Phase・Ⅺ 愛しのハニー
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痛いシーンがあります。
苦手な方は飛ばしてお読みください。
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ホテル・ソレイユの二十一階から姿を消したフォースは、深夜にアルハパティに戻ってきた。酔態はかけらも感じられない。彼を待っていたジャッキーに対し、ねぎらいの言葉をかけ、帰宅をうながす。
いたってふつうな態度だった。
断りなくホテルから出たことへのわびは一言あったが、どこでなにをしていたのかは言わない。あえて追及しなかった。詮索がすぎて敬遠されては、秘書失格だ。
次の朝、ジャッキーは小さなストレスを感じていた。エスメラルダの調査報告が届かなかったからだ。紅蜃の情報網は赤竜コンツェルンという厚い壁にはばまれ、デビュー前の簡単な経歴はおろか住所もなにも、つかめていないという。こんなことではスーパーモデルを獲得してフォースを釣るなど、いったいいつになることやら。
しかし、その日、彼はエスメラルダのことを口にしなかった。ジャッキーが話題にしても、そらしてしまう。憑き物が落ちたみたいに、好奇心をなくしたような顔だ。そのくせ、テレビに姿が映るとじっと見ている。
感情が抑えきれていない。
なのに、それを隠そうとしている?
信頼できる秘書と思われていないのには、落胆を禁じえない。陰謀者としては、読みの正しさへの自負を覚えた。
夜になってハムイが訪ねてきた。公務ではなくプライベートな用なので、帰ってもよいと言われた。
これからふたりで、自分には知られたくない話をするということだ。
「ああ、そうだジャッキー」
キャビネットからファイルを取り出しながら、フォースが呼び止める。そのファイルこそ、東尽から渡されたエスメラルダの調査書だ。彼女の目に触れないよう、彼は自分で管理していた。
「はい?」
「明日はそんなに早く来なくてもいい。どうせ起きられないからな」
酒肴の用意を続けてしているのを見れば、理由は察せられた。
「休んでくれてもいいけど」
アポロニア情勢の講習と称して彼女がエフゲニーに張りついているのは、取り入ろうとする後続者を排除する目的のためである。目を離すなんて、冗談ではない!
赤竜コンツェルンやその他の大企業による秘書の派遣はまだだが、油断は禁物だ。
「……午後から参りますわ」
それまでに、ここに出入りする者を見張るくらいの支援はあるのだ。ジャッキーの雇い主は本気で新任の全権大使を狙っていた。
気になるのはファイルの中身だ。エスメラルダの住所や連絡先まで詳細に調べてあるに違いない。それさえ見れば、麗しのトップモデルを攫ってでもこちらの手駒に加えることが可能となる。
ファイルは見たい。
でも、フォースが邪魔。
そうかといって彼を追い払うわけにもいかない。
ストレスは美容に悪いのに……ジャッキーのそれは、ずんずん、ずんずんと大きくなっていった。
が、エレベーターで降りながら彼女はふと、あることに気づいた。
順序が逆でもいいのでは?
