愛妻変化
その日も、いつものように館に戻り、夕食をとった。朝廷に使える治部省の身とはいえ八位では、うまい飯など望めない。食事は市中の民とそう変わらない。今日は珍しく鹿の肉が手に入ったとかで、鹿汁が出た。朝、出仕まえに妻が、「今日は早く帰ってきてください。いい話がありますよ」と言っていたが、このことだったのか。
「今日は少しご馳走ですよ」
妻は笑顔で言う。低い身分だが、妻だけは自慢できる。容姿はどこへ出しても引けをとらないだろう。これだけの容姿なら、公家たちに差し出されるところなのだが、妻はその身分と出自からそうなることなく、昨年に俺のものになったのだ。子供を授かるのも、そう遅くはないだろう。性格もよい。この時の笑顔に少し力が入っているような気がしたが、日常生活でそれを追求することはない。後から考えれば、追及するべきだったのだろうが。
給仕はたいてい妻が行う。妻は、いつも給仕をするときの普段着ではなく、就寝時の着物に前掛けをつけた格好だ。気が早い。
「その恰好はどうした。まだ早いぞ」
「鹿を料理するときに、血で汚れてしまったのです。それよりお味はいかがですか」
「狸にしては臭味がない。うまく料理してあるな」
「おいしゅうございますか」
妻はしきりに味をたずねてくる。
「ああ、うまいな。今日はよい夜になりそうだ」
「まあ、旦那様ったら。わたくしは、ただ旦那様に喜んで頂きたいだけですのよ」
そして俺は、鹿汁を完食した。
「ふふ」
と、突然妻が含み笑いを始めた。
「ふふふ。はは。あはははは」
妻の笑いは含み笑いから、徐々に高笑いに変化した。
「ああ、奥方汁、おいしかったですかぁ」
いったい妻は何を言っているのか。俺がうまそうに鹿汁を平らげたことがそんなにうれしかったのか。
「うむ、お前の手料理だ。うまかったぞ」
「ひぃーひひひっ、手料理には、違いありませんが、あはは、中身、中身のことですよ。あはははは」
俺はその意味がわからず、妻を見つめるばかりだ。
「その中身の主は、ここですよ」
妻が台所に降りて、何かのうえに被せてあった筵を払いのけた。そこには、人が血まみれになって倒れていた。息はしていない。そして、その人が身に着けている服は、はだけてボロボロになってはいるが、それは妻が普段している着物だ。袖が両方とも引きちぎられている。ちぎられた袖の片方が燃え残ったかのように傍らに落ちいてる。焚き付けにでも使われたのか。その服を着た人の顔、血まみれになっているが、妻の顔だ。これが、俺の妻なのか。今まで一緒にいた女ではなく、これが本当の妻だと。そして、俺はもっと衝撃を受けた。妻の肉がところどころ削ぎ落されている。これはどうしたことか。
「あははははははは、奥方汁くった。奥方汁くった、くったぞ。わははははははははははははははは」
妻の着物を纏った女は今では俺の背後のまわっていた。女が笑えば笑うほどに、俺の胸の中には黒いものが溜まっていく。
俺は女を取り押さえようと腕を伸ばしたが、女は読み筋とばかりに俺の腕をかわし、俺の横をすり抜けて台所の出入り口から外へ飛び出した。逃がすものかと追いかけたが、出口から踏み出したとたんに何かを踏んで滑ってしまった。仰向けに転んで地面に後頭部を打ち付けた俺が態勢を戻すには少しのときが必要だった。外はもう暗い。どっちへ逃げたのだ。
俺が踏んでしまったのは、妻の夜着だった。賊は戸口で着物を脱ぎ捨て、そのまま逃走したようだ。妻に扮した何者かが、妻を殺し、俺にその肉を食べさせたのだろう。
検非違使を呼んで見分させたが、浮かない顔つきだ。
「食事のとき、本当の奥方はもう死んでいたのですよ。あなたは賊を傍に座らせて会話しながら食事したのでしょう。相手が奥方かどうかわからなかったのですか」
