Phase・Ⅻ 虹の彼方に
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またしても痛いシーンがあります。
とうとう、世界の不沈艦のあの技を、
使ってしまった……!
苦手な方は飛ばしてお読みください。
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模範的な虜囚ぶりがよかったのか、ディナーはダイニングに招待された。
部屋には施錠しても、フォースの身体そのものを拘束しないのはドレイクの温情だ。冷酷そうな外見なのに、太っ腹な男である。
もっとも、エスメラルダを人質にとられていて逃げられないのもあるが……。
「何十年もかけてトップに立てないとこなんか、見限っちまえよ。企業努力は認めるが、咲王辰子の赤竜コンツェルンは当分、びくともしそうにないぜ?」
「あんたが次のいい勤め先を世話してくれるなら、考えてもいい。そうだな、東尽普の下あたり、よさそうだよなぁ?」
和気藹々とワインを注しつ注されつ、腹を探りあう。
意識を取り戻してから、フォースはここではドレイクの姿しか見ていない。給仕をしたのも彼なら、作ったのも彼だという。
料理を褒めてコックという戦力の有無を再確認しようとしたが、ドレイクは上着のふくらみを軽く叩いてみせた。
「やめとけよ。おれひとりであんたの相手は充分できるし、お姫さまだか王女さまだかには、きれいなままでいてもらいたいだろう?」
女の子なのだ。顔や身体に傷をつけられでもしたら悲惨だ。ましてやモデル、人一倍、つらいことになる。そして女性をけがすという意味は……レイプだ。
勝手な連想してびびってんじゃねぇ! と、この場に本人がいたら彼は殴られていた。言ったドレイクだって、ろくでもないことを吹くなとアッパーブロウくらい、かまされたであろう。
これはあくまで、脅し。
それも、エスメラルダが手中にあり、彼女に被害に遭う気があってはじめて実現する仮定の。つまり標的がリュイであるかぎり、実行不能な犯罪だった。
その事実を、フォースもドレイクも、知らない。
「……へこむな。あんたが言うことをきかなかったらこうなる、って話だ。おれだって、美人は傷つけたくない」
意地悪を言われて、なぐさめられてしまった。
フォースは黙ってグラスを傾ける。
チャンスがあるとすれば、エスメラルダと会うときだ。ふたりで一緒に逃げなければならない。そのあとは大使館に入ってしまえば、アポロニア人は手出しできない。
第一関門はドレイクとその手下たち。第二の関門は、逃走手段。第三は……現在位置がまったくつかめていないことだった。
そこに、いかなるポリシーがあるのか、ジャッキーはリュイの質問にしか回答しなかった。
隙を見て逃げるそぶりもなく、むしろリュイのそばから離れようとしない。
フォースが監禁されているのはセント通りの空き家で、レイカープールは捜索を撹乱する偽の情報だとすぐにしゃべった。それを聞くなり向かおうとすると、エスメラルダとして行けと進言した。さらに実行部隊の自動車を使い、自分を同行させたほうが自然だとアドバイスする。
そこで運転手役として彦左が呼ばれた。東尽やルオでは面がわれているし、ハムイも論外。大使館の職員は、どの程度あてにしていいか、わからない。
彦左はルオからスーツで来いと言われたとおりに、着てきた。ざんばら髪もおしゃれにまとめている。立派すぎる筋肉が押しこめられたさまは、おめかししたプロレスラーか、やくざな用心棒だ。
「面接試験か?」
リュイがからかう。
昼日中にスリットの深いロングドレスを着る人間には、言われたくなかった。
「おめぇこそ、ナイトクラブに転職か?」
ホテルの売店で急遽購入したので、デザインを選べなかったのだ。色だけは黒で助かったが……東尽のカードがなければ、もっと悪趣味なきわどいカットのドレスになるところだった。
フォース救出の前に、戦力を減らそうとエスメラルダ拉致班を監視班の部屋に呼び寄せて片づけた。地下駐車場で捕獲したふたりと並べて、床に転がす。
ベルトやタオルで拘束された姿は総勢六匹のイモムシだ。
「交代で来るやつらはそっちで処理してくれ」
そう言ってリュイはルオに手をさしだす。
「あ?」
「貸せ。持ってんだろ、銃」
「バカヤロー、一介のサラリーマンがンなもん、持ってたらまずいじゃねーか」
東尽のボディガード兼任のくせに。リュイが目で言うと、東尽もすまして応える。
「うちはクリーンな企業ですので」
表に出る人間にダーティな部分が透けて見えるのはよくないのだ。