絵に描いた餅で大使をおびきだしてからファイルで餅の隠し場所をつきとめ、接収する。それから、ほんものの餅を使って懐柔する。
泥縄だが、いっこうに入らない報告を待っているよりは建設的だ。
「……アロウ、ヴィンセントですわ。手配していただきたいのですが」
ホテルのロビーから電話をかけた。
ほど遠からぬこぎれいなマンションに帰り着くと、趣味のいい便箋をプリンターにセットした。計画を反芻して、満足げに口角を上げる。
「こんな感じかしら」
作業を終えると、ジャッキーは一日の疲労を癒すためにバスルームに入った。
翌日の午後二時、特上貴賓室へ出勤すると、フォースは猫の昼寝といった態でソファーに寝そべっていた。ひげは剃ってあるし、髪にも櫛は入ったようだがなんともだらしない姿だ。消沈しているのは、二日酔いのせいばかりではない。
「大使、フロントにお手紙が届いておりましたわ」
「うん」
だるそうに受け取り、差出人を見ては右に左に仕分ける。ダイレクトメールやビジネス関係はジャッキーにまわして処理し、プライベートは親展として読む。
「ん?」
差出人の記載がない一通に、手が止まる。
秘書嬢はそしらぬふりをしていたが、ためらいなく封を切るのを見て、内心は快哉を叫んでいた。
フォースは三回、手紙を読んだ。
「…………」
リアクションがない。
内容は機械印字、署名だけイニシャルでジャッキーがしたが、なにかミスがあったのだろうかと不安になってきたときに、ようやく彼は言った。
「レイカープールってどこだ?」
彼女が教えることがないくらいフォースはヘリオス市のことを知っていたが、地球での教材は古かったらしく、新しくできた道路や橋の知識を彼は持たなかった。老舗のホテルやレストランを知っていても、流行の店などは知らない。
「郊外の、フェーベ湖畔に開発された別荘地ですわ。もう十年、いえ、十二年になるのかしら? リゾートランドが作られてから、人気があるんですのよ」
「ふうん」
中枢区域街からは車で約三十分。疲れない距離にある保養地でもある。
「なんですの? 不動産の売りこみでしたか?」
「いや、ちょっと知り合いが遊びにこないかと誘ってくれただけなんだ」
なにげない様子で手紙をポケットに入れ、他の信書を手にとる。
──かかった!
秘密の手紙を書いた本人の前で、中身をはぐらかしたって無意味だ。
申し分のない秘書としての午後をジャッキーは演じきり、昨晩と同じく早々に帰宅した。すぐにアルハパティに引き返し、物陰から正面玄関を窺う。
地球のメーカーの高級車が停まると、足早に出てきたフォースが乗りこむ。
「初々しいこと……」
タキシードや燕尾服とまではいかないが、ちゃんとスーツを着て出かけるのが、いじらしかった。
エスメラルダが待っているのだ。飛んでいってくれないと、困るのだ。
くすくすと忍び笑うと、ジャッキーはフロントへ寄った。
「これはミズ・ヴィンセント。大使はたったいま外出なさいましたが?」
「まあ、なんてことでしょう。わたくし、大事な書類を置き忘れてしまいましたの。それを取ってくるあいだ、鍵を開けていただけません?」
ホテルマンは人をみるのも仕事の根幹だ。融通は相手次第でどれだけでも、する。
ミズ・ヴィンセントは地球大使の秘書に抜擢された才媛だ。そのうえ、とびきりの美女。優遇するのに、問題はない。
例のファイルは、昨夜と同じ場所にあった。
読まずに全ページをデジタルカメラに収めると、物色の痕跡をかきけしてホテルをあとにする。
実行部隊に住所を知らせてから、プリントアウトした全内容に目を通してジャッキーは考えた。
エスメラルダの本名、咲王緑惟の名字は、咲王辰子の〈咲王〉?
ということは、血縁者なのではなかろうか。
つまり、赤竜の関係者だ!
