な陰陽師である彼や、わしの術でもってしても退散させることはできそうになかった。わしは全てを捨てる覚悟で病魔と取引を行い、なんとか一品の宮様をお救いした。
その功を彼に譲る代償という形で、わしは赤子を託すことにした。
彼なら妻も子供もいる、赤子もうまく育ててくれるだろう。無理を承知で頼み込んだ。彼は意外にもあっさりと引き受けてくれた。わしが病魔との取引に、持てるすべてを差し出したことが効いたらしい。赤子ができた経緯や母親については深く追及されなかった。そのほうが助かる。子どもどころか女も知らないのだ、不意給されればボロが出てしまう。たぶん彼のほうでも、そのへんのいきさつは察してくれたのだろう。ありがたかった。
先達様は赤子のことをたいそう秘密にしておられたので、その事実を知るものは先達様以外ではわしだけだ。ご自分の血がこの世に残っていると知れたら、必ず何かの騒動に巻き込まれてしまうだろう、先達様はそのようにお考えになり、真実を伏せられた。陰陽師仲間だった彼も、わしの子だと思っている。同じ先達様に教えを請うた宇佐美でさえ知らされていない。宇佐美はその子のことを陰陽師仲間だった彼の子だと信じており、わしの子とさえも気づいていおらぬようで、近頃ではその子に懸想しているような噂も聞こえてくるほどだ。わしを襲ったとて心は痛まないのだろう。
裏手でカチカチと音がしたかと思うと、急にあたりが明るくなった。どうやら家に火をつけたようだ。わしをあぶりだそうというのか。こんな小屋に火をつけなくても中に入ればすぐにわしを見つけられるものを、敵はどうしてもこのことを大事件にしたいらしい。仕方がないので外へ出てやる。
外へ出た途端にボウボウと火が回りだし、小屋が炎につつまれた。小屋の前には、宇佐美が待ち構えていた。
「加勢の者たちが倒れているが、おまえがやったのか」
宇佐美と一緒にやまを上ってきたと思われる陰陽師見習らしき三人が宇佐美の後ろに倒れている。どれも火傷を負っており、わしがここで捕まってしまっては、たぶん助からないだろう。宇佐美に助ける気があれば別だが。
「そう、口封じってやつですよ。でもまあ、じきにあなたがやったことになりますよ、田川さん」
「口封じもなにも、彼らはまだ何も聞いてないし、何も知らないだろ」
「これから聞かれることになるのだから、早いか遅いかの差ですよ」
「聞かれるというのは、わしのところへ来た理由に関係あるのだな」
「そのとおり、あなたには、八位殿の奥方殺しの罪人になっていただきます」
「あれか。今日、下働きの者が話していたが。あの話には極めて気になることがあった。誰かが奥方に巧妙に化けで、亭主の八位をも謀ったということだ。人に化けるということは狐狸妖怪、物の怪のたぐいにしかできない。ただ一人、先達様を除いてはな。その先達様は十二年も前に亡くなられておられる。だからわしは狐狸妖怪の類だと考えていたのだが、おまえがこうしてやってきたということは、まさかあの術を会得していたのか」
「会得とまではいかないのですがね。あなたも、先達様が術の数々を書き残された巻物があったことを知っているでしょう」
「十二巻あったあれか。あれを持っているのか」
先達様は当初、弟子であった私たちにご自分の術を書き残そうと巻物をお書きになられた。しかし、先達様の術は非常に強力なものが多く、我々弟子が持っているうちはよいが、その後は誰の手に渡るか知れたものではないとお考えになり、それぞれの巻を十二か所に分けてどこかに封印された。その場所は弟子の我らにも教えてはくださらなかった。それを探し出せるのは、先達様の血をひく者のみ。先達様の血を引く子孫が、心からその術を求めるとき、その封印の場所に導かれ、巻物を手にするように仕掛けられたと聞いている。
「わたしが持っているのは、ひとつだけです。ご承知のとおり、先達様は巻物を封印されたが、わたしは、その前に、書きかけの巻物をひとつ、お借りしたのですよ」
「まさか。先達様があれを御貸しなさるはずがない。そんなことをすれば、封印された意味がないではないか」
「ご冗談を。言葉通りに受け取られると、説明するのが恥ずかしいじゃありませんか。借りたといっても、先達様の了解は得ていないのですよ」
なるほど、宇佐美はそういう人間だった。そのことは先達様もご存じだったのだろう。しかし、千達様はある時を境に、宇佐美から距離を置かれていたように感じられた。たぶんそのことがあった時がそうなのだろう。赤子のことも宇佐美に頼まず、わしに託されたのもそういう事情だったのかもしれない。
後ろでは炎が小屋を覆いつくし、その周りだけが昼間のように明るい。