「それにおまえ、未成年だから発砲許可証ないだろ。芸能人は、前科がつくとやべぇぞ? 俺はそんなゴシップまで、揉み消してやんねーからな」
実は彼はスクープ写真をパーフェクトには処分していない。相手がエスメラルダだとは判らないフォースのスキャンダルショットが、出まわっている。黙殺を指示したのは東尽。その理由は……フォースへのいやがらせであるのは、言うまでもない。
ライセンスがあってもなくても、銃禍は人をさいなむ。ルナポリスでは日常だ。そしてリュイは、銃を必要とせずにそこで生きていた。
「そうだな。慣れないもんは使わないほうがいいか」
理想は、交渉によるフォースの奪還だ。武器を携行していてお話し合いもない。
ハムイや東尽を同行させないのは人質を増やしてやるのも同然だからで、万が一、エスメラルダも囚われたときの保険でもある。彼らがいれば、最終手段として権力を駆使して救出部隊を組織することも可能だ。
警察沙汰にするのは、とことん避ける。
新任地球大使とスーパーモデルの名誉のために!
あるいは、そのことで紅蜃に恩を着せるために。
裏の裏を読み、ときには呉越同舟も辞さずシビアに物事を見きわめる。
辣手という点で、東尽とハムイは判断基準が似ていた。
地下駐車場から静かに滑り出た車を、途上から尾行する車輌があったことに彼らは気づかなかった。タクシーだった。
追わせているのはレーブ・トリッケン。
結局、エフゲニーに会えずに終わった彼は、こりずにアルハパティへ来ようとして、信号待ちの車の中にエスメラルダと大使秘書の姿を発見したのだ。
直感が走った。
彼女たちの行く先に、彼がいる!
恋心のように敏感な直感だった。
ヘリオス市中枢区域街セント通りは高級住宅地の中でも大豪邸が多いゾーンだ。公園のような敷地に、宮殿やお城みたいな建物が造られている。恥ずかしげもなく。
四番地には〈売家・貸家〉の札が立っていた。管理しているのはアケボノ不動産、紅蜃グループだ。
彦左の運転は、そこそこ上手で、彼は道をよく知っていた。ジャッキーが言った住所に迷うことなくたどりつくと、セダンを乗り入れる。
「タチの悪い冗談だな」
見るからに部屋数の多い邸宅をにらんでリュイは言った。
通りの名前は別だが、裏口から出ればここと辰子の屋敷とは五百メートルも離れていない。皮肉な監禁場所である。
ありがたいことに、従業員うちそろってのお出迎えはなかった。
ジャッキーを先頭に中に入ると、玄関にひとり、ダークスーツの男がいた。
「ドレイクさんは?」
問いかけられると、エスメラルダを見て心得たように案内に立つ。彦左の顔など、見ようともしない。
建物は円形の広い玄関ホールを中心に左右に対称の棟がのびていた。ホールから直接二階へ通じる階段は途中から左右に別れ、それぞれの棟に行くようになっている。彼らは右側に上った。まっすぐ続く廊下の最初の部屋に通される。
彦左が廊下に残ると、案内役の男は階段を下りていった。
「これは……ようこそ、ミズ・エスメラルダ・グリーン」
豪奢な応接セットから立ち上がった男は慇懃無礼に言った。手をとろうとするのを無視して、エスメラルダは切り出す。
「こちらにティラーデス大使がおいでとうかがいました。会わせてください」
「おやおや人聞きの悪い。それではまるで我々が、彼の自由を侵害しているようだ」
「否定なさらないということは、やはり、ここにいますのね。……彼が困っているから、決心をつける手助けをしてほしいと頼まれましたわ」
ここでちらりとジャッキーを見る。
「アポロニアの発展に、彼の決定が重要な鍵となるというのは、ほんとうですの?」
エスメラルダは彼女の言うことを信じ、協力してくれるという設定だ。
「……ええ、本当ですよ」
アポロニアの企業、紅蜃の躍進の鍵を握っていますよ。
ドレイクの唇に酷薄な笑みが浮かぶ。
このけなげな美女のために、フォースは陥落するのだ。
「少しお待ちを」
ジャッキーに合図すると、ドレイクは部屋を出ていった。ドアの外の彦左をいい身体だと目で称賛しながら、名前を思い出せないことに気づく。
左の階段から廊下を進み、三階へ上ってフォースの部屋を警備していた手下とともに彼を連れ出し、二階の階段の手前で待たせて戻る。もう一度、彦左を見る。
やっぱり思い出せない。
なんだかやたら気になったが、いまさら訊くのも相手に悪いと思い、疑問を頭から追い出した。
「ミズ・グリーン、こちらへ」
腕をそっとつかんで階段までエスコートする。
ドラマティックな再会だった。
舞台は美しい洋館。左右の階段の上で、相手の姿を見いだす美男美女──。
「フォース!」
「……緑惟!」
ふたりは束縛する手を振り払い、駆けだす。
ああ、やっと会えた!