紅蜃側の手先になど、使えない人材。それとも、フォース以上に弱みを握って従わせるか……。
彼女には判断できかねた。どのみち、エスメラルダをエサに彼をおとすのは他の人間の仕事だ。自分は情報提供に徹して、独断を避けるのもありだろう。
画像を圧縮して転送すると、薄い水割りを手に、ソファーにくずれこむ。
あとは傀儡となったフォースが戻るのを待てばいい。
どんなえげつない説得や脅しが行われようと、ジャッキーの関知するところではない。屈服し、疲れ果てた大使をやさしくなぐさめてやれば、ご機嫌取りには充分だ。
あくる日は、朝昼夕と三度、最上階の部屋を訪ねてからフロントへまわった。フォースは帰っていなかった。伝言もない。
新任の大使が連絡もなく一昼夜留守にするなど、事情を知らなければ不安に思わなくてはならない事態だ。
ジャッキーは警察ではなく、地球大使館へ電話した。
『こちらには来ていないが……』
あまり待たされずに回線を繋いでもらえたハムイ大使はゆったりした口調で言った。
『子供じゃあるまいし、大の男が一晩、帰らなかったくらいで大騒ぎすることもないと思うよ。誘拐ならば、早いうちからそういう動きがあるだろうし、彼はこの街に不案内でもないからね』
ジャッキーとは別の事情を知る者の弁だ。
『とにかく、きみは、今日はもう帰りなさい。明日また、彼の面倒をみてくれたまえ』
いましも、フォースが言葉巧みに、あるいは恫喝をまじえて、勧誘されているとはつゆほども疑っていない。
「……ご指示に従わせていただきます」
通話を終えて、ジャッキーはほっと息をついた。なんて単純なのだろう。こうたわいなくひっかかられると、少しは疑ってくれないのが残念な気がしてくる。
だが、のほほんとしてみせてはいたが、ハムイの打つ手は迅速だった。自らホテルに急行してエフゲニーの不在を確かめると、東尽に電話を入れて行方を訊いたのである。東尽も、アルハパティに駆けつけてきた。
咲王家には来ていなかった。
恵利奈の墓所を訪れた形跡はあるが、その付近にもいない。
気兼ねなく転がりこめる旧知は、ハウザーかラドリー息子だが、夫人には正体を秘密にしているのでラドリー家にも行っていなかった。
そして、ルオが中華街へ向かった。
「いない? ……わかった。戻ってくれ」
主のいない部屋で携帯に報告を受けると、硬い表情で東尽は尋ねた。
「大使館のほうへは?」
受話器を降ろして、ハムイはかぶりを振る。
「やはり、何の連絡もない。身代金目的だろうと政治目的だろうと、要求は必ずしてくるだろうに」
「営利目的ではないと?」
「いまどき、地球大使を誘拐したところで変わるような世の中ではないよ? 人命尊重で身代金を払うにやぶさかではないが、要求がなくては払いようがないね」
「だとすると、彼個人に用があって連れ去った可能性が高くなりますが」
「ワープの関連は、無実だよ。先に確認してある」
「では、トリッケンですか」
ありうることだ。早まって警察に通報しなくてよかったと思いながら、ルオを走らせようと東尽が携帯電話を操作していると、インターフォンが鳴らされた。
「東尽君!」
ドアに出た年配の男の声に目をやると、そこには、噂の映画監督が立っているではないか。携帯をしまい、東尽もドアに歩み寄る。
「「「フォースは?」」」
三人の声が重なる。
ドアの内にも外にも、求める金髪の貴公子然とした姿はなかった。
ジャッキーのストレス袋は大きくなっていた。
実行部隊は無能もいいところだ。ご丁寧に所番地まで教えられていながら、まだエスメラルダを捕まえていないという。
スーリヤ通りのマンションでは、ガードマンの厳しいチェックをかわしてなんとか部屋まで押し入ったが、もぬけの殻だったそうだ。そこではめぼしい情報の断片も、発見できなかった。中華街では、エリアに入るなりストリートキッズに取り囲まれ、ぶちのめされ、建物に近づくことすらできずに逃げ帰ったという。
しかも……カツアゲまでされたらしい。
「まったく」
ため息をひとつもらすと、フォースがいないことなど百も承知で、部屋をコールする。だが、返事があった。
『はい、どなたですか?』
かすれてはいるが張りのある声は東尽のお供の男のものだ。
室内に、東尽普がいる!