「書きかけのものですから、四つしか術は記されておりませんでしたが、そのなかの一つが変化なのです。我ながらいいところを引き当てたと思いましたよ」
「なるほどな。しかし、八位の奥方を殺す理由がわからん」
「なあに、ただの色恋沙汰ですよ。京でも評判の美人ですから、一度くらい抱いてみたいと思っていたのです。そう、最初に出会ったとき、あの奥方を助けたときからね。毎日かよっては機会をうかがっていたのですが、たいていは下働きのものがそばにいて手を出しにくい。家の中へもいれてくれない。今日、千載一遇で奥方ひとりで井戸の水を汲んでいたので、口説き落とそうと近づいたんです。そしたら、急に釣瓶を投げ出して、塀の近くへ走っていき、しゃがみこんでしまった。どうしたのかと覗き込んでみると、これがつわりですよ。赤ん坊ができてたんですよ、あの女には、あの八位のね。そのとき、胸の中になんだか釈然としないものが広がっていったんです。自分が懸想している女が、他のおとこの子を身ごもっている、ほんとうに、本当にやりきれない気分でした。で、気が付いたら殺してしまってたんですよ」
「ばかな。釈然としないも何も、そもそも八位の奥方なのだぞ、その子供が宿ってなにがいかんのだ。どうかしているぞ」
「わたしはね、美しいものは、一度はこの手に触れてみたいのですよ。一度だけでもね、ずっと自分のものにならなくてもいい、一度だけ触れてみたい。この世のすべての美しいものに触れて、その美しさを愛でたいんです。奥方はそれはもう美しい、出自がどうであれ美しいという事実はそこに存在する、わたしはその存在をこの手に掴みたかったんです。たとえ他の男のものであろうとも美しければいい。でも子供を宿しては、もう手遅れです。その子の父が、八位が奥方を繋ぎとめてしまった。奥方という美しいものを、わたしの手の中に手繰り寄せる前に。そのことが無性に腹立たしかったのです」
宇佐美は熱っぽく語った。しかし、わしにはその理屈がどうしてもわからない。これはもう、わしと宇佐美という人間が別の存在であるように、その思うところもまた別ということだ。ここまできては話し合ったとしても、分かり合うことはないだろう。
「しかし、お前は沙羅様にご執心だったのではないのか」
「あははは。皆が皆して私の芝居に騙されているのですね。たしかに沙羅様は美しい、だから手に入れたい。しかし、沙羅様である理由の第一は、わたしの出世のためなのです。師匠に取り立ててもらい、陰陽寮へ入るためには、それくらいしないとだめですからね。だから沙羅様一筋とみせかけている。それにまんまと皆騙されるとは。わたしが本当に好きなのは、この世のすべての美しいものなのですよ」
「それが、真相なのか。しかし、その罪をわしに押し付けるとは、なぜわしなのだ」
「そこですよ、あなたは沙羅様と親しすぎる。私から見てでなくとも、誰が見ても、お師匠様の次に沙羅様と親しく接しているのは
あなたなのです。なぜそうなのか、それはあなたも沙羅様を狙っているのでしょう」
「ばかな、そんなはずがあるものか。誤解をしているぞ」
「嘘を言ってはいけません。沙羅様も、おなたが来たときはまた表情が違いました。わたしにとって一番の脅威はあなたなのです。同じ先達様の弟子としてもね。だから、この度の一件で、ちょうどいい、あなたに死んでいただくことにしたのです。でも、お喋りが過ぎました。あなたには死んでもらうことが決まっているので、ついつい喋りすぎましたよ。さあ、もう終わりにしましょう」
宇佐美は懐から呪符を取りだし、地面に伏せた。後ろでは小屋が炎に覆われ、崩れ落ちる。おおかた火事に見せかけて焼き殺すつもりなのだろう。地面から火炎を呼び出すというのなら先に水を呼べばよい。わしは地面から水を呼び出す詠唱を行う。術が成功する早さは、理にかなっているかどうかに関わる。地の底から水を呼び出すことは、地下に潜んでいる水を引き寄せるものだ。もとからあるものを呼ぶだけなので、時間はかからない。井戸の水をくみ上げるようなものだ。対して、地面を炎で覆うということは、なにもないところに火をつけるということだ。小屋の炎を利用するとしても、地面そのものに燃えるものがなければ、まず炎のよりどころを生成し、そのうえで火を呼び寄せることになる。わしの術のほうが必ず早い。たちまち、地面から水が滲みだしてきた。
「詰めが甘いな、宇佐美。小屋を燃やして炎を用意したまではいいが、それではわしを殺すことはできないぞ」
「ふんっ」
しかし、宇佐美は笑った。
「そうしてくれると思いましたよ」
「なに」
途端に、足元が崩れた。まるで、大地が溶けてしまったように、ゆくり地面に引き込まれていく。まるで沼に落とされたようだ。