メロドラマならばクライマックスシーンである。
階段の中央部でふたりは熱い抱擁とくちづけを──交わさなかった。
「緑惟?」
愛しい娘を抱きしめようとした手が空を切る。
八センチのピンヒールでリュイは階段を駆け下りてくると、彼を素通りして反対側へと駆け上がった。
両腕を広げて飛びこんでくる細い身体を、抱きとめようと男が腕を開く。フォースを押さえていた男だ。
彼女、近眼なのかな?
でも、いいじゃん、この際、抱きついとけ。
すけべ心が身を滅ぼした。
インパクトの直前に、リュイは軌道を微調整した。右手を握りしめ、男に向かって突進する!
助走距離があった分、威力は存分に発揮された。
「…………エスメラルダ・グリーンがラリアートを、かけた?」
驚いていないのは技をかけたリュイと彦左だけだ。玄関横の明かり窓に張りついて見ていたトリッケンなど、その刹那、ジークリンデがジークムントをぶちのめすシーンを幻視してしまい、うめいた。
これはいかん。彼女は強すぎて、ジークムントの求愛など、受けつけてくれないぞ!
「お望みとあらばネックブリーカードロップだって披露してくれるぜ」
呆然とつぶやいたドレイクに彦左は教えてやった。
目が合う。
「やーでも、いちばん壮観だったのはルオにかけたブレーンバスターか? 十五の小娘が自分より重たい男、持ち上げやがるんだからなぁ」
「おまえっ」
誰だか思い出せないはずだ。仲間ではないのだから。
すばやく銃を出すが、なにかが飛んできて手からはたき落としてしまう。黒いハイヒールだった。アポロニア一の美貌が、叫ぶ。
「遊んでんじゃねえ、彦左! ずらかるぞ」
そのまま、走ってきた勢いを利用して高く跳んだ。
ジャンピングニーがドレイクの顔面を強襲する──。
「へいへい」
それを見届けもせず彦左は階段を下り始めた。玄関の男を彼が倒せば、いま現在の彼らの敵はいなくなる。ドレイクと拳をまじえてみたかったが、リュイがしかけた。
肉付きの薄さゆえかはともかく、リュイの膝は一撃必殺を誇る。彦左の出番はない。
増援が来る前に、ここから立ち去るつもりなら、ぐずぐずしてられない。
しかし、ドレイクは手強かった。
彦左が男を秒殺して見上げると、まだ立っていた。多彩な体術を、ぎくしゃくと遠慮がちに使っている。
彼は〈壊れ物〉を相手に格闘をした経験がなかった。彼女にひっぱたかれたり、マフィアの女幹部と銃撃戦にもつれこんだりした過去は、ある。だが、女性に直接、暴力行為をするのは初めてだ。手加減の具合が、わからない。どうしてもへっぴり腰になる。
そこにつけこむまでもなく、リュイは自在にふるまった。彦左は本気にならなかったが、ルオとはガチにフルコンタクトだったのだ。打撃、蹴撃ともに実戦の重みを備えている。
「てめぇも早く行けよ、フォース!」
ドレイクの攻撃をかわしながら、リュイが振り返る。あきれたことに、彼は階段の途中で待っていた。
「あんたもだ、ねーちゃん」
「えっ」
ジャッキーはたじろいだ。
乱闘中で通れなかったのもあるが、彼女は迷っていた。
陰謀が発覚したら、工作者は姿を消すのがあたりまえだ。新任大使攻略に失敗した自分には、もはや、居場所などない。だけど、もう、会えないなんて悲しすぎる……!