ジャッキーは一瞬、計画の破綻を覚悟したが、フォースの身柄は依然こちらにあることを思い出し、気をおちつけた。
「ヴィンセントです、おはようございます」
度胸は演技派女優に匹敵する。
「遅くなりまして申しわけありません、大使。お客さまがおみえですのね」
開かれたドアの中へ、台詞を投げるとキチネットに向かう。まずはお茶くみだ。
「すまないね、ミズ・ヴィンセント」
ハムイのほうに顔を向け、そこでやっと気がついたふりをする。
「あ、の……ティラーデス大使は?」
フォースがよく寝転がっているソファーにハムイが座っていた。東尽はその右角、ドア近くにルオ、ここまでは彼女の予想どおりのメンバーだ。ところが、窓辺にもうひとり、いた。
ハムイの顔を見て、話を聞かなくてはならないのに、どうしてもジャッキーは視線をそちらに動かしてしまう。
ノーネクタイなのに、ハムイや東尽よりもよっぽどきちんとした印象。ジャケットの着こなしが、うまいのだ。襟首でくくられた長髪が、ノーブルだ。サングラスで顔が隠れているのが惜しいが……相当なハンサムなのはまちがいない!
美形には慣れているジャクリーヌが、見とれてしまった。
「う、ん。昨夜も帰らなかったのだよ。そこで、よく思い出してもらいたいのだけど、彼はどこかに行くとか誰かに会うとか、そんな話をしていなかったかね?」
「……いいえ、お話があればプライベートでもスケジュールに組み入れますから。わたくしはうかがっておりません。ご予定も、今夜、ハムイ大使のお宅でディナーをなさるだけでした」
システム手帳を開いて説明する。
「あ……」
いま、思い出したように続けた。
「お知り合いから、レイカープールへのお誘いを受けたとおっしゃっていましたが」
「レイカープール? 誰かね?」
「そこまでは。フロントに届いた私信でしたので。シーズンはまだ先ですし、ご指示もなかったので、大使もまだ決めてはいらっしゃらなかったのでは……」
「レイカープールか」
「あたらせましょう」
東尽に目礼して出ていこうとした男に、あのひとが声をかける。
「ルオ」
あまり男くどくなくて、中性的ないい声だった。
うらやましいことに、ルオは息のかかる距離で彼と何事かをささやき交わしている。
「じゃあな」
ルオを送り出すとそのひとは、ジャッキーに近づいてきた。
「ミズ・ヴィンセント」
サングラスに手をやる。彼女の鼓動が高鳴った。
やっぱり、素顔もすてきだ!
あきらかに年下に見えたが、一目惚れの妨げになるような障害では、ない。
「先日は、ありがとう」
「え?」
さっぱりとした笑顔でリュイは言った。
「エスメラルダ・グリーンです。記者から、逃してもらったでしょう?」
「ええっ?」
まぬけな実行部隊はなにをしているのかと、苦々しく思っていた気持ちがどこかへ吹っ飛んだ。美女を捜していて、見つかるはずがない……。
詐欺だ。
この、ジャクリーヌ・ヴィンセントの心をあっさり奪い、地味な男性秘書を相手に身悶えんばかりの嫉妬に駆らせた若者が、エスメラルダだとは!
恥ずかしくて、目の中まで真っ赤になる思いだ。
なのに、なぜ、自分はこの美しい顔から、意識をそらせないのか!