「あれは。たしかに、妻だった。笑い方に一瞬違和感があったが、たしかに妻だった。妻の顔を見間違うわけがない」
「顔はちゃんと見たのですよね」
「ああ、確かに顔を見ながら話をしたのだ」
「逃げた時も同じ顔で」
「うむ、ずっと妻の顔だった」
「そうですな。あたなの奥方はたいそうな美人だと評判の方でした。誰かがなりすましたとしても誤魔化すことはできそうもないですから。となると、これはもう我々の手に負えるものでありません」
「そんな」
「手がかりがないでしょう。賊の顔を見たというなら、本当は一番の手がかりなんでしょうが、それは奥方の顔だという。残された物も奥方の遺体。盗まれた物もなかった。極端な言い方をすると、この件にはあなたと奥方しか登場しないのですよ」
「だが、賊はたしかにいたのだ」
「奥方の顔をした賊が、ですね。町で奥方の顔をした女を探せというんですか。そんな美人がもうひとりいたら、探す手間などいりませんよ。だから手がかりがないんです」
どうやら検非違使は、普通の事件ではないと言いたいのだろう。あとは形式的な手順を踏んだだけで、検非違使は関わりたくないといった様子で引き上げていった。
普通の事件ではないのなら、陰陽師にでも相談すればいいのか。彼らならこういう奇妙な話でもその先に進めるかもしれない。
俺は、知り合いの陰陽師見習をたずねた。正確に言うならば「知り合い」は違うかもしれない。
彼は陰陽師としてはたいそう優れた使い手だ。相談者の過去や未来を言い当てることを得意としているほか、狐狸妖怪の類にも詳しい。彼の師匠は高名な陰陽師なのだが、物の怪を払わせたら師匠よりもうまくやってのけるかもしれない。しかし、彼もまた出自がよくなかった、俺の妻と同じように。それに、陰陽師ならば陰陽道、天文道、暦道のいずれかを得手とする必要があるが、彼はそのいずれでも秀でていなかった。彼曰く「学問は性に合わない」のだそうだ。それでずっと陰陽師見習なのだとか。知識は危ういが実務をやらせれば天才のそれに値する腕前をもっている。師匠もそんな彼を便利に使っているらしく、見習のまま手放そうともしない。
彼は毎朝、羅生門へ赴き、印を結んでくることを師匠から命じられていた。羅生門は南に位置して、師匠の館からは少し距離があるのが、同じ時刻に他の弟子たちがそれぞれ北、東、西に赴き、印を結んでくるのだそうだ。何やら陰陽道では大事な儀式らしい。だから彼だけが無慈悲な仕事を言いつけられているわけではない。その儀式の帰り道、俺の妻が怪しげな男たちに囲まれていたところを、彼が怪しげな術で助けてくれたそうだ。以来、儀式の帰りには、たまたま通り道であった俺の館に寄って、妻が出した白湯をすすりながらひと休みていくことが日課となった。俺も非番の日には話し相手になってもらう。そういう「知り合い」だ。俺が仕事に行っているあいだに館に寄るのだから、妻が心配かというと、そうでもない。もちろん館の中へは入れない。白湯は門のところで振舞うし、下女もついている。そしてなにより、彼は師匠の末娘にご執心なのだ。
「妻とうり二つの顔で、妻と称して俺の館にいるなんてことがありうるのだろうか」
俺は彼に、宇佐美に事の始終を話した。
「できないとはいえません」
含みのある答えだ。やはり陰陽師なら知っているのだろうか。
「変化の術は存在します。男よりも女に変化することのほうが高度ですし、大人に化けるのは、それ相応の歳を重ねてきたことを体現しなければならないので、子供に化けるよりもたいへん難しいのです」
「そういえばおまえ、ときおり妻の着物を借りて、どこかへ出かけていたな。あれが変化の術なのか。なぜかおまえが一番疑わしく思えてきたぞ」