リュイの言葉はそんな彼女の胸に希望の火を灯した。
「……はい!」
もう片方のヒールが飛び、ドレイクがよける。その隙にジャッキーはフォースのところまで下りた。
窮屈そうに攻防を繰り返す男。
しなやかな身体は自由に宙を舞う。
階段の手すりを足場に側転をうち、確かな姿勢で動きを止める。
結ってない黒髪が、はずんで背に流れ落ちる。
誰もが見とれた。
その次の瞬間──。
バリッビビビィ─────ッ!!
白い脚が黒いシルクに極限までスリットを走らせた。
天にも昇る心地のドレイクが昏倒する。
あごを、派手に蹴り上げられていた。
華奢な手すりから降りて靴を履くと、スーパーモデルは歩きだす。
「まいったな」
並んで歩きながらフォースが苦笑した。
「お姫さまに助け出される男なんて、なさけなさすぎる」
「姫って柄かよ」
リュイ流に謙遜したのに、懸命になって反論する。
「姫だよ。どんな格好をしてたって、たとえチンピラにまちがわれてたって、俺には最高の姫君に見える」
本気で言っている顔だ。
「……いっぺん眼科へ行ってこい、くそおやじ」
口調はあくまでそっけない。発言内容もかわいくない。
しかし彼女は……彼のことを父と……!
「できればパパと呼んでほしいな、緑惟」
「石鹸で口ん中、洗われたいかよ。おい、秘書のねーちゃん、これからこいつに茶を出すときは砂糖じゃなくて塩を入れとけ。これ以上甘ったるい暴言吐かれたんじゃ、たまんねぇからな」
「それは嫌だな。ジャッキー、せめてダイエット甘味料にしてくれ」
「はい、え……?」
つられて笑って応えて、彼の言ったことの意味を知る。
「大企業のように高給は約束できないけれど、それでもよかったら秘書を続けてくれないか?」
「その場合どうなるんだ? 地球大使館の非常勤職員待遇か? それともあんたの給料半分こするのか」
「ハウザーに相談してみるよ」
三人は車の後部座席にそろって収まった。しっかりちゃっかり、助手席にトリッケンがいる。
「エフゲニー」
彼はこれまでのハイテンションぶりからは信じられない、沈静な状態で話しかけてきた。
「最終意志確認だ。おれの映画に出てくれる気はないか?」
「ない」
毛ほどもためらいのない返事。
「俺は地球から大使としてここへ戻ってきた。それ以外の仕事をするつもりは、ない」
「……そうか。じゃあ、エスメラルダ、あんたはどうなんだ? クィーン・オヴ・ミラーズをおれは使うことになっている」
「わたしはファッションモデルだが……事務所が承諾して仕事として選んだものは、請ける。ただし、演技力はあてにするな。濡れ場は御免こうむる。アクションシーンはスタントなしでできるかもしれない」
「わかった、参考にする」
アルハパティの前でトリッケンは車を降りた。
「いまから原作を読んでおいたほうが、いいかもな」
フォースが言った。エスメラルダが《ニーベルングの指輪》に出演すると、疑っていない口ぶりだ。
「や、それより生で観たほうがいいか? ジャッキー、最近の公演がないか調べてくれないか。エリアは惑星全土で」
「かしこまりました」
もちろん、彼の真意はドレスアップしたリュイを連れまわすことにある。
愛娘とデートしたいのだ。
アポロニア中のクラシック演奏会がワーグナーを演らないことを、心の底から祈りつつ、リュイは中華街へ帰った。
夕食をとりに麒麟飯店へ行こうとしたら、アイリンが部屋に来た。付き添いのショウにジュラルミンおかもちを持たせ、自分もバスケットを手にしている。
「ドレス、破れちゃって残念ね」
彼女は彦左から今日の出来事を聞き出していた。リュイがかすり傷ひとつ負っていないから、軽口も出る。ドレスが見るも無残な状態でなければ、きっとアイリンは着て見せてくれとねだっただろう。
「ああ」
黙々とビーフンを食べながらふたりの話を聞いていたショウは、ほっとしている。
やめてくれよ。また間近で、エスメラルダのきらびやかな盛装を見たりしたら、心臓のばくばくが激しくなってしまうではないか!