「失礼」
突然、ジャッキーはエスメラルダに身体を引き寄せられた。やさしいが、抗えないリードで彼女をソファーへ座らせる。
「顔色が、よくない。フォースを心配されているのですね」
明るく澄んだエメラルドの瞳に、ジャッキーはフォースのまなざしを思い起こす。彼に見つめられているみたいだ。
「そんな、あなたのほうこそ、心配で、ここまでいらしたのね、ミズ・グリーン。もしかして、昨夜からずっと?」
「ええ、まあ」
ルオと前後してジャンクⅢへやってきたショウから怪しい連中が中華街に入りこもうとしていた一件を聞き、自分を追うマスコミと推測して、アイリンに迷惑がかからないように姿をくらます意味もあったのだが……。
「あの……大使とあなたは……」
いつの間にそんな仲になっていたのか。
彼女たちのマークが及ばなかったのは、あのパーティーの夜のひとときだけだった。
「腐れ縁、になるのかな」
またしても、エスメラルダのさわやかっぷりにジャッキーはうっとりする。
「切れるものなら千切りにでも乱切りにでも、してやりたいような縁」
「そんなことを言ってはいけないよ、緑惟。恵利奈が悲しむ」
「すいませんね、大使。少々、疲れているようで」
仮眠はとったが良質の眠りではない。
いらいらするのはカルシウム不足かもしれないが。
「よろしければ部屋を用意させますが?」
「結構だ。こんな目立つホテル、すぐにアシがつく」
東尽への遠慮のない物言い。こちらの仲も、どうなっているのだ?
「でしたら、わたくしの家でお休みになりませんか?」
気がかりなとば口が、エサをねだる雛鳥のように次々とぴーぴー開きまくるが、最初に黙らせるべき口をジャッキーは見きわめていた。
「それはいい。フォースがいないのに詰めていても、しょうがないし、彼女についていてくれると安心だ。お願いできるかね、ミズ・ヴィンセント」
「はい。派遣主には、わたくしの都合で早退すると連絡いたしますわ」
電話をかけるために席を外す。自然な行動である。だけど、彼女がキチネットから携帯で話したのは、別室でホテルを監視していたグループだった。
「エスメラルダを発見したわ。地下駐車場へ誘い出すので、うまくやってちょうだい」
そのころ、リビングではキチネットへのドアを見ながらリュイが訊いていた。
「なあ東尽、企業がやつに秘書をつけるメリットってなんだ? ハムイ大使には、つけなかったよな。それにおまえのとこも、出遅れてるわけじゃない」
「彼に? 意味がありませんね。地球全権大使に利便を図っていただくほど我々のビジネスが脆弱だと、思われますか? それに彼は、圧力に屈する人間とはいえませんし」
「それを知らないどこかだね」
「つまり、なめられてるってことか。鈍くせぇやつ」
善良が服を着て歩いているようなハウザー・ハムイ以上に与し易しと見られるとは、とんだ人望だ。
「お待たせいたしました」
ジャッキーが来たため、先は続けられなかったが東尽はリュイの意を汲んだ。
私設秘書の雇用主を洗え!
彼には存外だが、あるいは動機はそこかもしれない。
再びサングラスで白皙を覆ってリュイは金髪の女性と部屋を出た。エレベーターで地下まで、降りる。
「ちょうどよかったですわ。今日は車で来ましたの」
停めてあるのは別働隊の車だ。位置は知っていた。そこまで歩くあいだの時間を、ジャッキーは堪能した。自分がそばにいなければ、エスメラルダだとわかりようもないみごとな男ぶり。恋愛嗜好はノーマルなのに、彼女の胸はときめいている。
いっそここに車なんかなければいいのに、そう思ったとき──。
ぐしゃっと何かがつぶれるような音がした。
「きゃ……!」
悲鳴をのみこむ。
彼女たちの背後から接近していた男の顔面に、リュイの裏拳がぶちあたっていた。すかさず膝がすくわれ、男は臀部をコンクリートに直撃させる。
薬品を染みこませた布が手から放れるほど、すさまじい衝撃が突き抜けた!
「くぬぅう〜ん!」
たまらず鳴いた口元に、拾った布を押しつける。一名さま完了、だ。
「このっ」
はかなく倒れるエスメラルダの足を持つ担当(予定)だった男が飛びかかってきた。横にかわし、前かがみになった頭部に脚を思いっきり振り下ろす。これで、二名さま。
「踵落としかよ……!」
慄然とした声に、平然と返す。
「ふたりだけか?」
「俺の見たとこはな」
車の陰からルオが出てきた。レイカープールへは、行かなかったのだ。
エスメラルダが彼と話していたのは、この打ち合わせだった!