やはり門前までとはいえ、俺の留守中に出入りを許すものではなかった。こいつが妻を。腹立たしい。
「あれは、師匠の館の前で借金とりが待ち構えておりましたので、その目を欺くために形だけ女ということにしようとして、お着物を拝借したまででございます。その証拠に、あなた様は着物を着たわたしを奥方様と間違えず、この宇佐美としてご覧になっておられたのでしょう」
そうかもしれんが、まだ宇佐美に対する怒りはおさまらない。
「金を借りたり、着物を借りたりと忙しいことだな」
「わたしの場合は、お着物をお借りしたまでのこと。術ではなく真似事なのですよ。あなた様は変化の奥方様相手にお食事をされたのでしょう。そのようにお身内を信用させるような変化などは、たいそう才能あるものが何年も修行して、やっと使える術でございます。あなた様をだませるくらいの高度な変化の術など、わたしのような若輩に使えるものではございません」
確かに俺は賊を本当の妻だと思って接していた。宇佐美も相当の術者だが、もしも宇佐美が化けたものだったら、俺はその両方を知っているのだから不審にも感じただろう。もしも宇佐美が妻に化けていたのだとしたら、少しでも違和感があったはずだ。しかし、俺は賊を本当に妻だと思っていた。ならば、宇佐美の言い訳は聞くべきなのだろう。
「妻を殺したのは相当な術者ということだな。だったら限られてくるのだろう。心当たりはないのか」
「そもそも陰陽師というものは、天道を観て豊穣を判断したり、雨を乞うたり、魔除けの儀を執り行ったり、国の安寧を祈ったりすることが本業なのです。奇妙な術を使うようなことは本来の仕事ではないのです。ですが、たった一人、そのような変化の術を使いこなせるものが、当世に存在します」
「それは誰か」
「田川の陰陽師、沼吉でございます」
宇佐美はまるで陰陽博士でもあるかのような学者気取りで、これまで以上にきっぱりとした口調で続けた。
「田川の陰陽師が奥方様を撲殺し、しかもその肉を料理した。そして奥方様に化けた田川が、帰ってきたあなた様に奥方汁を食べさせたのです」
田川沼吉、俺もその名前は知っている。町の者から田川の陰陽師と呼ばれているが、陰陽寮に所属しているわけではない。田川もまた優れた術者であるため、町の者からはそう呼ばれているのだとか。
「たしかに優れたものだと噂は聞くが、それほどのものなのか」
「はい。田川は高度な術を使える者なのですが、朝廷に仕えることを嫌って、庶民の治療などで暮らしをしているのです」
「なぜ朝廷に仕えないのか」
「その理由まではわかりませんが、以前は田川も陰陽寮に籍を置き、三の宮様がご病気になられたときには、わたしの師匠と田川をお召しになられたのです」
「おまえの師匠と並ぶほどのものなのか、田川というのは」
「そのようでございます。なんでも、いみじき物の怪がとり憑いていたようで、三の宮様は高熱を出してたいそうお苦しみなさっていたとか。師匠たちは七日の間、退魔の儀を行いました。その時田川は、本来の退魔の儀とは別に、自らの影を龍の姿に変えて宮中を警護させたといいます。警護のものが何人もその龍の影を見ております。これもまた、普通の陰陽師にはできない術でございます。その龍の影のおかげか、はたまた師匠の退魔の儀が功を奏してか、三の宮様は八日目にやっと一命をとりとめられました。そして三の宮様のご病気が平癒したのを見て、田川は陰陽寮を去ったとのこでございます。おそらく師匠に叶わないとでも思ったのでしょう」
「まて、それならお前の師匠も怪しいのではないか」
「とんでもございません。師匠は天文道には極めて優れておりますが、術の類はそれほどでもないのでございます。だからこそ、わたしなどがいつまでも御側に仕えさせていただいているのですから」