夜な夜な夢に出てくるエスメラルダが、リュイの声で辛辣な台詞を吐くので、彼の神経はかなりまいっていた。
「再起不能のビリビリだ」
リサイクルする気さえ、リュイにはない。お裁縫も苦手なのだ。
「そいうえばメイホアがね」
アイリンはドレスメーカーの工房でミシンを踏む知り合いの名前を出した。リュイにも好意的な、やさしいお姉さんだ。たまに頼まれて、オリジナルのワンピースやらブラウスを格安で縫っていて、技量もセンスも抜群だという。彼女だったら、プレタポルテでも修繕できるのではないか。それから流行の服や、メイクカラーのことに話は移り──。
食後のお茶になっても、尽きなかった。
アイリンを残して帰るショウに食器を運ばせようと急いで洗い物をしていると、ルオが来た。二晩続けての訪問に、お互いうんざりした顔をする。
「……電源入れとけって」
自分の携帯を取り出して繋ぐと、リュイにさしだす。
東尽だった。トリッケンの映画の配役が決定したので明日、記者会見が開かれることになったという。エスメラルダひとりのわがままで、キャンセルできる仕事ではない。
リュイはわかったと応えた。
休暇は終わりだ。スーツケースの中身を整頓してくれるとアイリンが言うので、任せてジャンクⅢの屋上に出た。
夜の闇にまぎれて、星屑のように散らばる街明かりだけはルナポリスでも絶景だ。
今度ここへ来て、過ごせるのはいつになるのだろう。
そのころには、アイリンはルオと結婚してこの街にはいないかもしれない。
待つひとの、いない街。
「待ってるからな」
心を見透かされたかと、背後を見る。ショウがいた。
「あんたとは、まだ勝負してないからな。だからまたここへ帰って、オレと」
「ボスの座をかけて戦うのか?」
かすかに、笑う。
──どうしよう!
ショウはあせった。こんな話題なのに、リュイなのに、すごくきれいだ。
着ているのは男物。メイクなど、してない。髪も無造作に一本縛りにしただけ。それでどうしてこんなに美しいのか。
夜だからか? 照明の効果なのか?
あるがままの十九歳の素顔が……かわいく見えたらもうおしまいだ。
「オレ、あんたが好きだ」
認識するより先に、言葉が出た。
とたんに冷たくなったまなざしが彼に突き刺さる。
「わたしがエスメラルダだからか?」
「ちがう、リュイが、好きだ。ちくしょう、なんでだ? なんで、リュイなんか好きだと思っちゃうんだよ、オレ」
リュイなんかとは、失礼な言いぐさである。おまけにちくしょうときたもんだ。
「……愛の告白、か」
聞くつもりなどないと言われていたのに!