もはや、言い繕う気力もなかった。
「ミズ・ヴィンセント」
座りこみそうになる彼女を、リュイが抱きとめる。
「事情を話してくれると、ありがたいんだけどな」
甘くて苦いささやきが耳朶をかすめた。
気がつくと、フォースはセミダブルベッドの真ん中にいた。
着衣のままで靴まで履いている。
白い壁の正方形の部屋には他に人影はない。窓には厚いカーテンが引かれ、昼なのか夜なのか、明かりがついているので判然としない。
頭の奥に鈍い重さがあった。
麻酔剤を使われたからだ。
最後の記憶は車の中だ。手紙に書かれた時間どおりにホテルに現れた高級車は、首相官邸前を直進してから右へ曲がった。彼の予習では、手前を左だった。で、道が違うと言おうとしたとたんに薬をかがされたのだ。
「やっぱ、偽物かよ」
がっかりしたようにつぶやく。
E・Gの署名入りの手紙での呼び出しなど、咲王緑惟は必要としない。あれは用があるときは自分から会いにくるタマだ。彼にはわかる。
そして、彼女の名を使って彼をおびきだせるのは……。
「皮相すぎるぜ、ジャッキー」
ジャクリーヌの雇用主がしかけたのなら、とりあえず目的は彼の生命ではない。身代金もいらない。こちらが「うん」と言わないかぎり解放するつもりはないのだろうが……就任式に間に合うあいだは、退屈しのぎにつきあってやってもいい。
靴と上着を脱ぎ、彼はまた眠った。
次に目が覚めたときも室内は明るかった。カーテンを開けるとまぶしい陽光が射るように注がれてくる。午後のようだ。
窓は一方にしかなく、開かなくされていた。ガラスにくっついて外の様子を観察してわかったが、彼がいるのは角部屋だった。窓の下は垂直な壁で地表はかなり遠い……三階くらいか。隣接する建物は見えず、広い芝生をへだてて林に囲まれているらしい。視界に湖はないが、ここはレイカープールだろうか?
ドアはふたつで、ユニットバスのほうへは行けるが、もう片方には鍵がかかっていた。
「誰かいないか?」
無駄だろうなと半分はあきらめながら、扉を叩く。
テーブルに軽食が用意されていたが、食べる気にならなかった。空腹でも、何を盛られているかわからないものは口にしないのが賢明だ。
「要求は明確に、適切な言葉で、表現すること!」
言い放ってベッドに戻る。隔離期間のおかげで、暇つぶしは得意なのだ。絶食と不眠が拷問では有効な手段らしいが、そのふたつが許されている状況で彼をおとそうとは、甘い考えだ。
しばらくして、ドアがノックされた。人相を隠すつもりがないのか、サングラスすらかけていない男がひとり、入ってくる。スーツを着ているが、ビジネスマンというよりはマフィア系のニュアンスが濃い。フォース拉致監禁の黒幕ではなく、実行犯の責任者か。
「……べつに毒は入れてないが」
男はテーブルを見て笑った。
「ダイエット中なんだ」
フォースは男を観察しながら言った。銃とか、持っているのかな。
「自分がここにいる理由を、よくわかってるって顔してるなぁ?」
それ使って脅迫とか、するのかな。
「まあ、だいたいは」
わくわく、わくわく。
「で、絶対、言うことなんかきかんって顔だなぁ?」
おっと、意外と冷静だ。
「んー? ナンセンスだとは思うね。昨今、地球大使と結託したって、長崎奉行に賄賂を贈って密輸に精出す悪徳商人よりも儲かんねぇんじゃねーの?」
「なんだそのナガサキブギョウってのは」
「大昔のな、地球には閉鎖的な国があったんだ。そんでその国で唯一、対外貿易をやってる港が長崎ってとこにあったんだ。長崎奉行はそこの長官で」