変な説得力を持った言葉だった。師匠と宇佐美の共存関係が師匠の潔白を証明するということか。
「先ほども申し上げましたとおり、陰陽師がそんな術を使うというのは、誤解でございます」
とにかく宇佐美に依頼するのが近道だろう。この世でそんな術を使う者が何人もいてたまるものか。田川が朝廷にも召されるくらいの術者だったら、その術を使えるというのも理にかなうということだ。
「ならばおまえに頼みがある」
と口にしてから、俺の考えはは何かにひっかかった。
「田川に仕返し、ですね」
宇佐美は、俺の考えが整理される前にセリフをひきとった。
「おまかせくだい。田川は師匠にとっても商売敵みたいなもの。陰陽寮に属さないのに陰陽師を語るふとどき者でございます。一門を挙げて奥方の仇を討ってさしあげましょう」
「うむ、そうなのだが、その前に田川がなぜこんなことをしたのか、それを知りたい」
「おまかせください。では、後日ご報告にまいります」
宇佐美はたいそう爽やかに、さらりと言ってのけると、館に師匠の館へ戻っていった。
宇佐美の爽やかさが気になったが、それよりも気になるのは、田川が何故、妻を殺し、こともあろうか俺にその肉を食べさせたかということだ。我ら夫婦と田川沼吉とは何の接点もない。宇佐美からその名を聞くまでは俺の人生にも妻の人生にも関わりのない人物だ。繋げるとすれば、師匠の陰陽師から宇佐美、そして宇佐美から妻へだが、師匠の陰陽師にとって宇佐美は数多いる陰陽師見習のなかのひとりでしかない。陰陽師見習の中で重要な位置にいるわけでもなく、むしろ下のほうだ。術が使えるだけで学問をしないから将来的に朝廷に仕える見込みも低い。ただ、その術を利用するためだけに師匠が手元に置いているだけだ。宇佐美にしても他所へいってもその出自ゆえに出世どころか再び主を見つけることは難しいし、師匠の末娘に執心しているから、今の暮らしに留まっているだけのこと。術の腕前を質にすれば、あわよくば末娘との縁も叶うかもしれない。宇佐美に何かあれば、師匠はその術に頼ることはできないだろうが、末娘が残念がるかというとそうではないので、師匠にとってそれほど大切ということもないのだ。
そんな宇佐美と妻とは、もう顔見知りくらいの縁しかない。それを田川が殺すのか。そして俺は、その肉を食べさせられるほど田川から恨まれる筋は、皆目見当がつかない。理由を知らなければ、田川を討つ意味がない。宇佐美はまかせろと言ったのだから、突き止めてはくれるだろう。もし田川が賊でないとしたら、まさか討ちはするまい。なんの証拠もなしにそんなことをすれば、宇佐美も師匠もただではすまない。これくらいのことは判るはずだ。だからこそ頼んだのだ。俺は自分に言い聞かせるしかなかった。
と、そのとき
「赤ちゃんはもう生まれたんですか」
後ろから声をかけられた。振り返ると、瓜売りの少女がいた。
「なんのことだ」
「奥方様が、もうすぐ赤ちゃんが生まれてくるって、このまえ」
「・・・はぁ」
俺は凍り付いてしまった。おれは、妻を失ったと思っていたが、失ったものは二人だというのか。子どもがいたのか。きのう妻はそれを俺に伝えようと。事件のため右往左往していた俺の心が急に止まった。取り返しがつかない。取り返せない。妖怪変化のわざだとしても、現実になってしまったことは、元に戻らない。今まで心の中から排除していた妻の死というものが滲みだしてくる。滲みだしたそれは瞬く間に心いっぱいに広がり、涙となってあふれ出す。なのに失ってしまった悲しみをどこにもぶつけられず、どこにもすがることもできず、ただ虚しいまま、ただ立ち尽くしたままで涙を流し続けた。