だが、リュイは不快には感じていなかった。
なぜだろう、なんとなく、さみしくなっていた心になにかが染みこむような……。
「悪くはないな」
「ええっ?」
驚いたショウの様子に、自分の発言が受諾と解釈できることに気づく。
「いや、べつにわたしは恋愛感情は持っていない。ただ、そう言われても嫌悪感を感じなかったんだ」
「それって、つまり?」
「嫌いではないみたいだ」
「オレを?」
リュイの人物からすれば、期待ができる返答だ。
「何かの拍子に、すとんと好きになるのかも、しれないな」
恋とはそういうものなのだ。
「誰かを」
楽しげに言い足すとリュイは部屋に戻っていった。
「……ショウ」
心の天国と地獄を味わわされた少年に、彦左が声をかける。いつジャンクⅢへ来たのか、ずっと隠れて見ていたらしい。
「彦左、オレ……大きい男になりたい」
めずらしく胸の内を吐露する。
「あ、大きいって身長のことじゃなくて、身長もだけど、男としてでかいやつになりたいんだ。相手がエスメラルダでも見劣りしない、リュイの隣にいて、恥ずかしくない男に、なりたい!」
ルナポリスの〈夜〉を棄て、堂々と彼女のそばに立ちたい。
エフゲニーが、東尽が、そしてルオが願ったように、ショウは愛するひとのためにそうなりたいと望んだ。
「……なれるさ」
彦左はうなずいた。
ストリートキッズのボスの相談役から、いい男育成プロジェクトの参謀に転任するのは、ものすごくおもしろそうだ……。
記者会見はアルハパティの大宴会場で行われた。
トリッケン監督がひとりずつ役名と配役を紹介すると、衣装をつけた俳優が特設舞台に出てきて挨拶する。
「まだか?」
記者席にまぎれこんでデジタルカメラを構えたフォースが、じれた。
「しっ」
同じく忍びこんでいるジャクリーヌがたしなめる。
発表はテンポよく進んでいた。愛の女神フライアも、主神ウォータンの正妻フリッカも、ラインの乙女たちも、しとやかな人妻ジークリンデも並んでいた。なのに、肝心のクィーン・オヴ・ミラーズが、まだ現れない。
フォースでなくても、不審に記者たちがざわめく。
「ブリュンヒルデ、エスメラルダ・グリーン」
自信たっぷりの声で、ようやくトリッケンが言った。
その姿が、見える前から会場は騒然となった。
ブリュンヒルデ!
この惑星でいま、最も美しい女性にいくさ乙女の役をさせるとは!
武装の麗人という要素はある。しかも、指輪をめぐるドラマではいちばんの主役となる、悲劇のヒロインだ。
ウォータンの娘であるブリュンヒルデは、戦場で死んだ英雄の魂をワルハラへと導くワルキューレのひとりだ。ジークリンデの逃亡を幇助したために神性を剥奪されて岩山に封じられ、ジークフリートに開放されて妻となるが裏切られ、自己犠牲となる結末を選ぶ。けっして華やかなだけの役では、ない。
だが、ショーでは見られない颯爽とした足取りで登場したワルキューレの姿に、人々は感嘆の息をもらした。
身にまとうのは磨きぬかれた鋼鉄の鎧。
みごとな大剣を佩き、手には槍と盾を持っている。
翼をあしらったデザインの兜が宝冠以上の輝きを放ち、艶やかな黒髪は深緑のマントにかかり大きく波打つ。陰になった目元が、凛々しい。
ステージの中央でポーズをとると、エスメラルダは素のままでわらった。
最高潮に達したどよめきに、トリッケンは満足しつつ、ほくそ笑む。
こんなものではないぞ。
実際に彼女が戦うところを見なければ、ブリュンヒルデの美は、完成しない。
彼は、それを映像として伝えるつもりなのだ。
「なお、ブリュンヒルデが眠る炎の岩山の撮影には、地球のエアーズロックを使用いたします」
地球でのロケーション計画を発表したことで、会場がまた、わく。
地球へ──還るのだと、リュイは思った。
初めて行くのに不思議だ。
星の虹の中に開かれるという〈事象の地平の彼方へ至る門〉を越え、星々の海を渡って、〈月〉の娘は地球へ還る。
そしてまた、〈月〉へと、帰ってくるのだ……。
『月姫 MOON-DIVA』
つきひめ むーんでぃーゔぁ
── 了 ──
主人公はエフゲニーで、彼の恋の顛末の話だったはずが……気がついたらリュイの主役度のほうが高くなっていました。これがダーティヒロイニズム(要約すると、物語の中でいちばんカッコいい役はヒロインに与えられる主義)です。強い女性が好きです。
エフゲニーの名前は指揮者のエフゲニー・スヴェトラーノフ氏からいただきました。プルシェンコ氏でもオネーギン氏でもないところが作者の興味の狭さといえます。
Extraとして、この世界をもう少しだけ書きます。
よろしければ、おつきあいください。