自己流にダイジェストした歴史講義を真面目な顔でしてしまう。地球の文化が歪曲して伝わることなど、ぜんぜん、斟酌していない。
「賄賂ったって、ケチな金額じゃないぜ?」
「いまのところ金には困ってないし」
弔慰手当は返還したが、特にぜいたくをしなければ標準報酬で生活は成り立つ。
「んじゃ、女。すこぶるつきの美人を紹介するぜ」
「不自由してない」
最愛のひとがこの世にいないからといって、そう簡単に心が移せるものか。
「宝石みたいな美女でも?」
言い方に含みがあった。
「……エスメラルダか?」
「へぇ?」
男の猶然とした表情に、しまったと思うがもう遅い。
「彼女、心配だよなぁ大使。うちのボスとの協定にサインしてくれたら、きっと無事に、会わせてあげられると思うんだが」
代わりに、今度はその協定書が彼を脅すネタになるのだ。
エスメラルダに関心があると、ジャッキーに知られたのはまずかった。
にわかに芽生えた父性愛のようなものが彼の自由意志を縛る。
「……いいだろう。 ただし、彼女に会ってからだ。名前を聞いただけでほいほいサインするような清純派だとは、思ってないよな?」
「お説ごもっともで」
男はうなずいた。しかし内情は少し困っている。この時点で、彼らはエスメラルダを確保できていなかった。
フォースはそこにつけこんだ。
もしかして、彼女は捕まっていないのかもしれない。東尽がついているのだ。ブラフをかけられていると踏むべきだ。
「では、彼女が到着するまで暫時お待ちを。女ってぇのは仕度に時間がかかるものなんで、まあ大目に見てやってくれ」
「ここにいないのか?」
「別の場所にいるよ」
これで半日はもたせられる。
「あんた、名前は?」
「フィル・ドレイク。中枢区域街で会ったら、知らん顔したほうがいい。裏商売が専門なんだ」
東尽にくっついているルオよりもヤバ系の、紅蜃グループの暗闇部門専任だ。本職のマフィアとの差はあってなきに等しい。
「じゃあ、そういうことで。明確に伝えられて、おれもうれしいぜ」
フォースはうれしいとは思わなかったが、彼のことを憎いという気持ちもなかった。どことなく人なつこい感じが、ハウザーに似ている。というより、犬っぽい?
「おーい、雑誌かなんか、ないか?」
ドレイクが出ていったあとになってから思いついて、再びドアを叩いた。
どうせ待たされるなら、娯楽があったほうがいいに決まっている。
「ほれ、今度はちゃんと食えよ」
週刊誌や新聞とともに、湯気のたつ食膳も届けられた。冷えてかたくなった前の食事を片づけるドレイクの口元が、いびつにゆるんでいる。
「あァ!」
意味ありげに付箋がついていたページを見て、フォースは叫んだ。
「なんだこれ! すっかり忘れていたぜ」
見開きいっぱい、写真だった。
黒髪と金髪の人物のキスシーンは微笑ましくもほっぺにチュウ。
端っこに写る女の子の目元は黒線で隠されている。
「あんた、バイなんだな」
「ちっがーう! 俺は男は好かん。どこ見てやがる、相手はこんなにきれいな女性じゃねぇか! よく見ろ、この完全無欠な美しさをっ。エレガントだろう。マーヴェラスだろう。王女さまみたいな気品があるだろう!」
「おいおい」
ドレイクはなまぬるい視線をフォースに向けたが、その執着ぶりに雑誌を取りあげ、凝視する。
「まさか……エスメラルダなのか?」
「美人だろう?」
うちの子は誰よりもかわいい……親馬鹿の徴候が出てきていた。
「熱愛中か?」
「まだ片想いかな……」
あらゆる弱みは彼のほうに、ある。
── いとしのはにー ───────
カツアゲも犯罪です。
良い子も大人も真似しちゃいけません。