「さきほどの呪符は攻撃する力をもつものではありませんよ。あれはすこし地面を柔らかくする術が施してあるのです。しかし、先に小屋に火をかれられたあなたは次なる火炎の攻撃を警戒して水を呼び寄せた。悪くない選択ですが、そこまでも私の筋書きなのですむよ。柔らかくなった土と水で地面は泥となり、あなたはさそにひきこまれたのです」
まんまと罠にはまったということか。しかし、膝くらいまで沈んだところで止まる。
「あ、止まってしまいましたか。さすがに呪符の助けだけでは全身を沈めるほどの効果はできないようですね。まあ、それで十分です」
宇佐美はそう言うと、こちらに近づき、泥をつかんで握り飯ほどにまるめると、わしにむかって投げつけた。
「なにを、ばかなことを」
足元を泥に捉われて避けることができないため、手を使って払いのける。わしの手や腕がどろまみれになったところで、宇佐美はこの泥遊びをやめた。懐から手拭いを取り出して自分の手についた泥をふき取っている。
「さて、本当に面白いのは、ここからです」
宇佐美が何か短い呪文を口にした途端、足元の泥に吸い込まれるように周りの泥が集まってきた。次第に足が重くなり動かすことができない。集まった泥は水瓶にして十杯もあっだろに、一瞬にして一杯程度ににって固まってしまった。ちょうど水瓶にあしを入れて固められたような格好になってしまった。わしの手足元の泥も同じように固まり、一瞬にして身動きがとれなくなった。
「ふふ、身動きがとれないでしょう。これも先達様の術のひとつですよ」
宇佐美はそう言うと、近づいてきてわしの口を封じた。身動きのできないわしにはどうしようもない。ここで殺されるのだろう。
「ここでは殺しませんよ。あなたは、罪を悔いて自ら命を絶ってもらいます。そうしてはじめて、下手人はあなただという証拠になるのですから」
それから宇佐美は、倒れていた陰陽師見習たちの手当てをはじめた。きっとこのまま見殺しにしてしまうのかと思っていたが、それほどの悪人でもないということか。宇佐美の誤解ではあるが、わしひとりの命で収まるのならば、それでよい。宇佐美は三人の陰陽師見習たちに術を施し、手当てをしている。治癒の術は、すぐに効果が出るものではない。術によって傷が癒えても身体に受けた衝撃のため、からだを動かすためには数日は安静にしていなくてはならない。ここで治癒を施したところで、三人を街へ連れて降りるのはたいそう骨の折れることだろう。
しかし、三人はすぐに立ち上がった。
「ふふ、驚きましたか。おおかたあなたには、わたしがこいつらを助けているように見えたのでしょう。そんなことするわけないじゃありませんか。こいつらは死人となってわたしの命令に従っているのです。まあ、そんなに長くはもちませんがね。さあおまえたち、田沼を運べ」
宇佐美が命じると、三人はわしを焼け残った戸板に乗せて担ぎ上げ、山を降り始めた。
どこへ向かうかは知らないが、殺されるのも時間の問題だろう。ならば、なんとか事の真相を残して、宇佐美と沙羅様の仲だけは阻止したい。手足自由がきか、声も出せない今となって、このことを伝えるすべは、わしには影龍しかない。宇佐美に気づかれぬように影龍を使えるだろうか。やってみるしかない。いちばん伝えやすいのは、やはりこの術にいちばん近しい沙羅様だろう。ご本人に伝えることは心苦しいが、そんなことはいっていられない。
わしは、影龍を呼び出した。こいつはわしの式神であるから、言葉や身動きができなくても呼び出すことはできる。(沙羅様に真相を伝えよ。沙羅様を怯えさせぬよう、出来れば夢の中でがよい。この事件の真実、沙羅様の本当の御父上のこと、宇佐美の正体とその所業、これら事の真相を伝えよ)
沙羅様と宇佐美の仲を成就させるわけにはいかない。この男は危険だ。
山を降り、鴨の河原にたどり着いた。川岸には黒い小舟が寄せてある。わしはこの小舟に乗せられた。
「これは泥で作った舟です。これにあなたを乗せて、川に流します。暫くすると泥が溶けて、あなたは川に沈むというわです」
そうなれば、手足の泥も溶けるだろう。泳いで逃げてしまえそうだが。そんなわしの考えなどお見通しとばかりに宇佐美は続けた。
「言っておきますが、あなたの手足を固めている泥は術でこしらえてますから、次の夜まで溶けません。それに大量の泥を使っていますから、その重さで体は浮きあがることができません。明後日にでもなれば、罪を悔やんで川へ飛び込み、死んだあなたが見つかる、というわけです」
そう言うと宇佐美は小舟を川へ向かって突き出した。船は流れに乗ってゆっくり進んでいく。